▼ もう僕の出る幕はない

 


「詩雨(しう)っ――!!」

彼の声が響いている。
甘くて低い、大人な声の持ち主だった。
その後、水の音が聴覚と肺を支配して僕を段々と沈めていく。
苦しい。苦しい――。

冷たい氷のような海は、僕の命を一瞬で呑み込んでいった。


暖かな季節になった。
太陽は柔らかな陽射しを地上に注いで、キラキラと海原を照らす。
それでも海は未だに冷たいまま、安易に温むことはない。手を入れた瞬間に感じる痺れるような冷たさは、生前に感じていたものと何ら変わらないようだ。

人は死んだ場所に未練があれば、そこに縛られると聞いたことがある。
「自縛霊」になって、ずっとその場所でただ時を過ごすと。
だけど僕は違った。「場所」じゃなくて、「ひと」に未練を残してしまった。

「ここに来るの、何年振りかな……」

『三年振りだよ、伊織』

鮮やかなコバルトブルーに輝く海原を見つめながら伊織がぽつりと呟く。それに僕は聞こえないとわかりつつ、答えた。
僕が死んで、もう三年。あっという間に過ぎた年月だった。

僕と伊織は、高校時代からのクラスメートだ。
最初は僕が一目惚れした。同性しか愛せない僕は、伊織の人当たりのいい柔らかで優しい雰囲気が大好きで、陰からずっと見守っていた。告白なんて、考えたこともなかった。
伊織は普通に女の子と遊んで、付き合って、僕なんて見向きもしないと思ってた。気持ち悪いとか思われたら、それこそ立ち直れない。臆病な僕は、そうやって伊織への感情を圧し殺した。
でもそれは杞憂だったんだ――伊織も、僕を見ていたなんて、ずっと気になっていたなんて。言われた時は心臓が痛いくらいに高鳴った。

『伊織から告白された時は、とっても嬉しかったよ――』

港から海を一心に見つめる伊織に、僕は語り続けた。

あの時――旅行中に乗ったフェリーから誤って落下した時のことを思い出す。
必死になって僕の名前を叫ぶ伊織に、僕は辛くて悲しくて仕方なかった。
僕がもう少し気を付けていれば、こんなことにはならなかった。引き揚げられた僕の遺体にすがりついて咽び泣く伊織の後ろで、死んでしまった自分の体を見つめながら、僕も同じように泣いた。

もう伊織に触れられない。
もう伊織とキスも出来ない。
もう伊織に話し掛けられない。

伊織が僕の世界の中心だった。
そして彼も、僕が世界の中心だった。

『今でも好きだよ、伊織……だけど、君もやっと幸せになれるね』

僕は穏やかに笑った。
僕が死んでから、伊織は自暴自棄になって会社を辞めて、ひどい暮らしをしていた。
お酒に溺れて、僕を思い出しては泣き続ける日々。
傍に居るのに、一緒に居るのに、何も出来ない自分に腹が立って、僕は益々彼から離れられなかった。
でもそれも、やっと終わりが見えた。

伊織に、新しい恋人が出来たからだ。
最初、僕はそのことに悲しくなった。
どうして、隣に立つのが僕じゃないんだろう?
どうして違う人なんて好きになるの?
僕はまだここに居るのに……。
辛くて辛くて、段々と立ち直っていく伊織に怨みを抱きそうになった。
僕は死んだのに、伊織だけが幸せになっていく。――そこまで至って、僕は漸く自分の愚かな感情に嫌悪した。
僕はもう、伊織を幸せに出来ない。話し掛けることも出来ないのに、そんな感情を持つなんて。

『やっと、心の整理がついたから君もここに来たんだよね。僕もそうだよ……』

もう僕の出る幕はない。そう思った。
やっと、思えた。
伊織ともっと一緒に居たかった。伊織ともっと楽しい時間を過ごしたかった。
それはでも、叶わない。だから僕は決心した。
伊織もそうなんだろう。真剣な目を海に向けて、唇を開いた。

「詩雨……おれ、今までずっとお前ばかり追いかけて生きてきた。これからもそれは変わらない。愛してる――」

『伊織……』

「でも……それでも、俺は前に進まなきゃいけない。だから、俺は今を一緒に生きてくれる人を、大事にすることにした――許してくれ」

『うん……うん、そうだね……』

「詩雨……詩雨……有難う」

『僕も……愛してる、伊織。有難う……』

伊織が、手に持っていた花束を海原へ勢いよく投げた。
鮮やかな色彩の花弁が海面に散って、ゆらゆらと波に揺られて流されていく。
僕は踵を返して去っていく伊織の後ろ姿を見つめる。
体が軽い。消えていくのがわかる。

『愛してる――』

僕が囁いた刹那、伊織が振り返る。
驚いた表情でこちらを見ている彼を視界にうつしながら、僕は静かに微笑んだ。


End


有難うございました^^*


黒屋オセロ



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