▼ 首無稲荷


「あそこにな、稲荷の神社があるやろ。そこのお狐様は首が無いんやて」
 ぷかり、ぷかりと煙管をふかして、とても愉快だという風に男は言った。
男の指差す方向には、大きな御屋敷に挟まれるようにして、稲荷神社が建っている。朱塗りの鳥居が立派で、平入りの拝殿も豪奢な造りをしていた。
下町で見かける質素なお社とはまったく違う雰囲気は、どこか不気味な印象を受ける。
まるで朱色を塗ったばかりのような真っ赤な鳥居と拝殿、その間に異様な存在感を醸し出して鎮座する二匹の首のない狐は、首がないのにこちらを凝っと見ている気がした。
「なんか、不気味だね……」
 ぽつりと僕がそう言えば、彼はくつくつと笑って、また煙管をぷかりとふかした。
「でもな、あそこはここの住人には特別な場所やねんて。なんでも、この町が飢饉に遭わんのも、なんの憂いがないんも、あの首のないお狐様のお陰なんやと」
「どうしてなんだろう」
「そら、あそこのご本尊がこの町を守護してくれとるんやろうなぁ。……まぁ、どんなお供えもんを要求してるかは知らんけどな」
 ぽつりと落とされた言葉は曖昧で、僕は思わず隣りの相手を見上げた。
「え?」
「ん、なんもないよ。ほな、行こか。依頼主さんがお待ちやで」
「う、うん……?」
 しれっと僕の問いをはぐらかして、ずんずんと彼は道を進んでいく。不気味なくらい背筋の整った彼の背中を、慌てて追いかける。
人気のない道はどこまでも続いているような錯覚に陥る。ずうっと、先の見えない道の両方にお屋敷が立ち並ぶ様は、まるで出口のない延々とのびる一本の道のようだ。
先を歩く彼の煙管から、時折ぷかりぷかりと紫煙が昇る。甘ったるい匂いが昔から苦手で、よく彼に文句を言っては嫌味を返された記憶が甦った。
そんな匂いにも、いつの間にか慣れてしまった。
それだけ、彼と過ごした時間が長いのだと気づいた時から、僕の中には複雑な感情が渦巻いている。それは名前を付けるとふっと消えてしまいそうな微かなもので、はっきりと自覚してしまえば霧散するようなもので。
僕はそっと、その気持ちに蓋をする。
意識しないように、目を背ける。

※ ※ ※

「御免下さい」
 だだっ広い玄関先で、彼――無花果(いちじく)の声が虚しく響く。 兎に角、僕たちが辿り着いた屋敷は広く、殺風景で、物悲しい雰囲気だった。
 蚊取り線香の煙たい匂いが漂っている。
いまだに夏の暑さが残る外とは違い、玄関の内はひんやりと冷たい。大きな沓脱石の先には黒光りする床が続き、地味な屏風で隠された先には真っ直ぐ廊下が伸びている。昼を過ぎた明るい時間だというのに、廊下や玄関先は薄暗く、陰気くさい。
ぼうっと白く見える無花果の後ろ姿に目を向けていると、やっと屋敷の奥から幽かな声が聞こえてきた。女性の声だった。線の細い、病弱そうな女性が滑るような歩みでやってきて、ぺこりと僕たちに会釈する。
「お待たせ致しました。花果(かか)商店の方でしょうか?」
「そうです。こちらのご主人に乞われまして、参上しました。花果商店、店主の無花果です」
 外面がとても良い無花果は、女性に向かって丁寧な口調で名乗り、笑った。先ほどの嫌味な笑みは何だったのか――そう思ってしまうほど、目の前の男は別人に見えた。
女性はここの主人の細君で、名前を稲というらしい。前妻が亡くなったあと、主人に見初められてこの屋敷に輿入れした後妻で、元は大店の御嬢さんだったと、無花果は驚くほど簡単に細君からそれだけのことを聞き出していた。
「こちらです」
 細君に案内されたのは、中庭を一望できる一室だった。
新しい畳の匂いがする。ひんやりとした空気に包まれた座敷は、広いだけでひどく殺風景で味気ない。机もなにもない、座布団さえない冷え冷えとした空間は、お客を迎えるにはいささか無粋な場所に感じる。しかし、僕と無花果はお客というよりは、依頼された側の人間である。この場合、どちらかといえば、この屋敷の主人の方がお客になるのだろうか。
中庭はよく手入れされている。鬱蒼と茂っているようで、洒落た配置で植えられた樹木は暑い熱気を孕みつつ、じっと庭に鎮座している。蝉の合唱が五月蠅く耳に纏わりつく。座敷の涼しさと相俟って、違和感のある光景と音の洪水に眩暈がした。
「坊(ぼん)、大丈夫か?」
 細君が主人を呼びに出て行った途端、無花果の化けの皮が剥がれ落ちた。皮肉な笑みを口元に昇らせて、ふらつく僕の腕を強引に引っ張る。眩暈が続く視界がぐらりと回って、端正な無花果の顔が大写しになった。
「すごいなぁ、ここ。霊場みたいな気を放っとる。これやったら、主人が怖がるんも頷けるわ」
「そんなに凄いの」
「俺やったら、こんな屋敷すぐ売り払って違う場所に住むな」
 無花果の視線が薄らと熱を帯びる。こんな目をする彼は、決まって面白いことに出くわした時で、この依頼もかなり面倒なことになるのでは――と僕は不安になった。
無花果が愉快だと思うものは、ほとんどが難解で不気味で、得体の知れないものや出来事だったから。
逢魔が時を少し回ったくらいの時刻、中庭は橙色の光と濃い陰に彩られる。緑豊かに青々としていた光景はまったく違う様子に変化し、不気味な昼と夜の間を漂っている。
無花果に強引に引っ張られ、僕は何故か彼の膝に頭を預けて畳の上に横になっている。
他人の家でするにしては、まったく非常識なことだと思ったのだけれど、無花果が起き上がることを許してくれない。この恰好で主人がもし、この座敷に入ってきたらどうしてくれるのか……落ち着けるはずもなく、眩暈でぐらぐらする視線を真っ直ぐ中庭に投げかけた。
「旦那さん、遅いなぁ……」
 無花果がぼやいた。
ずるり、僕の視線の先で影が蠢く。
「この屋敷はな、坊。昔から首無稲荷さんを奉ってきた宮司の血筋なんやて」
 ずるり、ずるり。ずる、ずる。
影がゆっくりと僕の目の先でカタチを成していく。
「首無の稲荷さんが、何を欲しがるか……坊はわかるか?」
 無花果の吹かす紫煙がゆうらり、僕の目の前の影に重なった。
それは、狐のお面を被った少年だった。
「五歳くらいの男の子をな、生贄に欲しがるらしいで。ほら、ちょうど――坊の目に映ってるような、」
 少年の被った狐のお面が緩慢な動きで顔から落ちていく。目線を上げて、僕は少年の顔があるはずの「空間」を凝視した。
その少年には、頭≠ェなかった――。
「首と胴を切り離して、祭壇に置くらしいわ。それで、このお屋敷町の繁栄を保つ。結構なことやないか」
 無花果の言葉はまるで空虚だ。本人だって、本気で言っている訳ではないのだろう。
「でもな、そんなことをすれば稲荷さんが本物の祟り神≠ノなってしまうんは分かりきったことやのにな」
 穢れを蓄積していった神は、狂い病んで、いずれは祟りをなす。恩恵と同時に、色んな代償が降りかかる。
頭のない、体だけの少年は中庭に立ったまま動かない。少年の影だけが、ずるずる、ずるずる――と、硝子戸まで這い登ってきていた。
「無花果、」
「わかってる。俺らは、これの為に呼ばれたんやからな」
 僕の頭を容赦なく膝から落として、無花果は水を得た魚のようにすっくと勇ましく立ち上がる。着物の袷から違う煙管を取り出して、先に何やら隅で文字が書かれた和紙を詰め込んだ。それに素早く火をつけて、一気に吸い込み、煙を吐き出した。
緑色をした煙は、もくもくと勢いよく硝子戸に向かっていく。その瞬間、僕はふらつく頭を持て余しながらも、硝子戸まで走ってそっと左右に押し開いた。
煙がその隙間を通って少年へと一気に纏わりつく。
「ようやった、坊」
 無花果が僕の頭を乱暴に撫でる。子ども扱いが腹立たしくて、僕はその手からするりと逃げて座敷の方へと走った。この後は、僕の出番はない。無花果がすべてを終わらせるまでは、僕は視界を中庭ではなく出入り口の障子へと移した。
そこで、僕の視線は凍りつく。
「……」
 障子の隙間から、細君がじっと部屋の中を覗いている視線と目が合った。その視線――否、片目は異様なほど吊り上がり、まるで狐のような長細い目に変化している。小さな幽かな声で何かを呟き、こちらを瞬きもせずに凝視している。僕はその声に耳をすます。深閑とした空間で、無花果の吐き出す緑色の煙だけが視界を濁らせる。じっと、動かずに聴覚を研ぎ澄ませる。――やっと聴こえた細君の言葉に、僕は背筋が寒くなった。

「わたしのぼうやわたしのぼうやわたしのぼうやわたしのぼうやわたしのぼうやわたしのぼうやわたしのぼうや――」

「無花果!」
「そっちもかいな……」
 無花果の煙管を吹かし過ぎた掠れた声が響く。燃え尽きた和紙の滓をこん、と近くにあった石にぶつけて取り除き、新しい和紙を詰め込み、再び火をつける。中庭にいた頭のない少年は消えていた。恐らく、無花果が仕事をやり遂げたのだろう。陽炎のような気配の余韻だけを残して、少年の穢れは見事に昇華されていた。
無花果の煙管から、今度は青い煙がもくもくと上がる。生臭いにおいが鼻を突いて、僕は慌てて座敷の隅っこに避難した。無花果の細い目が更に細められる。じっと障子の隙間から見つめ続ける細君をとっくりと眺めて、漸く彼は得心がいったように頷いた。
「坊、やっぱりあんた凄いわぁ。その目≠ェあんのに、なんで修行せんのか疑問や」
「やだ。これ以上は無理」
「ま、坊はそのまんまでおったらええわ。俺が傍におったらええことやしな」
 無花果がにやりと笑んで、僕の動揺などお構いなしに、細君に煙の雨を降らせた。
無花果の吹き出す煙には言霊が宿るのだという。彼はそういう家系の生まれで、幼い頃から才能に恵まれていたらしい。家の傲慢な態度に嫌気が差して、こうやって個人で祓い屋をやっている。表立っては万屋の看板を出し、信用できる贔屓客にだけ裏の顔を見せる。
細君が青い煙に纏われた途端、獣のような呻き声を上げて苦しみだした。障子を破り、座敷に転がりこんで、のた打ち回る。咽喉を掻き毟り、腹の底から出しているであろう悍ましい絶叫に、僕の身が嫌悪で竦んだ。身体の芯から凍りつくような、不気味で恐ろしい声――。
「坊、硝子戸を閉めるんや!」
 無花果の鋭い声が僕の金縛りを解く。急いで硝子戸を閉めれば、無花果が放ったお札が硝子戸の合わせ目に貼り付いた。細君が血走った目で突進してくる。僕は寸での所で躱して後ずさる。細君は煙から逃れようとしているようで、頻りに硝子戸を開けようとしている。異様に伸びた爪でかりかりとお札を剥がそうとしているけれど、お札に触る度に皮膚が真っ黒に焦げていく。見ていて気持ちのいい光景ではなかった。
「穢れを置いて、去れ。疾く去れ。浄化して奉る。元の場所へ帰れ。疾く帰れ!」
 無花果の研ぎ澄まされた言葉が飛ぶ。僕の目線の先を何か光のようなものが通って、苦しむ細君の周りを巡る。それが段々と膨張して、眩い光の柱になったと思えば、急速にその光は縮んでいった。――あとに残っていたのは、青い煙の残滓。それと、細君のいた辺りに無数の獣の毛が落ちているだけだった。

 ※ ※ ※

「え……奥さんなんていない?」
 思わす僕は素っ頓狂な声を上げてしまった。
「坊、また何か見たんか。道理でぼうっとしとると思ったわ」
 無花果が愉快げに笑う。
あの騒動のあと、漸く姿を現した主人は、今までの経緯もなにもなかったかのような態度で、無花果の仕事を絶賛した。
よくぞ、よくぞ我が家に訪れた呪いを消し去って下さいました。これで再び、生まれ変わったような心持ちで首無稲荷様をお祀りできます――。
そう言えば、主人の口からまったく細君の話題が出ないのはおかしい。己の最愛が憑かれていながら、それを完全に無視して――あまつさえ、先ほど無花果の手で昇華されてしまったのだ。そのことを一切話題にしないというのは、とても不気味だった。
それが、細君は本当はいなかったのだと言われれば、納得がいく。
「無花果には、何が見えていたの」
「玄関で、ここで働いてるらしい使用人さんに中庭に面した座敷に行ってくれって言われてな。案内もなかったわ。そこに出る≠チてみんなわかっとったんやな。それで廊下歩いとったら、坊がぼんやりしたまま知りもせぇへんお屋敷するすると奥まで進んで、あそこの座敷まで行ってもたんや。そっからは、多分坊とおれは同じものを見たはず――」
 あの座敷に入るまでの出来事全部、僕が見ていたものはまやかしだったのか。幻覚? それとも、僕だけに何かが訴えかけていたのだろうか――。
「坊には女に見えてたやろうけどな、おれにははっきり大きな六尾の狐≠ノ見えとったよ」
「狐……じゃあ、稲さんは――奥さんと名乗ったのは首無稲荷の狐だったの」
「いやーー坊が見たんはほんまに稲≠ウんやったんちゃうかな」
「え?」
「旦那さんに訊いたんやけど……稲さんいう女の人、ほんまにおったらしいわ。けど、旦那さんの奥さんやなくて、祖父の後妻さんやったらしい。やっと出来た息子を五歳になた途端に取り上げられて、稲荷の生贄にされてもうたらしくてな――それ以来、気が狂ってずっと座敷牢暮らしやったみたいや。その間もわたしのぼうや≠チて、言い続けて死んだらしい……」
「……」
 苦悶の心、痛い痛いと訴えるもの――僕が感じたものは、どうやら本当のものだったらしい。
成仏できない細君の魂に、穢れた祟り神が憑りついてしまった。
己のせいで彷徨う魂になってしまった母親を見かねて、あの少年は中庭にずっと佇んでいたのだろうか――。
「安心しい、坊。今頃、二人で輪廻の旅路に向かってるやろう」
 無花果の笑みが穏やかな色を帯びる。始めてみる彼の顔に呆気にとられて呆然としていると、彼の手が僕の頭に伸ばされて優しく撫でられた。
「おれの反面やな。真逆であるからこそ、おれらは一緒におれるんや」
 意味深な台詞を吐いて、無花果はさっさと僕に背を向けた。
今日はたんまり礼金を貰ったので、無花果は馴染みの飯屋に寄って、贅沢にも鋤焼をご馳走してくれるらしい。牛肉なんて久しぶりに食べる。僕の気持ちも自然と高揚した。
「無花果、」
「ん?」
「これで、ここは当分安心なの」
「そうやなぁ……少なくとも、おれらが出ていくまでは安心≠ナいてくれるやろ」
「えーー」
 僕の後ろで、不気味に狐の鳴き声が「こぉん――」とこだました。


 畢


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