▼ 笑顔が見たいだけなんだ




 すべてが、赤に染まっていた。

 見渡す限り、赤、赤、赤、赤――。それ以外は何もない。ただひたすらに、視界の中に飛び込んでくる。色彩が麻痺した空間。
 指を動かすことすら億劫で、瞼や顔に貼り付いた糊のような液体を拭うことも面倒だ。
 人間の体の中には、こんなにもぬめぬめとしたものが流れているのか……自分の中にも、流れているのか。
「気持ち、悪い」
 腕を、首を、掻き毟る。真っ赤に濡れた服から覗くすべての肌を掻き毟って、すべて出してしまいたかった。自分の中にもこれと同じものが流れていると思っただけで、全身に怖気が走る。気持ち悪くてたまらない。全部全部出し切って、このまま意識を失ってしまいたかった。
 すべて、どうでもいい。自分という存在も、この空間の有様も、すべて。
 思い出したくない記憶が蘇りそうになって、手首を引っ掻く力を強くした。がりっと尖った爪で掻いた場所から、珠となって赤い雫が浮いてきた。
 どうして、自分にはあれが使えないのだろう。あれさえ自分に向けてしまえれば、呆気なく死ぬことが出来るのに。
 いっそのこと、捕まってしまおうか。苦しんで苦しんで苦しんで、死んでいくことこそが自分への罰のような、気がした。
「よせよ、綺麗な肌が台無しじゃないか」
 いつから、部屋の中にいたのか――驚きはなかった。
 低い声が響いて、手を強引に掴まれる。無数の引っ掻き傷からはとめどなく赤が流れて、赤に赤を重ねていく。
 声の主は背が高く、灯りの影になって顔は見えない。赤をずっと見つめていた所為で、視界にちらほら赤い点が散らばっていた。
 黒い東洋の着物と、ブーツというおかしな恰好の彼に腕ごと持ち上げられて、引っ掻き傷に舌を這わされた。
「……っ」
「ふーん、成程。お前の力は念糸≠ゥ。自分のオーラを細い糸状にして操れる――視覚に捉えることが出来る者は少ないだろうな」
 唇を舐める赤い舌。妖しく滑る色に気を取られる。腕を掴まれたまま、相手の焔のような瞳に見惚れた。
 赤とは違う、橙と朱色が混じった色合いは見つめている内にどんどん色彩を変えていく。ちろちろと燻る燠のように揺らめく色は、彼の感情を少しも窺わせない。
 髪も瞳と同じような色彩で、見る角度によって色が変化するのが見ていて楽しい。ざんばらで雑な髪型のはずなのに、彼の端正な容貌にとてもよく似合っていた。
 先刻まで、自分の命も他のこともどうでもいいと思っていたのに。己の腕を掴んで離さない相手によって、死んでいた心が再び息を吹き返す。
 じっと視線を臆することなく見つめる。感情の読み取れない瞳は、見詰めていると気持ちが静かに凪いでいく。この人は、一体誰なんだろう。
「ここで、いますぐ決めろ。じゃなきゃ、お前は間違いなく死ぬ。俺と一緒に来るか、逃げるか」
「逃げる?」
「まあ、実質逃げても同じことだと思っていい。お前みたいなひよっこが、自分一人の力で逃げ切れるわけがないからな。政府の能力封じに長けた奴らに抑え込まれて、研究所送りが待ってるだろうな」
 研究所は、死ぬより辛い所だ――彼は無機質な声で付け加えた。
「お前が生き残る可能性があるのは、俺と一緒に来ることだけだ。俺の下で働けよ、どうせやることなんてないだろ?」
「見ての通り、だけど……」
 家族は自分が殺した。
 家族という名ばかりの集団で、温かい家庭は幻想だと思っていた。
 化け物と罵られてばかりの人生、楽しいと思ったことは一度もない。死ぬ勇気もなく、自分だけが生き残った。
「なら、いいだろ。俺と一緒に来いよ」
 大きな手が、差し出される。どうして、彼はこんなにも構ってくれるのだろうか。
 じっと手を見つめる。オレンジ色のマニキュアが塗られた爪が覗いて、逞しいのにすらっと綺麗な指が鼓動を高鳴らせた。
「俺とお前、二人で生きていこうじゃないか」
「二人?」
「そう。俺は能力者を探して旅をしてる」
 政府に逆らっても平気そうなヤツを探してた――。
「死んでも後腐れがないヤツ。守るものがないヤツ。一人のヤツを探してる」
 どうせ捕まるならば、精一杯もがいてからの方がいい。
 そうやって不敵な笑みを浮かべた彼の目は本気だった。初めて滲んだ彼の感情に、胸がざわめく。
「僕も――仲間にしてくれるの?」
 命は惜しいとは思わなかった。自分以外にもう何もない。死んでも誰も悲しまない。どうせなら、もう少し楽しんでから人生を終わりたい。
 崇高な思想なんてことを言うヤツは胡散臭い。
 政府を悪だと説いて無差別にテロを行う組織だってあると聞いた。そんなの正直、馬鹿げてる。
「どうせ追われて殺されるなら、足掻いてからでも遅くないだろ」
「うん」
 彼の言葉には思惑も、裏表も、謀略も何もない。あるのは、ただ人生を愉しんでやりたいと――そう思う欲求だけだ。
「これから、まだ旅をするつもりなんだが……答えは決まったか?」
「行く。あんたと一緒に行くよ」
 差し出されたままの手を、握る。滑る血塗れの手を嫌悪もなく彼は握り返してくれた。焔の瞳が愉快そうに揺らめいた。
「じゃあ、決まりだな」
 彼にどこまでもついていこう――生きる意味なんて決めてもどうせ、死ぬ間際には忘れているのだろうけど。
 それでも、この瞬間は確かに、彼に従うことこそが生きる意味だと思えた。
 彼が楽しく、愉快に生きられる場所を作ってあげたいと、握った手の温かさに願った。

※ ※ ※

 人が死ぬのなんて、ほんとに一瞬だよ。
「ほら、ここを切れば痛みも感じないで逝ける。切ってごらん?」
 震える手に無理矢理ナイフを握らせる。慈悲なんてない。ここに来たからには、戦う術を身に着けてもらわないと困る。
「君だって、政府から逃げてきてここに入ったんだから。人を殺すことに抵抗を持ってちゃ生き残れないよ?」
「だって……だって……その子は……!」
 少年が怯えた声で叫ぶ。歯の根が合わず、恐怖で体中が震えている。灰色と緑の色違いの瞳は、それでも目の前の光景から目を逸らさない。
 素質はある。しかし、性根が優しすぎる――これでは、当分使い物にはならないだろう。
「その子はね、組織のルールを破ったんだよ? 危うくアジトが見つかっちゃう所だったんだ。危険分子は要らないの、分かるでしょ」
「う、ううっ……」
 少年の握るナイフは、特別性だ。念糸でコーティングされた刀身は鉄をも切り裂く。政府の狗が来ている特殊素材の鎧だって貫く。まさに万能だ。
 自分の力をうまくコントロールできない少年に、彼が与えろと言ったものだった。
「仕方ないな。今回は許すけど――今度は自分でやってね。僕も暇じゃないんだからさ」
「あ――」
 少年の手からナイフを奪う。どうせ目を瞑って見ないとは思うけれど、無闇に自分の能力を曝け出すのは避けたい。それに、ナイフの方が絶対苦痛は少ないだろう。念糸のコントロールは完璧だが、たまに失敗することもある。
「あ、ああっ、ああああ……」
「なんで組織に迷惑かけるの? 今まで優しくしてあげたことに対するこれが礼儀? 嫌になったなら、そのまま去ればいいのにね――そうしていたら、僕が手を汚すことなんてなかったのに。彼も、こんな命令下すこともなかったのに」
 何より、彼に迷惑をかけたことが許せない。彼のつらそうな顔は見たくない。あんな苦しそうな顔を、させる人間が許せなかった。
 ナイフが裏切り者の少年の腹に綺麗に滑り込む。音もしない。急所に的確に差し込んだナイフは、肺にめり込んで声さえ封じた。
 引き攣った息を吐いて、絶命した。痛みは感じなかったと思う。あの感触は確かに、成功したそれだった。床が赤い液体で濡れていく。後の少年は両目を固く瞑り、ただこの瞬間を忘れ去りたいと思っているのだろうか――そんな感情は、とっくに忘れていた。
「そのまま、上にあがって忘れたら? 今度は忘れるって選択肢もないけど……今回は特別だよ、鷭(ばん)」
「は、い――すいません、でした……」
 緑の髪を振り乱しながら、少年――鷭は一目散に地上へ通じる階段を上っていった。
 しん、とした空気と血の臭いだけが充満した地下室で、瞼をゆっくりと閉じる。途端眩暈がして、眼球が揺れたような気がした。徹夜が三日も続くと、流石に疲労が蓄積しているらしい。他人事のようにそう自分を診断して、ナイフを床に投げ捨てた。

「カナリア……」
 血の臭いが取れない。いくら洗い流しても、生臭いにおいは両手に纏わりついて、離れてくれなかった。
 背後で彼の声がする。気配はずっと前から気づいていたけれど、そのまま手を濯ぐことに専念する。こんな汚い手を、彼の目に触れさせたくない。
「カナリア、こっち向け」
「……どうしたの、鳴無(おとなし)」
 後ろから伸びた腕に強引に手首を掴まれ、逆らう間もなく体が反転する。視界が回転して、眩暈が一層ひどくなって、吐き気がしてきた。目の前で焔の瞳が苦い色を揺らめかせている。掴まれた手首が熱い。
「アイツにやらせて、力量を見る約束だったろ。なんでお前が血塗れなんだよ」
「怯えて使い物にならなかったから。だから、代わりに僕がやったんだ」
「……いつまで経っても、動けるヤツが育たないだろうが」
 彼――鳴無は呆れたように息を吐いた。目の下に隈が出来ている。彼は、また徹夜でなにか考えていたのだろうか?
 組織は最初、鳴無とカナリアだけの小さいものだった。名もなく、ただ政府の施設や研究所にいる能力者を助け、彼らの逃走の援助をしていた。
 それが、今では幹部を含めてメンバーが五百人を超える大所帯の組織に成り上がった。政府指定第一級犯罪組織として、認定されてもいる。鳴無、カナリア両名は第一級指名手配犯として、どこに行っても追われる身分になってしまった。見つかれば、即極刑となる。
「自由に動けない僕たちの代わりを、育てるのが目的だったね」
「そうだろうが。お前、この前危なかったって聞いたぞ……怪我、もういいのか?」
「……うん、大丈夫」
 本当は、平気ではない。腹部に負った裂傷はまだ塞がる気配がなく、毎日医療部に通い詰めている。毒のナイフでやられた傷は、そう簡単に治ってはくれないだろう。任務に支障は出ないだろうが、ずっと自分から血の臭いがするのは気持ち悪かった。
「僕の心配より、あなたの方が……顔色、悪いよ?」
「寝不足なだけだ。怪我してるお前こそ、自分の心配しろ」
「そんなの、僕の答えなんてわかりきっているでしょ?」
 鳴無の眉間に皺が寄る。理解しているけれど、納得はしていない――そんな表情だ。まあ、当然だとは思うけれどそこはこちらとしても譲れない所だ。
 自分のことなんてどうでもいい。この台詞を言った瞬間の、鳴無の怒り狂った形相が今でも忘れられない。会った当初はカナリアのことなどどうでもいいという態度だったのに、いつから彼はこんなに過保護になったんだろう。
 カナリアが怪我をした、政府の狗に捕まりそうになった。そういった報告を聞く度に彼は飛ぶようにやってきて、懲りもせずにカナリアに同じ台詞を言う。
『もっと自分を大事にしろ。お前は一人しかいない』
 一人しかいない――それは十分わかっている。それを逆に言い返したい。じゃあ、鳴無も一人しかいないじゃないか。
 鳴無に拾われ、救われてから、誓ったことは不変だ。
 彼を守る。彼を死なせない。死ぬのなら、彼を守って死にたい。先に死ぬのは彼に悪いなと思いながらも、望むのは彼が行く未来を自分が守ることだけだ。
 組織という柵の所為で、鳴無が自由に生きて死ぬことを諦めたある日――その時から、ずっと自分の中で育ってきた感情は誰にも明かさない。
「僕は、あなたさえ無事ならそれでいい。僕は僕自身の為にそう思っているし願ってる。あなたの邪魔をする者は誰だって許せないし、消してしまいたい……鷭だって、いつあなたに逆らうかわかったもんじゃない」
「カナリア……」
 そんな顔しないで欲しい。自分の所為で鳴無が悲しい顔をしている事実に吐き気がする。自分自身を殺してしまいたくなる――このまま、自分の喉にナイフを突き立てて、息の根を止めてしまいたくなる。
 鳴無だけが世界のすべてで、彼が幸せに笑っていてくれるならば、自分の命は惜しくなかった。
「じゃあね、鳴無。あなたは寝た方がいいよ。僕はこれから、もう一つ仕事があるから」
「例の、研究所か? 十鳥(ととり)が潜入してる……」
「うん。動きがあったらしいから、今日出来れば潰しておきたい」
「そうか……。――カナリア」
「なに?」
「……いや、なんでもない。気をつけて、絶対に帰って来い」
「わかってるよ、心配性だな相変わらず」
 そんな所も、全部全部大好きなんだと――言ってしまえば彼は応えてくれるだろうか? 素気なく流されるだろうか? 男同士で抱く感情ではないと、自覚はしているつもりだ。それでも、鳴無はカナリアのすべてで道標――光だった。
 いつでも豪快で、美しく、光溢れる彼であって欲しいから。そんな鳴無を、ずっと支えて守っていきたい。
 絶望なんて感じないくらい、哀しみなんて感じないくらい、痛みなんて感じないくらい――鳴無の不安要素を片っ端から代わりに受け取って、昇華してしまいたかった。
 光であれ。みんなの――そして、カナリアのすべてであれ。
「鳴無、行ってきます」
「俺は――俺は、お前の笑顔がもう一度見たいだけなんだ、カナリア」
「それは、帰ってからのお楽しみね?」
 鳴無の言葉に、胸が詰まる。
 自分の顔がいつから笑わなくなったのか、忘れてしまったけれど。
 鳴無が望むのならば、固まってしまった表情だって動かせる気がした。
 彼の手を取り、手の甲にそっとキスを落とす。毎回、毎度、決まり事になった行為。鳴無は嫌がらない。じっと焔の瞳をカナリアに注いで、見守ってくれている。
「……じゃあね」
 鳴無に背を向けて、地上へ繋がる階段へと歩き出す。鳴無は口を開かない。黙ったまま、ただカナリアの後ろ姿を見詰めている。
『カナリア――カナリア――』
 もっと呼んで欲しい。もっと褒めて欲しい。もっと、もっと――。
 鳴無の為に、この仕事を必ず成功させる。帰ったら久しぶりに、彼と一緒にお茶でもしようか。
 口角が、ゆっくりと上がっていく。今の自分は、うまく笑えているだろうか。彼の役に立てる――とても、幸せな瞬間。

 暖かな鳴無の隣、そのひとときは――確かにカナリアの幸せだった。



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