▼ 恋愛中毒



「貴方は蝶のような人ですね」

陳腐で使い古された言葉でも、目の前の彼にはとてもよく似合う。まさにぴったり、そう思う。
部屋には馨しい麝香の香りが満ちている。宮様御用達の最上品を態々取り寄せたらしいそれは、鼻に纏わりついて中々忘れられない。
その香りに誘われるように、美しい蝶に花たちが一斉に跪き隷属するかのように――彼は華々しく馥郁たる香りを滴らせ、この部屋に君臨している。
彼は女王のように己の誇り高さを隠そうともしない。つん、と顎をあげ、すべての人間を見下すような冷めたい眼で周囲を見渡している。

遊楽茶屋「揚羽亭」――。
昼間は純喫茶、夜は陰間茶屋に早変わりするこの店は、一見さんお断りの高級娼館で、紹介がないと門前払いを食らう。
花街として有名なこの地で、不動の位置を欲しい侭にする大店であり、政府要人御用達の店としても有名だった。
木造五階建て、「揚羽」の紋を赤い提灯に象った店構えはどの店よりも立派で、豪奢な造りをしていた。

「アゲハ!」

女将が金切声で青年の名前を呼んだ。これでもう何回目だろう。聞いているのも不快な声だ。
呼ばれた青年はそれに答えるでもなく、己の爪を磨くに夢中だ。
絹のような手触りの漆黒の髪は背中に流れるままにして、長さは踝あたりまである。シミやそばかすひとつない白皙の顔(かんばせ)は、完璧すぎる美貌を備えている。東洋の血とは思えない造形の美しさを湛えた青年の瞳は、これも東洋人には珍しい瑠璃色の澄んだ色をしていた。
この店――「揚羽亭」は彼の為に造られた場所と言っても、過言ではない。

「何度言わせれば気が済むんだい! 今夜こそお客を取ってもらうからね」

「そっちこそ、誰に向かって口をきいてるのか、わからせてやらなきゃダメなのかい? オバサン」

女将の地位は決して低くはない。
この店で働くすべての陰間を取り仕切り、運営する力を持っている。
聞き分けのない少年たちを折檻する権利も持っているし、下手をしたら、店に出る前に女将の“癇癪”で何人かは使い物にならなくなることもある。最近は特にその気が激しく、すぐに感情を爆発させては、立場の弱い新入りの陰間たちを甚振る。
しかし――それはあくまで“アゲハ”以外の者たちに適用される権力である。それを失念している彼女は、この店の丁度二十番目の女将だった。
『アゲハには決して逆らってはならない』
女将になる女には、揚羽亭の主人から一番先にこう言い渡される。理由なども一切説明はなく、ただ重苦しい雰囲気を纏わせた主人から、重々しい口調で伝えられるだけだ。“アゲハ”が何者なのか、それさえも教えられない。
だから、女将はころころと代わる。花街に“揚羽亭”が出来て早二十年、一年に一人は代わる計算だ。
最初は大人しく、主人の言いつけを守る。けれど時が経つにつれ、女将たちは段々と傲慢に、強欲になる。
アゲハを求めて沢山の上客が揚羽亭を訪れるのに、当の本人は意に介さない。冷ややかな美貌は無機質に、その客たちを突っ撥ねる。その度に、女将は取り逃した莫大な揚げ代を悔やみ、陰間の分際で高飛車で我儘なアゲハに恨みを募らせていく。――それが、彼女たちの命を縮めるとは知らずに。

アゲハに逆らった女将は、翌日には変わり果てた姿で見つかる。
殆どは自室で首をくくるか、あとはアゲハが客をとる座敷でバラバラになって死んでいる。その所為で、女将の自室は「首吊部屋」と呼ばれ、アゲハの座敷は「牡丹座敷」と呼ばれる。
眼球や舌が飛び出し、もしくは赤い色を飛び散らせた彼女たちは、それでも人知れず葬られる。花街で死んだものはすべてそうやって、闇から闇へと消えていく。余程の要人でない限り、花街に警邏隊が介入することはなかった。
アゲハには不干渉。それが揚羽亭に暮らす者たちの暗黙の規則だった。話しかけられても逆らってはいけない、怒らせてはいけない。
すべての人々が焦がれてやまない蝶のようなアゲハは、己の為に起こった事象だとしてもそれをまったく気にする素振りも見せなかった。

アゲハはまさに名の如く蝶ようだ。
揚羽亭に舞い降りた可憐で冷美な蝶。羽を広げて、人々を惑わし、毒のある鱗粉を振り撒いていく。
自分の気に入った客でないと相手をせず、すぐに飽きて次の客を探す。弄ばれた客は発狂したり、自ら命を絶ったりするほどに、アゲハの“毒”の虜になる。

「俺はね、恋愛中毒なんだとさ」

麝香の香りが鼻を莫迦にする。このにおいは正直嫌いだ。それを目の前の青年に言おうものなら、ここの何番目かわからない女将のように首をくくる羽目になるのだろう。
アゲハの座敷は滅多に使われない。客と寝るのも、遊ぶのも、アゲハは私室ですべて終わらせてしまう。男の余韻が残ったままの部屋で、アゲハは気にすることなく煙管を吹かしてぼうっとしていることが多い。何を考えているかわからない青年、それがアゲハだ。

「慈杏(じあん)、どうしてだろうな? お前には飽きないんだ。他のおっさん共にはすぐに飽きるのにな」

変声前のアゲハの声は、不思議な響きを帯びている。掠れた、曖昧に低く、そして高くも聞こえる甘い声。
アゲハの声を聞くのは好きだ。歌っている時の彼はとても楽しそうだ。蠱惑的で魔性の色香を放つ普段のアゲハとは違う、無邪気で純粋な表情をしている。

「私をそこらへんのおっさんと一緒にするんですか? 相変わらず酷い人だ」

「最近、出版社から引手数多らしいじゃないか。人気絵師の蚕家(かいこや)慈杏先生?」

「止して下さいよ」

アゲハの流し目が悪戯っぽく煌めく。紫煙を燻らせる口元は艶めかしく緩められた。たったそれだけの所作であるのに、目を離すことさえ出来ない。ゆうるりと唇を舐める舌が移動するのを目で追う。その唇に夢中で接吻する自分の幻覚を見た気がした。
アゲハがけらけらと面白可笑しそうに笑い声をあげた。

「すっかり俺の虜だな、慈杏」

彼の言葉を否定出来ないのが悔しい。
アゲハの言うとおり、己は彼の虜になってもう長いらしい。自分自身でも、どこでこの蝶の鱗粉に毒されてしまったのか、分からないのだ。気が付いたら、離れられなくなっていた。そう答えることしか出来ない。

慈杏がアゲハと出会い、上客となったのはもう随分前だ。その時から彼の美貌は変わらない。幾つなのか見当もつかない容姿は、いつからか成長が止まってしまっているのだろうか。
“永遠の麗人”、“パピヨン”などと呼ばれている陰間の存在は知っていたが、まさか当人と関係を持つことになるとは思ってもいなかった。
麝香――そして、微かに鴉片のにおいが漂うアゲハの私室で、朦朧とした意識の彼に接吻された時から、もう毒はじわじわと全身に回っていたらしい。
最初は絵師として、アゲハの姿を描いて欲しいと揚羽亭の主人に頼まれて来ていたのに、今ではすっかり彼の馴染みとして扱われている。複雑な気持ちではあったが、妖しい笑みで慈杏を迎えるアゲハを前にすると、そんな些末なことはどうでもよくなってしまう。

「体だけじゃなく、相手の心まで虜にしてこそだろ。陥落したらもう興味はないね。次に俺を愉しませてくれる奴を探すかな」

「じゃあ、私もそろそろお払い箱ですか?」

「お前は特別。来なくなったりしたら許さねぇよ?」

どこまでが本気なのか、分からない。信用はしてはいけない。人を惑わすことにかけては、アゲハは天才的だ。言葉も半分で聞いておかなければ、足元を掬われる。
アゲハは慈杏と会う時は、決して私室を使わない。理由を聞けば、「他の男と寝た場所でお前と寝るのは嫌だ」と返ってきた。嬉しくないと言えば嘘になる。胸が年甲斐もなくざわめいて、心を許してはいけないという知人の忠告を忘れそうになった。

「慈杏」

甘い声が慈杏を呼ぶ。毒を滲ませた声は彼が欲情している合図でもある。
逆らうこともなく、慈杏はアゲハの身体を引き寄せた。
座敷の、取り替えられたばかりの新しい緑の畳の上に、アゲハの漆黒の髪が扇のように広がった。

「慈杏、好きだよ」

毒々しい言葉の刃が慈杏を更に、深みに誘う。
甘い麝香と鴉片の香りに包まれて、慈杏は妖美に笑うアゲハの姿を瞳に焼き付けた。






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