▼ 波の音を聴きながら

 


「貝殻を持ってきましたよ」

そう言って差し出された艶のある貝殻は、どこをどう見ても、偽物だ。どうやら石膏で出来ているものらしくて、不自然なピンク色をしている。
俺は思わず、貝殻を差し出している相手を恨めしく睨んだ。
夏の気配が未だに去らない晩夏に、思わずイライラと口調にトゲが増す。

「百田(ももた)、てめぇ……冗談でも笑えねぇぞ」

「だって、仕方ないでしょう? 今は作品に集中して下さい、お願いですから」

拝むように俺に懇願するコイツは、担当編集者の百田 十夜(とおや)。中々の優男で、困ったように下げられた眉がなんともヘタレっぽい。しかし、一旦仕事モードとなるとコイツは俺よりも頑固だ。原稿が出来上がるまで、梃子でも動こうとしない。

「締め切りまであと二日しかないんですから、もう少しペース上げないと、先生が辛いだけなんですからね」

「あー……海に行きてぇ。波の音を聴きながら仕事したら捗るだろうなぁ……」

「もう、我が侭ばかり言ってないで……。先生のこの仕事用別荘から、海まで遠すぎなんですよ。なんで海が好きなのに、山の中に別荘買ったんですか」

「決まってるだろ。海のそばなんかに仕事用の別荘買ったら、それこそ俺は原稿なんざやらねぇな。遊びまくる」

得意満面に言ってやれば、百田は呆れたように溜め息を吐きやがった。まあ、俺が言ってることを考えれば当然だろう。

俺はこうやって、原稿に行き詰まる度に百田で遊ぶ。
色々な我が侭を言ってみたり、ああだこうだと文句を言ったり。
百田は、面倒臭い相手の担当になってしまったと、後悔していないのだろうか。俺だったらこんなひねくれ者の担当なんざ願い下げだ。我ながら嫌な性格だと思う。
この性格の所為で、担当がころころかわるからそれには慣れっこだ。
しかし、ここ数年はずっと、同じ担当のまま。百田はずっと、俺の担当で居続けている。

「なあ、百田」

「なんですか?」

「お前、嫌じゃねぇの。俺みたいなヤツの担当でよ……」

「……」

俺がそう訊いた瞬間、百田はすっと顔から表情を消した。その余りの無表情さに、俺は不味いことを訊いたのだと直感する。
百田のこんな態度は初めてで、俺は戸惑った。純粋な疑問だった。他意はない。ただ……若くて腕もある百田が、俺のような変人作家の担当で居続ける理由がわからなかった。

「百田?」

「聖(ひじり)さん……」

「……!」

「僕が、貴方の担当で居続ける理由、本当にわかりませんか?」

百田に名前を呼ばれた刹那に感じたもの。
それは俺にとって、ひどく懐かしく、久しく感じていなかったものだった。
百田の真剣な視線が、俺の瞳を貫く。
熱くて火傷しそうなこの視線は……俺も良く知る感情から来るものなのだろう。

「お前……本当に、いいのか?」

「いいもなにも、僕はいつでも真面目に考えていますよ。聖さんのこと」

「俺、三十代のオッサンだぜ?」

「そんなの関係ないです」

――好きなんです。

百田の表情はずっと真剣で、俺がとやかく言った所で、気持ちは変わらないらしい。
……そう言う俺だって、百田のことを言えたもんじゃない。

「ほだされてんなぁ……俺」

「聖さん?」

「返事は待てよ、百田。この原稿終わったら……な」

「えっ……。は、はい……っ!」

もう明け方の陽射しが、窓から差し込んでいた。夏の朝日は顔を出すのが早い。あと一日しか、猶予がない。修羅場は慣れているしそれに……これが終わればもっと勇気の要る予定が待っている。

書き上がった原稿をととのえている百田の足元に転がった貝殻を、俺は拾い上げた。
つるつると手触りの良いそれを、そっと耳元に寄せる。
人工的な波の音が、段々と聴こえてくるような気がして、俺はペンを取った。

後ろから百田の明るい声が聴こえる。
今度は本物の波の音を聴きながら、ペンを取るのも悪くない。
冴えた思考の中、俺は再びペンを走らせはじめた。



End




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