▼ 一番欲しい言葉




「旦那様」

卓にそっと、湯気の立つ湯呑が置かれる。
湯呑を差し出した相手の顔は俯いていて、よく見えない。
外では鈴虫がひどく弱々しい声で最期の逢瀬を叫んでいる。
番を得られなかった彼らは、虚しく美しい声を響かせて黄泉路を辿るのだろうか。

葵(まもる)がこの屋敷の主となったのは、つい最近のことだ。
先代である祖父が亡くなり、遺言でこの屋敷は孫である葵に権利を譲ると記されていた。
葵の両親は幼い頃に他界し、祖父だけが唯一血の繋がった家族だった。
蔦と木々に囲まれ、緑ばかりが目に入ってくる。葵は幼い頃、この屋敷がひどく恐ろしかった。

「旦那様」

もう一度、声が葵を呼ぶ。
慣れ親しんだ声のはずなのに、なにかが違った。
そう――。

「蜜蜂(みつばち)、お前はもう、私を名前では呼んでくれないのだな」

「……」

蜜蜂と呼ばれた青年は、気まずそうに黙り込んだ。
その沈黙が、なによりも彼の答えを語っている。もう、昔のようには接してくれないのだと。

蜜蜂は葵がまだ小学生にあがったばかりの頃、この屋敷に下男として雇われた。
何にも動じない祖父さえ驚嘆した容姿は、まるで日本人らしくなかった。
蜂蜜色の綺麗な髪、色素の薄い琥珀色の瞳――整った西洋人形のような顔立ち……なにもかもが、美しい少年だった。
少年は育った故郷も、名前さえも憶えていないと言った。
葵に名づけて欲しいと、真っ直ぐな視線がこちらを見たあの瞬間、確かに葵は彼に恋をしていた。
『甘い色だから――蜜蜂がいい』
幼い頃の自分は、無邪気だったのだろう。彼の名前はそれからずっと、蜜蜂のままだった。

一緒に遊び、学び、今までの人生をすべて共に生きてきた。
外に友達を作ることができなかった葵には、蜜蜂が世界のすべてだった。彼は記憶はなかったが、知識は豊富だった。
葵に書物を読み聞かせ、色々な異国の話をし、様々な物の見方を教えてくれた。
蜜蜂は葵の唯一無二の親友であり、兄のような存在であり――師でもあった。

「行って、蜜蜂――いいや、今は達明(たつあき)と呼んだ方がいいか。奥さんが、待っているよ」

湯呑を持った手が、震える。
本心ではない言葉を言うことが、こんなに辛いとは思わなかった。
蜜蜂は今日、この屋敷を出ていく。
幼い頃、葵が名づけた名を捨て、達明として、新しい人生を歩んでいく。傍らに、愛しい相手を引き連れて。
葵はこの屋敷に取り残される。蜜蜂の過去として、記憶の中に埋もれていく。

「今まで……お世話になりました、旦那様」

蜜蜂が端正な顔を歪め、深々と葵に礼をする。それはなんの礼なのか――葵にはわからない。
鈴虫が泣き叫ぶ。葵の心も泣いている。隠れた恋情が、滝のように内側で荒々しく流れ、暴れていた。
蜜蜂を愛しいと想う心が、表へ出そうになるのを、堪えるので必死だった。

抱いてはいけないのだと、仕舞い込んだはずの感情。
すべては自分だけが、抱き、抑えていかなければならない――想い。

せめて最後だけでも、昔のように、親しみのある声で、名前を呼んで欲しかった。

『葵――ありがとう』

いつか、葵に向けて照れたように言った蜜蜂の言葉が、欲しいと思った。

「葵様……お元気で」

「お前も――元気で、蜜蜂」

胸が掻き毟られているように痛い。
背後で蜜蜂がもう一度礼をして、静かに退室した。
しん、と葵の部屋は恐ろしいほどの静寂に包まれる。紅い絨毯も、色あせた照明も、古ぼけた机も、なにもかもが葵には色を失って見えた。

最後まで、蜜蜂は葵の一番欲しい言葉を、言ってもくれなかった。

「愛してた――蜜蜂」

頬を冷たい雫が流れ落ち、やがて筋を残して消えていく。
緩やかに色彩を欠いていく視界で、葵は静かに、静かに、声を殺して泣いた――。





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