▼ 寝ても覚めても悪い夢




鞭打つ音、怒号、女の悲鳴。
ここは一体どうなっているのだろうか。
まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。
轟轟と耳を支配する醜い物音たちは、一斉に何かを求めて蠢いている。
熱気、熱気、熱気――。どうしようもなく、狂っていく。

「おい――おい! そこのガキ!」

髪を思い切り鷲掴まれて、あまりの痛みに涙が溢れる。少年は自分にまだ涙など流せる余裕があったのかと、ぼんやりと思った。
髪は薄汚く埃っぽい。何日も汚い部屋に押し込められていたために、服や全身が埃と汗の臭いに塗れている。口の中も砂っぽく、昨日無理矢理飲まされた重湯のような粗末な粥が、胃の中でぐるぐると吐き気を誘発していた。嘔吐したい衝動に駆られるが、ここで吐いたりしたらまた鞭で強かに甚振られるだけだ。
背中の蚯蚓腫れがじくじくと痛む。襟首と髪を引っ張られて、ざらざらしたステージに突き飛ばされた。粗雑な照明が眼球を焼く。
きつい照明を手のひら越しに見上げていれば、観衆からどよめきと下卑た笑い声があがった。

「さあさあ、紳士淑女の皆様! 今度の商品は世にも珍しい、“紫水晶の瞳”を持つ片羽根の純血種ですよ!」

おおっ、と観衆から感嘆の息が漏れる。襤褸切れのような上着の背中部分を破られれば、きつい照明の下に、隠しておきたい中途半端な象徴があらわれた。
この世界で、“紫”は高貴な色とされる。一方、完璧な神体になれなかった“片羽根”は、侮蔑と嘲笑の象徴だ。
その両方を持つ少年は、異端児で、存在してはならない者だと言われた。そして“楽園”から追放されたあと、この奴隷市場に行きついた。
これからどうなろうとも、どうでも良かった。少年は試験に落ち、片羽根が露見し、資格を失った。“楽園”に居る権利を剥奪された。
次々と観衆の腕が挙がり、莫大な金額が叫ばれ、段々と値がつり上げられる。
裕福な地上貴族たちは、天上から来た“亜種”に強く執着する。ヒトは何もかもが違う容姿、色、チカラに固執する。
たとえなりそこないの“異端児”だとしても、血眼になって欲しがるのだ……。
寝ても、冷めても、同じ悪夢を繰り返す。ここは、希望なんてなにもない――。

「――賢者の石、それも一等三品のレベルのものをそちらに与える」

一際観衆がざわめく。
息を呑むもの、不満を露わにするもの、目の色を変えるもの、嫌悪の表情を浮かべるもの――。
奴隷市場の大テントに響き渡った澄んだ声に、人々はそれでもひれ伏した。賢者の石を所有する者、それはすなわち。

「錬金術師様……」

ステージ中央に進み出たのは、まだ若い青年だった。
透き通るような青白い肌、漆黒の腰まで伸びた髪、真紅の瞳。何もかもが異質なオーラを放つ人物は、誰もが知る偉大なる国の宝。
灰色の粗末なローブを纏っているにも関わらず、彼の全身から溢れる高貴な雰囲気は隠しようがない。
奴隷市場の頭が、おずおずと青年の前へ進み出る。

「ヴィレイ様……このような所になぜ……」

「頭、聞こえなかったのか? 私はあの少年を買いたい」

人に命令をすることになんの躊躇いもない。青年は横柄な態度を悪びれることもなく、冷えた視線をひたと少年に向けた。
びくり、少年の身体が跳ねる。怖い、純粋にそう思った。この青年は――怖い。とても大きな力を持つ彼が、恐ろしい。

「もう一度、言わせる気か?」

「も、申し訳ありませんっ……そうぞ、奥の部屋へ――」

凍りつきそうな声音は頭を震え上がらせる。冷や汗を流しながら頭は奥手のドアを指し示した。
このドアの向こうは貴賓室になっている。特別なお客様以外には決して開かれないことで有名で、最近この部屋を利用したのは唯一、“国王”のみだ。

「悪趣味な……」

小さく囁いて、青年――ヴィレイはステージから引きずりおろされた少年を見た。
垢と埃に汚れてさえ、天上人は美しい。銀色の艶やかな巻き毛、紫の宝石のように煌めく瞳、片羽根の未完成な美は、ヴィレイを惹きつけてやまない。
こちらに向けられた少年の瞳は、ひたすらに困惑した色を宿していた。少年の唇が微かに言葉を形づくる。

「どうして……」

その言葉は頭の銅鑼声に掻き消されてしまったが、ヴィレイには届いた。
心もとない視線で見上げてくる少年に、ヴィレイは滅多に見せない笑顔を浮かべた。

少年が、賢者の石の価値がどれほどで、「一等三品」の石がどんな破格の宝物なのかということ――そして、青年が筆頭錬金術師であり国王のご落胤であるという事実を知るのはまだ先のこと。
名前もなく“楽園”では番号で呼ばれていた少年は、己に笑んだ青年に一目で恋をした。

「私はヴィレイ、お前は?」

「……名前、ない。俺は――1001番」

甘く囀るような声を掠れさせて、少年は差し出された青年の手を取った。
怖いと思っていたことなど、嘘のようだった。いまはただ、彼の傍に行きたいと懸命に小さな手を伸ばす。
地上で差した唯一の希望。なりそこないの神体目当てだったとしても、彼について行きたいと願った。
ヴィレイが再び笑う。

「よろしくな」

少年の華奢な手を、ヴィレイはそっと握り返した。


END


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