▼ モノクロ



蒸し暑い曇天が続いているかと思えば、けたたましい雷と共に驟雨が力強く降り始める五月は気まぐれだ。今年は男梅雨であるらしい。
どんよりと泣き出す前の不吉な曇り空を見上げたあと、百田(ももた)は持っていた鍵を目の前の扉の鍵穴に差し込んだ。開錠された音が静かな廊下に響く。
ここは市街地より少し離れた鄙びた土地に建つマンションで、まるで隠者が暮らしているような趣がある。外装はボロボロ、育ち過ぎた蔦が壁を浸食し、一歩間違えれば廃墟と見間違うほどだ。
「蔓(かずら)荘」と呼ばれるこのマンションに住んでいるのは僅かに五人。百田はその中の一人以外、面識はない。姿さえ見たことがないので、本当に住んでいるのか疑問に思う時がある。もしかしたら、残り四人の住人たちは、彼が作り出した架空の人物なのではないか。それほどに、彼は嘘をつくことを趣味としている。
彼の住処は蔓荘の最上階、8階の803号室。開け放った扉の向こうは、相変わらず整理整頓されて整然とし過ぎている。生活感がまるでない。悪く言えば殺風景である。
ここへ来る途中、寄り道したスーパーで買いこんできた食材を台所の冷蔵庫の前に置き、百田は固く閉ざされた奥の扉へと向かう。
薄暗い屋内はほのかに蜜柑の花の匂いが漂っている。
リビングにつき、半ば閉じられていたベランダへ続く窓のカーテンを開くと、下に蜜柑の木が真っ白な花を満開にさせていた。
空は相変わらず濁ったままだ。なんとも気持ち悪い空だ。雨が降ってくれた方が、まだましだろう。

「百田か?」

カーテンを握ったまま空を見上げていた百田に、低い声が背後からかかる。また暫く寝ていないのだろうその声に、百田の表情は自然と苦笑を滲ませた。
勢いよくカーテンをすべて開き、百田は振り返る。背後で気怠い表情を浮かべて立っている彼を認識して、ぺこりと頭を下げた。

「お邪魔してます、聖(ひじり)さん」

「おう」

がしがしと伸び放題の髪を掻き毟り、眠そうに欠伸を一つ。作務衣を着崩し、どこかの生臭坊主のような様子の彼は、それでも最近人気急上昇の売れっ子作家なのだった。
彼は鴻巣(こうのす)聖と名乗って、二年前デビューしてから、次々に作品を発表している。主に幻想的な恋愛ものを得意としており、コアなファンを夢中にさせている。
百田は聖の担当を一年前からやっている。聖は気難しく、気に入らない担当だとすぐに得意の嘘で翻弄し、追い出してしまう。担当泣かせと出版社でも有名だ。
その問題児の担当を、百田はもう一年も続けられている。これは異例の快挙で、職場内でも称えられるほどだ。
そして更に、珍しいことに聖は百田を少しばかり気に入っているらしい。人嫌いで有名な彼にとって、この事態は限りなく奇跡に近い。

「今日はハンバーグでいいですか? 挽き肉安かったんです」

「食えればなんでもいい……」

「あっ、またそう言って、僕が来るまでどうせろくなもの食べてないんでしょ? 今日は野菜、たくさん食べてもらいますよ!」

「ちっ……」

野菜と聞いた瞬間、聖の眉間に険しい皺が寄る。偏食な聖にとって、野菜は世界で二番目に嫌いなものらしい。ちなみに、一番は人間だと言ってはばからない。
百田は途端不機嫌になった聖を無視して、人参、キャベツ、たまねぎ、そしてソーセージを取り出す。今日の献立はハンバーグと野菜スープだ。聖が渋々でも野菜を唯一摂取する方法が、この百田お得意の野菜スープである。隠し味にたっぷり生姜を入れるので、さっぱりして野菜の臭みもなく、食べ易い。
冷蔵庫の前に置いておいた食材を次々に取り出しながら、百田はリビングでテレビをばんやり見つめる聖を窺った。やはり寝不足なのか、目の下が黒ずんでいる。聖のまるで覇気のない表情に、百田のやる気は俄然あがった。


百田が聖に料理を作るようになったのは、担当になってから一週間ほど経った頃だ。
その頃はまだ聖と打ち解けているとはお世辞にも言えず、むっつりと黙り込んで執筆に専念する聖の背中を、百田はずっと見ているだけだった。気まずい時間。ただ苦痛のみを感じる苦行とさえ思えてくる。
聖を担当し始めた時、百田はまだ担当の仕事に就いて間もない頃だった。まだ一人前とは言えない新人の身分で、贅沢は言えない。どうせ己も聖の機嫌を損ねて追い出されるのだ……百田は諦観した表情でその時を待っていた。聖の噂は先輩から嫌というほど聞いている。きっと、若輩者の百田など、見た時から気に食わなかったに違いないのだ。
鬱々と色々な悪い想像が脳裡を過る。沈んだ気分のまま百田が下げていた視線を聖に戻すと、彼が突然キーボードの上に勢いよく突っ伏した。がしゃん、と派手な音と共に、机に置かれていた資料などが床に雪崩のように落下した。画面上が意味を持たない文字の羅列で犇めいている。

「鴻巣先生!?」

慌てて聖のそばに駆け寄り、体を揺さぶる。返事はない。焦って、兎に角椅子から抱え上げる。聖の体は、はっとするほど細く、軽かった。
机の横にあるベッドへと運び、寝かせる。百田はほっと安堵の息を吐く。聖は安らかな寝息を立てて、穏やかな顔をしている。どうやら、大事にならずに済みそうだ。
百田は以前担当していた作家も、こんなことがあったと思い出す。過度の睡眠不足が祟って、彼も突然聖と同じように倒れた。まるで、電池が切れた人形のように、突然に。
深く熟睡している聖の顔を見つめる。途端に先刻、抱き上げた時の同性とは思えない軽すぎる体の重量を思い出して、百田は眉を顰めた。

「ちゃんと、食べてるのかな……」

思わず一人呟く。お節介な方ではない。むしろ人間関係に不精な方だと自覚している。
しかし、何故か気になる。百田は無意識に立ち上がって、財布の中身を確認していた。持ち合わせは十分ある。
この様子だと、当分の間起きることはないだろう。百田は素早く台所の冷蔵庫の中と調味料類を確認する。案の定、そこは空っぽに等しかった。
いくら鄙びた土地だからと言って、スーパーがないわけではない。来る途中で見かけたのを思い出して、百田は玄関に置いてあった鍵を失敬して、マンションを飛び出した。


「なに笑ってんだ、百田」

行儀悪く立膝でハンバーグを貪る聖は、百田の無意識に出てしまった笑みに怪訝な表情を浮かべた。百田は慌ててだらしなく緩んだ頬を引き締める。
目の前には、ほかほか湯気を立てる白いご飯、デミグラスソースで煮込んだハンバーグ、百田特製の野菜スープが並んでいる。
百田が作ったものなら文句も言わず、聖は黙々と消費する。たとえそれが世界で二番目に嫌いな野菜であってもだ。その様子が微笑ましい。百田は再度緩みかけた頬を気合で引き上げた。

「いえ……最初に聖さんにご飯を作った日を思い出してただけです」

「……そんな記憶は抹消しろ」

「どうしてです? 聖さん、可愛かったなぁ……」

「黙れ」

不機嫌な声で唸って、聖は拗ねたようにそっぽを向いた。しかし食事は途中で投げ出したりはしない。そこは百田の教育の賜物だろう。
百田は田舎から上京してきてから、ずっと一人暮らしをしている。その所為で、料理は苦手ではない。むしろ得意だ。
最近は聖により栄養になるものを食べさせたいと、創意工夫をしているため、その腕前は自然と上達していった。
――初めて聖に料理を食べさせたあの時、百田は悟った。
自分は、この人に惹かれている。そう、自覚した。
睡眠不足で倒れた聖が起きて最初に浮かべた表情は今でも忘れない。呆気にとられたような、どこか安堵したような。聖が本当は孤独なのだと気づいた時、百田は自然と言っていた。
「これから、たまにご飯を作りに来ていいですか」と。
最初に作ったのは、素早く作れるカレーだった。聖はその日も貪るように食べていた。
それから、百田は休日でも聖の部屋にこうやって押しかけるようになった。今では、合鍵まで持たされるほどだ。「聖さん」と呼ぶことも許されるようになった。

「最初は、いつ追い出されるのかと冷や冷やしてたんですよ、これでも」

「なにが……」

「強引な面倒くさいヤツだと思われてるだろうな、って……」

いつ鬱陶しいと突き放されるのだろうと、内心ではいつも戦々恐々としている。こうして一年も経っている今でも、たまに思う時がある。
聖はなにも言わずずっと百田を受け入れてくれている。何故なのか、いつも不思議だった。果たして、聖は己のどこを気に入ってくれたのだろうか、と。
ただ単に、食事をたまに用意してくれる便利な担当だと我慢しているだけなのかも知れない。もしくは、鬱陶しいとも思わないくらいに、百田の影は薄いのだろうか。

「……別に、」

「? 聖さん?」

突然、聖が声を発した。百田は考えるのをやめて、じっと聖の次の言葉を待つ。
何故か、聖の頬が少し朱に染まっている。
不思議に思って首を傾げていれば、聖が途端に猛烈な速さで残りのハンバーグを口に押し込みだした。その勢いは、見ているこっちが苦しいほどだ。

「ひ、聖さん……そんなに急いで食べたら消化に悪い――!」

慌てて止めようとした百田だったが、時既に遅く、ぺろりと舌で口の端についたソースを拭った聖は、おもむろに立ち上がった。
聖の瞳は何を考えているのかわからない。ただ黒々と百田を見つめている。濡れた唇が、言葉を発した。

「百田を面倒くさいと思ったことなんかねぇよ。いつも……お前が来るの、待ってるしな……」

「――……え?」

聖の言葉が、理解出来ない。思考が愚鈍になってしまったかのように、働かない。意味は理解している。しかし、素直に認めようとしない。
持ったままの箸が指の間から零れ落ちる。――漸く聖の言葉を理解した百田は、言葉も継げなかった。

「ひ、じりさん……」

「……っ、シャワー浴びる!」

「あっ、ちょっと、聖さ……!」

頬を赤らめ、ぶっきらぼうに叫んだ聖は、百田がとめるのも構わず、玄関脇の風呂場に消えた。
残された百田は、ただ硬直していた。しかし思考だけが目まぐるしく回転している。
今の言葉は……聖の本音は……。百田の頬が熱を帯びるまで、そう時間はかからなかった。

「まったく……敵わないなぁ……」

すっかり熱くなってしまった頬を押さえ、百田は満面に笑みを浮かべた。
これならば、脈はあるかも知れない。望みは、あるかも知れない。

少しだけ開けておいたベランダの窓の隙間から、蜜柑の花の甘ったるい匂いがする。
まだ降り出さない曇天は、未だに濃灰色の雲を厚く頂いたままだ。梅雨は、まだあけそうにない。
ふわりと、微かに雨の匂いがした。








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