▼ 初恋実る晩春




「これくらいが丁度いいんじゃない?」

新緑が濃く色付きだした春の終わり、俺は一件の古びたアパートの前に立っていた。
側壁には鬼灯の蔦が幾重にも絡まり、今にも“出そう”な雰囲気だ。否――、雰囲気ではなくこのアパートは実際、“出る”のだ。
隣に立ってのんびりと無責任な事を言っている友人を見遣る。のほほんとした間抜け面を見ているだけで殴りたくなるので、俺は友人から視線をアパートに戻した。

「なぁ……ここって、本当に安全なのか?」

「勿論! 俺の上司のお墨付きだよ? こんな安全な物件は他にないって」

「って、言ってもさぁ……」

どう見ても、安全そうには見えない。オンボロな見た目、いかにもな気配――俺の勘は残念ながらよく当たる。

「だって、仕方ないでしょ? 悪霊に好かれ易い気を持つ君が安全に暮らせる場所なんて、この“はなかげ荘”しかないんだから」

「だからって……何も妖怪と“同居”しなくても……」

そう。俺が駄々を捏ねている理由はそこだ。隣の友人の上司が紹介してくれたこの物件――はなかげ荘は、「妖怪や人ならざる者との同居」が入居の条件なのだ。
小さい頃から霊感が強かった俺は、妖怪やら幽霊やらとは深いお付き合いだ。おまけに、友人がさっき言っていた通り、悪霊に好かれ易い波長の気を持つ特異体質までくっついている所為で、今まで一所で長く暮らせた試しがない。悪霊に追いかけ回されて引っ越しを繰り返す内に、俺の悪評は不動産会社に駆け巡ってしまったらしく、ついにどこのお店に行っても物件を紹介してくれなくなってしまった。
このままでは、今辛うじて入居させてくれているマンションもいつ出て行ってくれと言われるかわからない。(もう既に、住人から変な声やら影が出ると苦情が出ているらしい)
正直、ここで贅沢を言っている場合ではないのが現状だ……しかし。
 
「よりにもよって、あの人と……なんてさぁ……」

俺の口調が自然と苦いものになるのは勘弁してもらいたい。隣の友人――緋継(ひつぎ)が苦笑を浮かべてこちらに視線を送ってくるのも癇に触る。

俺がこのはなかげ荘に入居を躊躇うもう一つの理由……それは。

「命(いぶき)く〜〜ん!」

「げ……来た……」

ぱたぱたと可愛い効果音がつきそうな走り方で、はなかげ荘の入り口から一人の人物が走り出てきた。背中にお花でも背負っていそうな笑顔を振り撒いて、こっちへ近づいてくるその人物を視覚と聴覚で捉えた瞬間、俺の全身が総毛立つ。
青みがかった長髪、菫色の瞳、整った容姿――そして、魔女のような黒づくめの服。
見覚えのありすぎるその人物を前に腰が引けている俺に対して、緋継はにこやかに会釈して出迎えた。

「お久しぶりです。ベアトリスさん」

「緋継くんじゃないの! お久しぶり〜! 銀貨くんは元気?」

「元気ですよ。また遊びに来て欲しいと銀貨から伝言を預かってます」

「行っちゃう!! 琥珀ちゃんの手料理が食べたいわ〜」

「…………」

硬直する俺を後目に、二人の会話は和気藹藹と続いていく。会話の中で話題になっているのは、俺も会ったことがある緋継の恋人とその妹だ。そういえば、妹――琥珀ちゃんの手料理は確かに美味しかったなぁ……。

「……?命くん? おーい?」

「あ、心配ないですよ。現実逃避してるだけなんで」

緋継が無責任なことを言っているのは認識しているが、俺の身体は依然として硬直状態を維持している。ひらひらと俺の目の前で手を振っている人物――ベアトリスの存在が俺の身体を金縛りから解放してくれない。
葉桜が目に鮮やかな陰影を残して風に踊る。強烈な緑の薫りを鼻腔に感じながら、俺はしばらくベアトリスの菫色と見つめあった。

「エウレオルス……」

「なぁに、命くんったら、久しぶりに会ったと思ったら……本名呼ばないでって、いつも言ってるでしょう?」

困った風に笑う顔は昔からかわらない。綺麗に整った派手な容貌は相変わらず艶を含んでいて、遠い記憶とまったく同じだった。
俺の――初めて恋したあの頃と、なに一つかわらなかった。

「じゃあ、あとは頼みましたよ。ベアトリスさん」

「うん、任せなさい!」

「あっ……おい、緋継……!」

「じゃあね、命。今度銀貨と遊びに来るから〜」

俺の必死の表情を華麗に無視して、友人甲斐のないヤツはのほほんとした雰囲気保ったまま俺をはなかげ荘に置き去りにして行った。
俺……もしかしてこのまま入居確定なのか……?

「さあ――じゃあ命くん。さっさと前のマンション引き払って来ましょうか!」

緋継を満面の笑顔で送り出したあと、ベアトリスは元気よく親指を立ててそう言った。

――俺のはなかげ荘入居は、この瞬間本人の意思とは無関係に決定した。


※ ※ ※ ※ ※


俺の初恋は思い出せば中学生の頃だ。
それまで俺は自分の霊感の強さと悪霊を呼び寄せる特異体質の所為で人間不信になっていて、まともにクラスメートと会話した記憶さえない。その結果、初恋なんてものがあることさえ自覚しないまま、日々を空虚に生きていた。
そんな俺が、初恋を自覚した。しかしそれは人間を対象としたものではなく、偶然遭遇した“魔女”という生き物に恋をしてしまったのだった。
緑の濃厚な桜並木、夏に近づいた暖かな晩春の頃、中学最後の季節。
茜色の視界の中で、真っ黒な服を春風に靡かせて、俺を悪霊から護ってくれた人物こそが俺の初恋の相手。青みがかった長髪、菫色の瞳の魔女だった。

その出会いから折に触れて、俺はその魔女のことを思い出しては胸を熱くさせていた。
……甘酸っぱい思い出だ。若かったな、俺も。今思い出しても恥ずかしい。

そして、高校最後の卒業式の日、まるで運命のように俺の前にその魔女が再び姿を現した。
けれど……その再会は俺にとって一生消えないトラウマになった。余り思い出したくない思い出だ。昔も今も、俺は成長していない。

「まさか、あの“命くん”が、霊媒師になってるなんて思わなかったわ〜」

「やむを得ない選択だって……アンタもわかるだろ?」

「そうだったわね……じゃ、今は自分の身は自分で護れるのね……つまんない」

「つまんないってなんだよ……」

「だって、命くんを護るのはワタシの役目でしょう?」

俺の少ないが重量はある荷物を軽々担ぎ、ベアトリスははなかげ荘の古びた階段を苦も無く昇っていく。目指すのは俺たちの新しい住処だ。一階で管理人さんに聞かされた番号は202号室だ。ベアトリスの荷物はもう運び終わっているらしく、あとは俺の荷解きをするのみだという。
ふわふわと俺の目の前を何か得体の知れない存在が飛んでいく。慣れっこといいつつ、こんな場所があるという事実を、今更ながらに不思議に思った。薄暗い照明、ぎしぎしと軋む階段、そこここに潜む不気味で奇妙な影と光。いつもなら“敵”として相対する、モノたち。

「俺はもう……護られるだけのガキじゃないんだよ……」

一足先に昇っていったベアトリスに向けて、俺は聞こえないだろうと思いつつぽつりと苦く囁いた。
俺は、もう弱いだけの子供じゃない。人間に、妖怪に、幽霊に、怯えるだけの昔の俺じゃない。強くなったという自負がある。自分の身くらい護れる力があると自覚している。
だから――ベアトリスには会いたくなかった。過去を忘れたいと思う今の“俺”には、ベアトリスの存在は甘い毒とかわらない。

「さあ、着いたわよ! ワタシたちの新居!」

「その言い方なんか嫌だ……」

げんなりする俺を綺麗にスルーして、ベアトリスは嬉々として古臭い部屋へと進む。見た目を裏切らない、オンボロな部屋だ。
でも、お風呂はあるし、台所もちゃんとしたものだ。これで家賃が格安なのだから、多少の古臭さには目を瞑ろう。
どさり、と重い音と共に俺の荷物をおろしたベアトリスは、ぐるりと部屋の中を見渡している。やっぱり、魔女というくらいだから、このオンボロな部屋に不満があるのだろうか……眉間に皺を寄せて、じっと考えこんでいる。その姿さえ様になるとか、癪にさわるヤツだな。
俺は、ベアトリスがここを出ていくと言い出すのでは――と、秘かに期待していた。しかし、そう上手く話が進む筈もなく、ベアトリスの次の言葉に俺は思わずずっこけた。

「ここ……防音はまったく期待できないわね……」

「なんでそこを心配するんだよ……」

「だって――心配でしょ……?」

「……っ!?」

思わずツッコミを入れた俺の腕をおもむろに掴み、ベアトリスは艶のある笑みを浮かべた。その笑顔をみた瞬間、頭の中で警鐘が響く。ヤバい……と思った時にはもう遅く、俺の身体は難なくベアトリスの腕に抱きこまれていた。
ふわりと麝香のような香りが鼻を擽る。ばくばくと心臓が音を立てる。これは果たして、俺の心音か、目の前のコイツのか?

「命くんの、鳴き声お隣さんに聞かせたくないし?」

甘い声が誘うように囁く。俺は抗うように頭(かぶり)を振った。

「俺は……そんな、趣味じゃない……」

「性別で差別するの? 昔は……可愛い顔してワタシを見てくれたのに……」

「それは――」

――アンタが“男”だって知らなかったからだろ!!

俺は心の中で叫んだ。全力で叫んだ。
そう、目の前の“魔女”はれっきとした――男だ。本名はエウレオルス・アレイスター・フォン・ローゼンクロイツというらしい。無駄に長い名前だ。

その真実を知った日から、俺はずっとこの魔女から逃げ続けてきた。
俺はそういう趣味じゃない。……そう、呪文のように繰り返しながら。

「命くん……それって、本心?」

「…………」

「そろそろ、ワタシに貴方の気持ち、教えてくれてもいいんじゃない?」

「男っぽい顔に戻ってるぞ、アンタ……」

「ははっ、こういう時は素に戻っちゃうからね」

くそっ、反則だろ……。にっ、とニヒルに笑うベアトリスは、昔俺に好きだと言った時の顔と同じだった。女性的にメイクを施している筈の相貌は男臭く妙に色っぽい。俺が女だったら、コロッといっていたかもしれない。――否、男の俺でも絆されてしまうくらいに、ベアトリスは格好良かった。

「命……なぁ、頼むから……もう、限界なんだよ……」

口調さえ、飾ることを忘れているベアトリス――もうエウレオルスだ――は、悩ましい表情で俺を見つめて放さない。頬を撫でる甘い吐息に背筋が粟立つ。

「命……」

「――っ、わかったから、離せって……」

今までの高く女性らしい声はどうやって出していたのか不思議なほど、ベアトリスの今の声は低く掠れている。無意識に強くベアトリスの服を握りしめて、俺は堪らず目を閉じた。
そして叫ぶ。今度は声に出して。

「ああもう……! 好きだよ! アンタが男だろうがなんだろうがな!」

ずっと前から、自覚していたし答えも出ていた。ただ俺が臆病で、認める勇気がなかっただけだ。ベアトリスが男だと知った時だって、その上で告白された時だって、本当は――認めてしまいたかった。だけど俺は臆病風をふかして逃げた。こんな感情、自覚することさえ怖かったから。
ベアトリスの表情が、瞬時に喜色に染まる。まるで子供のような喜びようで、ぎゅうぎゅうと俺を締め付けてくる。正直言って、死にそうに苦しい。さらりと顔にかかる絹のような青い髪がくすぐったい。麝香のような薫りが、より一層強くかおった。

「俺も好きだよ……って、前から知ってるか」

「これでもかってくらいにな」

顔中に降ってくるキスの嵐に辟易しながら、俺は諦めてベアトリスの背中に腕を回した。言葉とは裏腹に、俺の表情は緩んでいるんだろう。ベアトリスの表情も、だらしないほどに弛緩して男前が台無しだ。
認めてしまえば、心はすんなり何もかもを受け入れて、幸福感が身体中を包み込む。今度は唇に降ってきたキスに苦笑して、青い髪を引っ張った。

もう追いかけ回されることのない安らかな生活に思いを馳せる。
鮮やかな桜の緑が風にざわめく。芳醇な晩春の風を感じながら、季節のかわる気配に耳を澄ませた。




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