生意気な少年に啖呵をきったら。



遡ること半年前。
多分上京して1年経たないくらいだったと思う。
都内の小さな企業に内定を得たものの、奨学金の返済に終われ、体に鞭を打ちながら夜の水商売を始めた。
週の終わりの金曜日と土曜日はなるべくシフトを入れ、あくせく働いていたけれど、まぁ何だかんだ昼職と夜職という二足の草鞋生活も日常と化し、いつもの様に就業を終えて、休息もそこそこにそのまま出勤した時だった。

(あー、ミーティング用の資料まだ作って無いんだった…今日飲み過ぎないようにしなきゃ終わんないなあ…)

嫌なことを思い出しつつ、仕事着のドレスに着替えようとTシャツを脱ぎ捨てると、いきなりフロアの方から悲鳴のような声が聞こえる。
営業前の店内は、いつもの喧騒など嘘のように静かだが、突如として響いた声に只事ではないと感じ、思わず控え室から飛び出る。
すると、既にドレスに着替えたキャスト3人がフロア奥のテーブルに付き、見るからに柄の悪い男たちがそれを囲むように立っている。その様子は異常なもので、キャストの1人の髪からは何故か水が滴り、残り2人はせっかくの綺麗な顔を見せることなく俯いて膝の上で手を握りしめている。…明らかにいつもの接客とは違い、張り詰めたような空気がそこにあった。


「あーぁ、萎えたわぁ。ひっさびさに飲みに来たらこんなバカ女しかいねぇとか。」


しんと静まり返った店内で始めにそう声を出した主を見る。
まだ幼さが残る顔立ちで、髪を三つ編みにゆった少年は空のグラス片手に、キャストの彼女たちを冷ややかに見下ろしている。

「ねぇ、あんた、なんか言うことねぇの?」

「ご、ごめんなさい、らんくんっ…許してぇっ…!」


水に濡らされたキャストの1人が瞳に涙を浮かべながらそう懇願するが、らん、と呼ばれた少年は顔色1つ変えやしない。
見たところ高校生くらいの風貌の少年を何故ここまで恐れているのか、私にはよく分からなかったけれど、このまま見過ごす訳にはいかないと『まぁまぁ落ち着いて』と割って入ろうとした時だった。


「いっ、痛っ、痛いっ!」

「うっせぇよ、黙れ」


泣きながら懇願しかしないことに苛立ちを覚えたのか、綺麗に結われた彼女の髪を掴みいきなり引っ張り上げた彼。当然彼女は突然の痛みに悲鳴に近い叫びを上げた。

…その様子を見た瞬間頭に一気に血が上った。

彼らの方まで駆け寄り、周りにいた男たちを押し避ける。テーブルにいくつか並べられたグラスのうち1番手近なものを掴み、勢いのまま少年の顔目掛けてかけてやる。
するとパシャンと、気持ちのいい音と共に、また別の悲鳴と、「何しやがる!!」という男たちの野太い罵声が聞こえた。


『…何があったか知らないけど、あんた調子乗りすぎ。子供だからって何しても許されるとでも思ってんの?』


周りの喧騒を余所に少年に言い捨てる。
返事をする様子は無いが、今にでも殴りかかってきそうな男たちに少年が髪から水を滴らせながらも一睨みすると、途端に静まり返った。


「おねぇさん、あんた俺が誰だか知っててやってる?」


『え?知らないけど…ていうか君未成年でしょ?こんなとこ来たらダメだし…ってかお酒も飲んでるでしょ!?』


質問の意図よりも、未成年を入店させ、あまつさえ飲酒までさせている事実に頭を抱えたくなった。これがお国にバレてしまえばよくて罰金、酷くて営業停止。せっかく居心地よく、しかも稼ぎもかなりいい最高なバイト先に出会えたというのにこんなことでおじゃんになってしまっては悲しすぎる…。
とにかくオーナーにどう対処していくべきか聞こうと考え、パンツのポケットに手を入れる。が、着替えの途中に急いで出てきたせいか、スマホを控え室に置いたままだということと、そして上はキャミソールのまま飛び出してきたことに気づいてしまった。

(うわ、こんな大勢の前で!恥ずかしっ)


さっきまでは何の恥ずかしさも無かったのに、気づくと途端に羞恥心を感じ始める。
とりあえず控え室にスマホと上着を取りに行こうとした時だった。


「なぁ」

『え』


いきなり体がぐらりと傾いたかと思うと、煌びやかなシャンデリアがいきなり背景に現れ、目の前には何を考えているのかが分からない、ただただ冷ややかな紫の瞳が広がる。背中にはいつも座って接客しているはずの革張りのソファが触れていて、少しひんやりとする。

【らん、という少年に押し倒された】と私の脳が理解するまでに数秒かかった。


「お前ら、そいつら連れて先こっから出とけ」


そんな私をよそに、彼は淡々と周囲の男たちにそう告げる。少年に頭を下げた輩たちは、もうどうしていいのか分からないといった表情のキャストたちを連れてフロア外に出ていく。途中水をかけられ、髪を引っ張られていたキャストと目があったが、申し訳なさからなのか目をそらされてしまった。


「で、おねぇさん。今俺ちょーぜつ機嫌わりぃんだけど、どうしてくれる?」


目の前の彼に目線を戻すと、ひんやりとした手がするりとキャミソールの下から侵入し、腹部の辺りにまで伸びていた。予想外すぎる展開に『ちょっ、何してっ』と身体をよじろうとすると反対の手で両腕を頭上で押さえつけられる。


「俺のお楽しみタイムの邪魔してくれちゃったんだからさぁ、代わりにおねぇさんで遊んじゃおっかなあ」


冷ややかな目線とは裏腹に、少し熱っぽい吐息が耳にかかる。


『は!?何言って、それ以上手入れたら殴るからっ!っってやめ、んっ…んぅ!?』


今度は唇を塞がれ、最後の口答えすら出来なくなる。目の前にはさっきよりも間近に迫った少年の顔。閉じられた瞼を見ながら睫毛長いなぁなんて、何故か冷静に思いながらこの危機的状況を打破する為に思考を回転させる。すると、今度は生暖かいものが唇をこじ開け、口内を蹂躙し始める。
それが【少年の舌】だと気づいた時には、勝機はここだ!とばかりに噛んでやった。勿論多少の手加減はして。


「っっ!?」


さすがに舌を噛まれるのは予想外だったのか、思わず口元を押える彼。自由になった両腕でそのまま勢い良く彼を突き飛ばす。
自分よりも年下とはいえ血気盛んな少年を女の力でなんとかできるか不安はあったが、予想外にもあっさりと彼は私の上から退かすことが出来た。


『ざまぁみろ!!大人を舐めんな!!』


勢いよく立ち上がり、捨て台詞を言うが早いか、私はそのまま彼に背を向け控え室に走った。バタリと扉を閉じた瞬間、緊張の糸が途切れたのか腰が抜けそうになったが、急いでさっき脱ぎ捨てたTシャツにもう一度着替え、置きっぱなしにしていたスマホと鞄を手に取り、裏口から颯爽と退勤してやった。





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

バイト先から電車で乗り継ぎ1時間程。駅の改札口を通り、外に出るとさっきの騒動なんて無かったのではと思うくらい、私の住処がある街は静かだった。22時前だということもあって、街ゆく人々は仕事帰りの堅実そうなサラリーマンくらいなものだ。電車に乗りながらずっと動悸がしていたけれど、いつも通りの光景に安心したのか、徐々に落ち着きを取り戻していく。帰路に着くべく、目の前の信号を待っていると

ブーブー

とスマホが振動し始めた。
画面に表示されているのは、なんとなく予想していた人の名前だ。

『はい、愛実…じゃなくて美亜です。』

「あんた、なんてことやらかしたの!!」


スマホ越しだというのに耳にキンキンと響くオーナーの声に思わず耳から少し離す。

『…すみません、けどいくらお客様だとしても目に余る行為だったので…しかも1人は未成年でしたし…』

「はぁ…あんたが言ってることは正しいし、いつもならお礼を言っていたところよ。けど、今回は余りにも相手が悪いのよ…」


いつも強気なオーナーが余りにも狼狽えた声で「はぁ…私が貴方に彼らのことを説明していなかったのが悪かったのよね…」と続ける。さっきのキャストたちといい、何故こんな何人もの大人があの1人の少年にここまで怯えるのか意味がわからなかった。

『あの…なんで相手が悪いんですか…?そりゃイカついのは何人もいましたけど、そのうちの1人なんか高校生くらいの綺麗な男の子でしたよ?』

高校生らしくイキリ散らして、オマケに盛りもついていましたけど…という余計な一言は付け加えずにそう言う。


「はぁ…見た目はね…でもその綺麗な男の子が一番危ないのよ…。まぁ貴方六本木に来てそう長いわけじゃないものね…はぁ…。」


さっきから何回目か分からないオーナーのため息を聞いた後、少し間が空き、どもりながらもオーナーがまた話し始める。


「…あんたも、聞いたことくらいあるでしょ?【灰谷兄弟】って。」

『そりゃまあ、お客様からも名前くらい聞いたことありますよ…中学生で人を殺したとか、六本木の輩を仕切ってるとか、警察でも手に負えないとか…でも都市伝説みたいなものですよね…?』


ここ半年でお相手をしたお客様方から何度か聞いた【灰谷兄弟】という名称と共に、その単語を発した際の彼らの青ざめた表情を思い出す。聞いていた当時は、怪談でも話す時のように聞き手の私を怖がらすための演技だろうと楽しくそれに纏わる話を聞いていたものだ。
何だか嫌な予感がして、スマホを握る手がじとりと湿っていく。ははっと笑いながらオーナーに同意を求めたが、それは虚しく切捨てられた。


「…そう思うのも無理はないけど実在するのよ…。はぁ…あんたが相手した今日の男の子…名前わかる?」

『…確か、「らん」って呼ばれてましたけど…』


目の前の信号が何度目かの点滅を迎え、青に変わる。往来していた自動車は静かに白線で止まり、通行人が通り過ぎるのを待っている。
オーナーとの通話に集中する余り、信号の前でずっと立ち尽くしていたがそろそろ歩き始めることにする。

「そう、蘭さん、噂の灰谷兄弟の兄の方よ。はぁ…ほんっとによりによって蘭さんの方に喧嘩をふっかけるんだから…これがまだ弟の竜胆さんならやりようもあったっていうのに…」


何度目かのオーナーのため息を聞きながら、とりあえず自分がとんでもない相手に啖呵を切ってしまったことを理解し、どんどん血の気が引いていく。
…これはもうあの店に顔を出せなくなっただけでなく、六本木に立ち入る…いや命があるか分からない。
信号を渡りきり、自宅のある駅から少し離れたマンションを目指してとぼとぼと歩く。


「うちの店は幸いお咎めは無さそうだけど…、蘭さん達、あなたが居なくなった後すぐ店を出たから…もしかしたらがあるかもしれないし…気をつけなさよ…とにかく、六本木から離れた別の系列店紹介してあげるから、うちの店への出勤は今日で最後にして頂戴…」

『ご迷惑かけちゃってすみません…ありがとうございます。…はい、気をつけます…失礼します。』

オーナーの優しさに感謝しながら、通話を切る。最後に「女にも容赦無いんだから…ほんとに気をつけて」という言葉が重く心にのしかかった。
…考えることが山積みだ。
まず昼職の職場への行き方。いつもは六本木を通過するルートだけれど、少し遠回りして行くべきか。あと新たな夜職の職場がどこになるかまだ分からないけど、場所によって勤務時間の変更も必要になるかもしれない。お得意のお客様にもそれとなく移籍の旨を伝えなければならないし…さっきまで恐怖でいっぱいだったが、いざ現実的なことを考えているとふつふつと怒りが込み上げてきた。
…元はと言えば、自分の考え無しな行動で引き起こされたものとはいえ、正しい行い(かなり強引ではあったけれども)をしたにも関わらず、あんな生意気そうな少年1人に日常を乱されるなんて理不尽極まりない。


『あーーっ一周まわって腹たってきたァァ、もう知らん、今日は飲む!ビール飲む!』


恐怖と苛立ちを払拭すべくとりあえず酒に頼ることを決める。
そうこうするうちに目の前には都内の割には格安で、セキュリティもそこそこ。近くにスーパーもあり、食うには困らない我が城が現れる。
しかし、おかしな事にいつもは無いはずの黒光りした車が傍に駐車しており、少し点滅しがちな電灯の明かりに照らされながら怪しい雰囲気を漂わせている。

…本能が言っている、ここから立ち去れと。
急いで先程歩いてきた道に踵を返そうとしたが、もちろん遅かった。
後部座席から、ガタイのいい男が出てくると私には見向きもせず、助手席の扉を開いた。
中からはお察しの通り。勿論今一番私が会いたくなかった噂の少年【灰谷蘭】が降りてきた。


「さっきぶりおねぇさん」


冷や汗が流れまくる私とは裏腹に、目の前の少年は何故か嬉しそうだった。
暗がりの中でも確認できるくらい頬は紅潮しているし、声も多少上ずっている気がする。
そんな少年の様子から、脳内では獲物を狩る肉食動物を思い起こしていた。

ごくりと生唾を飲み、少年の一挙一動に集中する。

『な、何かご用でも…』

ようやく出た声は少し震えていて情けないものだったけれど、どうにか言葉にすることができた。


「用?用はねぇ…」


私の声を聞いた少年はさっきよりも一層嬉しそうに少し熱の篭った声で答えながら、静かに歩き始める。後ずさりすらできなくなった私は距離を縮めてくる少年をただ呆然と眺める。
手を伸ばせば届く距離にまで来ると、ピタリと止まった彼は、不自然にも両手を後ろにやっていた。暗がりで何も見えないが、何かを隠し持っているのは一目瞭然だった。


(…ま、まさかじゅ、銃だったりしないよね…?いや、人殺してるんだったら銃くらい持ってるか!え、死ぬ…!?)


本当の窮地に立たされた時、人間は何も考えることが出来なくなるようで、状況を理解した瞬間にはもう逃げるなんてことは考えられなかった。ただただすぐ側にきた【死】を呆然と見やる。


「はいおねぇさん、手ぇ出して」


どうせここで1発撃って殺そうと考えているだろうに、この期に及んで救いを乞えとまで言うのか…さすがヤクザやることが違う…なんてことを考えながら静かに両手を宙にあげる。
その様子を見て、少年が不思議そうな目を私に向ける。


「上じゃなくて前。俺の前に出して」


今度は私が不思議がる番だった。
あらゆる映画やドラマの知識から得た情報でしかないけれど、私の中での降伏ポーズは両手を高くあげる、が常識だ。しかし、現実世界はそうでは無かったみたいだった。…死ぬ前にいつ使うかも分からない要らぬ知識を得てしまった。

言われるがままに、新常識の降伏ポーズに変更する。すると満足げに笑んだ彼が「はぁい、プレゼント」と声と同時に後ろ手を動かした。


あぁ、いよいよこの世とおさらばだ…


目を瞑りそう覚悟を決めた瞬間だった。


バサッ


『!?』


聞こえてきたのは銃声でもなければ、硝煙の匂いもない。…というか痛みも無ければなんだかいい匂いまでする。両手には何故か微かな重みを感じた。
恐る恐る瞳を開く、すると目の前にはこの場には不釣り合いこの上ない、十数本の赤い薔薇の花束があった。


「おねぇさんに惚れちゃったぁ。責任取ってねぇ」



いっそ殺された方が楽だったかもしれない…そんなことを思いながら、不敵に笑んだ少年の瞳を見つめ返した。







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