逃れられない束縛を


本社オフィスから徒歩10分。
所狭しと軒を連ねる高層ビル群の内の一つに兄さんと俺は居を構えている。

エントランス口を抜けると、常駐しているコンシェルジュの男が丁寧に頭を下げる。軽く会釈して、傍にあるエレベーターで最上階番号を押すと程なくして扉が開いた。誰もいない空間で何を考えるでもなく頭上を見上げる。勢いよく電光表示器の数字が入れ替わりものの数秒で最上階へと到着した。
扉が開くと同時に、胸ポケットに入れていたスマホが振動する。取り出し、通知を見ると兄からのメールだった。廊下を歩きながらタップし、内容を確認する。

≪車で向かってる。もう直ぐ着く。≫


簡潔に言いたいことだけが書かれた一文を読み、ため息をつく。
恐らく初恋である兄の相手が現役高校生であるという衝撃の事実を知ってから早1年と少し。
恋を自覚した兄の狂気的な行動力の元、ついに本日、お相手家族との会食後、少女を俺たちの家まで連れ帰るという所まで来てしまった。

玄関扉の前まで歩を進め、立ち止まる。目線より少し上に設置されたカメラに視線を向けると機械音と共に扉が開いた。
革靴、ジャケットを脱ぎネクタイの結び目に手をかけ緩める。リビングまで向かい部屋の明かりをつけると、ここ1年で凄まじい勢いで増え続けた写真立てたちに出迎えられる。
…言うまでもなく兄の仕業だ。どの写真も被写体の視線がレンズを捉えることは無く、ぶれているものすらある。明らかな盗撮写真であるそれらは兄が意気揚々と購入し、彼女の自宅や学校、よく行く店や通学路などに設置した盗撮機器類から転送されてくるものだ。

最早恐怖以外の何物も感じられない兄の【愛】を現在一身に受けているであろう彼女に流石に同情の念を抱いてしまう。一度だって会ったことは無いけれど、こんなにも毎日顔を見ていれば情も湧くものだ。


「まったく、厄介な男に好かれたもんだな…」



▲▼


ひとしきり話し終えた蘭さんは、いつの間にか手にしていた小筒から手を離すとどこからともなく取り出した幾枚ものカードのようなものを扇のように自身の目前で広げ、恍惚の表情を浮かべ始めた。
とりあえず物騒なものが彼の手元から離れたことに安堵しながら、記憶の様々な引出しを開けては閉じてを繰り返し、彼との出会いを思い出そうとする。

…しかし、彼の言うように私と蘭さんが出会ったとしていても落とし物を拾った際の一時だけ。蘭さんのような美丈夫であれば覚えていることもあるかもしれないが、生憎、女優の母の交友関係もあってかそういうものにも慣れてしまっている。残念なことに、このまま頭を抱えても目的の記憶は思い出せそうにも無かった。

顔を上げ、隣に座る蘭さんに目線をやると、それに気づいた彼が蕩けそうな瞳を向けてくるものだから思わず胸が跳ねた。銃口を向けられた際とは違う胸の高鳴りに、彼の言うように早くも吊り橋効果が効いてきたのか…なんてことを考えては一蹴する。

『あの…何を見てるんですか?』

彼から目線を逸らすためと、純粋に手元のものが気になりそう口を衝いて出た。
一瞬何かを思案するように動きが止まった彼は、それから少ししてカードの中からババ抜きのように一枚引き抜き手渡してくる。軽く頭を下げてそれを手に取ると、どうやらカードなどではなく写真であることが分かった。
じっと覗き込むと、段々と暗闇に慣れた視界に全体像が浮かび上がる。

見覚えのある紺色の膝下丈のスカートにジャケット、特徴的な青色のリボン。我が校の制服を身にまとった少女はこれまた見覚えのある家具たちに囲まれた部屋で、リボンに手をかけ着替えを試みようとしていた。


…つまり、私の自室での着替えシーンの盗撮写真だったのだ。


『!?!?!ら、蘭さん!?ああ、え、あ、え!?』


思わず言葉にならない声をあげ、恥ずかしさのあまり写真を裏返す。
そんな私の様子を見て、悪びれることも無い彼は楽しそうに笑っている。

『わ、笑いごとじゃないですよ!何なんですか、この、この…!』

「可愛いでしょ?君の写真」

『そうではなくてですね!?い、いつ撮ったんですか!…これ私の部屋ですよね!!?』

「隠しカメラ、最近の性能いいんだね〜」

いまいち会話になっていない回答に、大きく口を開けて彼を見返すことしかできない。
もう一度意を決して写真を見返すと、右端に小さく印字されている日付がちょうど1年前だったこともあり、少なくともこの常軌を逸した行為が1年前から行われていることに頭が痛くなった。
いや…それ以前にここ最近頭が痛くなることしか起こっていないのだけど。

「さ、俺らの家にとーちゃく」

頭上から降ってきた楽しそうな声音に辟易していると、私たちを乗せた鉄の塊がいつの間にかエンジンを止めていることに気づく。自動ドアなのか蘭さん側のバックドアが開き、先に降りた彼が恭しく左手を差し出している。
この手を取るべきか取らないべきか。両親に身売りされたような私に【振り払う】なんていう選択肢など存在しないが暫し躊躇する。銃口を向けて来たり、盗撮したり…きっとこれ以上にもっと何かある…明らかに危険な人だ。今ここで逃げたって、逃げなくたって私に平和など存在しないだろう。

難し気な顔をして俯く私を知ってか知らぬか、一切笑顔を崩さない彼は、体を少し屈め、半身を私の座る座席まで乗り入れると、さっきまで差し出していた左手でがっしりと私の左手を掴んだ。
するとそのまま勢いよく引っ張られ、視界がぐるりと反転する。
驚きのあまり目を瞑り、少ししてから恐る恐る瞼を開くと無表情の蘭さんが私を覗き込んでいる。

互いに何も発さずに数十秒。
網膜には端正な彼の顔が焼き付けられ、落ち着いた彼の呼吸が鼓膜を震わせた。


「今さら逃がすわけねーだろ」


その言葉と共に背中と座席シートの間に彼の手が差し込まれ、ふわりと体が浮いた。
そのまま私をお姫様抱っこの形で抱いた彼は、中腰のまま器用に車から降り、何事も無かったかのように目の前に聳え立つタワーマンションまで迷うことなく突き進んでいく。

『お、降ろしてください!じ、自分で歩けますから!』

「ん〜?可愛くおねだりしたら考えてやる」

『はっっ!?ふ、ふざけないでください!』

顔を真っ赤にしながら言い返すと、くくっと小さく彼が笑った。
腕の中から見上げた彼の表情はまた笑顔に戻っている。


エントランス口まで入ると、流石というべきか身綺麗にした男性のコンシェルジュが深々と頭を下げており、彼はそれに構わずさっさと傍のエレベーターまで向かった。依然私は彼の腕の中だ。

「茉莉花ちゃん、ボタン押してくれる?」

『え、はい』

反射的にエレベーターの乗り場ボタンを押してしまった私は押してから「何を素直に言うことを聞いているんだ!?」と一人で反省した。



+


数秒で目的の階に着いた。
言うまでも無く最上階に居を構えていた彼は、私を降ろすことも無く廊下を進んでいき、一室の扉で足を止めた。少し顔を上げて何かを見つめた彼、その数秒後に自動扉が開いた。
広めの玄関には揃えられた革靴が置いてあり、ハンガーラックには薄水色のジャケットが掛かっている。


「竜胆〜帰ったぞー、お嫁さんと一緒に〜〜」


私を抱きかかえたままの蘭さんは、閉じた扉だけが見える奥の部屋に届くような声でそう言った。
この際、言っている内容は置いておいてただ一つ気になったことは【竜胆】という聞きなれない名前だ。
まさか花に語りかけるような人でも無いだろうし、こんな危険人物が犬や猫を飼っているとも思いたくない。
思い返せば、私は本意では無いにせよ彼と結婚するというのに、彼、蘭さんのことを一切知らない。
有名企業の社長であること以外…本当に何も知らないのだ。

未だにしんと静まり返った空間に、キィっと音が響く。
奥の部屋から現れたのは勿論、花でも、犬でも猫でもない。
すらりと手足が長く、少し伸びた髪。そして…蘭さんと同じような紫色の瞳で見つめる彼は、何故か私を憐れんでいるような気がした。


「どーも、おねーさん」


未だに彼の兄に抱かれたままの私を気に留めない彼は、彼と同じ色の瞳で私の顔を覗み不敵に笑った。








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