遅咲きの恋には劇薬を


梵天の活動資金源として始めたフロント企業【velvet】は当初幹部の中で想定していた以上に急成長を遂げ、今や日本に知らぬものなどいないという程の大企業となっていた。
本社オフィスを六本木に設置するということで「家から近いだろ」と何とも適当な理由で兄の灰谷蘭、その補佐役として弟である俺、灰谷竜胆が任命されてから早数年。
人を殴る以外にも経営センスという才能も持ち合わせていた兄は、天性のカリスマ性を遺憾なく発揮し、敏腕社長として裏でも表でも色んな意味で恐れられる人物として名を馳せていた。

そんな30歳間近の俺の兄が、なんとも座り心地のよさそうな所謂社長椅子にドカッと腰かけながら初々しい中学生のようなセリフを吐いたのを聞いて、俺は思わず飲みかけのコーヒーを吹きそうになった。
なんとか寸でのところで飲み込むものの、一気に口の中に広がった苦みと酸っぱさに思わず咽る。

「げほっ…え、今なんて言った兄さん…」

「だーかーらぁ、好きな女ができたんだって」

「…は?」

涙目ながらにそう聞くと、俺を気にする様子は一切ない兄がまたも初々しいセリフを吐くものだから素で聞き返してしまう。
兄とは生まれてこの方行動を共にしているが、兄が「好き」なんて歯の浮くようなセリフを発するのは初めてだった。勿論、兄が女と関係を持つことは幾度もあった。仕事後は凄惨な現場が多い故なのか興奮を抑えられずにそこらの群がる女を抱き、疲れ果て失神したかのように眠る女を事後処理として俺が適当な場所に送り届けることも何度もあった。しかし、それらの全ての行為に関して兄に愛だの恋だの感情は無く、来るもの拒まず去る者追わず。ただただ欲のはけ口としてしか関りを持つことは無かったはずだった。
…そんな男が発する「好き」という言葉には何だか言いようのない寒気のようなものを感じてしまう。

「…まぁいいや…とりあえずその好きな女って誰よ?水か?ソープか?…あ、幹部連中のお気に入りだけは勘弁してくれよ…手出したら絶対面倒なことになる」

いつも厄介ごとしか持ち込まない兄に予め念を押すようにそう言うと、そのどれにも当てはまらないのか兄は首を振る。

「あいつらの女にはさすがに手ぇ出さねーよ、面倒だし。」

そう言って着崩したジャケットの内ポケットからスマホを取り出した兄は、それを投げて寄越す。
咄嗟に出した右手でなんとかキャッチし、画面に目をやると制服姿の少女が写っている。見た感じ高校生くらいだろうか。まだ幼さが残る彼女の瞳は明らかにカメラを捉えておらず、少しぶれた画像からも盗撮写真であることは容易に想像がついた。

「兄さんってこういう趣味だっけ…」

まさかの兄の性癖を知ってしまい、何とも言えない気持ちになる。
確かに兄の全てを把握しているつもりは無かったがまさかここまで知らない一面があったとは…と唖然としていると「すっげえ失礼なこと考えてるだろ」と睨まれてしまう。
機嫌が悪くなった兄は手が付けられない。確かに年を取り、見かけ上の雰囲気は丸くなったように感じる兄だが、根本は常識など通じない人間だ。「いや…何でもない」と言うと、それ以上突っ込まれることは無かった。

案外あっさりと引きさがった兄にその日は安堵していたものの、その数日後暫く続く中学生顔負けの兄の恋愛相談を聞くことになるとはその時の俺は想像すらしていなかった。

▲▼


突きつけられた銃口が視界から消え、ようやくほっと一息つくことができたが、依然全く安心できない状況が続いていた。隣には相変わらず楽しそうに笑っている彼。ただただ背筋を伸ばし固まることしかできない私とそんな彼を乗せた車は止まることなく夜の街を駆け抜けていく。運転席と後部座席はガラスのようなもので仕切られており、運転手の存在を伺うことはできない。加えてこちらも特殊な加工が施されているのか、車窓から外の景色も見ることができなかった。明らかに怪しすぎる車の装備に、不安が募る。

(生きて帰れるのかしら…)

俯き握りしめた拳を見つめながら、そんなことを思う。
せめて私の気分が明るくなるようにとヘアアレンジにメイクに衣装…とサエが張り切って私をめかし込んでくれたというのに、気分は現在絶不調である。おまけに最悪なことに、お得意の物騒な妄想まで捗ってしまい、身にまとったお気に入りのワンピースが血にまみれ、隣に座る彼が放った銃弾によって自分が絶命する瞬間を想像する位には、恐怖は最高潮に達していた。

「どう?俺のこと好きになった?」

『は、はい!?』

突然彼が私の顔を覗き込んで来るので、変な声と共に体を仰け反らす。
視界いっぱいに広がる彼の瞳は薄ら紫がかっており、珍しい瞳だな…とこの場に不釣り合いすぎる感想を抱いてしまう。

「おかしいなー、竜胆に貰った本には効果的って書いてたんだけど」

『本…?』

質問に答えられず、目を見開いて彼を見つめていると不思議そうに彼がそう言うので思わず反射的に聞き返してしまう。

「そう、吊り橋効果って言うの?女って危機的状況にドキドキしたら勘違いして好きになるんだろ?」

『は…はあ…。え…え?』

目の前の彼が発する言葉を一言一句逃さず聞いたはずだが、私の頭が足りないせいなのか全く理解ができず情けない声しか出ない。そんな私の様子に何か勘違いをした彼は、左手で掴んだままの拳銃を目前まで掲げ、「拳銃程度じゃドキドキしねーかぁ」という何とも頓珍漢な勘違いをし始める。

『い…いやいやいや…!そうではなくてですね!?拳銃がどうとかの問題では無くて…そもそもえっと、灰谷さんは私が好きなんですか!?』

「じゃなきゃ結婚なんて申し込まねーだろ」

当然だろ、お前は馬鹿かと言わんばかりに怪訝な表情を向けてくる彼に一瞬怯むが、勇気を出して構わず続ける。

『!?え、でもそれは父の会社を助けるための条件でしかないんじゃ…』

「あーそれねぇ、まぁ俺があんたを手に入れるために仕掛けたことだしね」

まさかの発言に開いた口が塞がらない。
娘の私が言うのもあれだが、父の会社も彼の会社に比べると規模は劣るだろうが、名前を言えば「あー、聞いたことがある」と皆口を揃えて言うくらいには名が知れている。その父の会社を倒産寸前まで追い込むとは一体どんな圧力をどのようにしてかけたのか。いや…それよりもそこまでして、ただの一企業の社長の娘を手に入れる理由が「好き」なんていう生易しい言葉で済ませられるものなのか。縁談を持ちかけられた時からあった違和感がどんどんと膨れ上がっていく。

『まってください…そもそも私貴方とは今日が初対面ですよね…?なのに何で好きなんて…そこまでする理由が全く分かりません…』

膨れ上がったそれを飲み込むことができず、思い切って言葉にする。
銃口を顎に乗せ暫し思案するような素振りを見せた彼をハラハラしながら見つめていると、にやりと口角をあげた彼が徐に話始めた。





▲▼


失神した女を横目に身支度を整える。
仕事終わりに寄ったキャバクラで、持ち帰った名前も知らない女と適当に入ったホテルで行為に及んで数時間。
投げ捨てらたように床に転がるスマホを拾い上げ、お決まりのように竜胆に連絡を入れた後、女を再度見ることも無くさっさと部屋を後にする。
時刻は夜の8時半。ホテルが立ち並ぶ薄暗い路地裏から出ると多くの人で賑わう繁華街が広がっている。
そのまま何事も無かったかのように人通りに紛れ込み、スマホを操作しながら道なりを進んで行く。画面に表示された《了解》という竜胆から届いた簡素な通知を確認し、次に幹部連中からの業務連絡を開く。早急に対処しなければならない事案が無いことを確認した後、スマホをジャケットの内ポケットに仕舞おうとすると、曲がり角から出てきた人とぶつかり思わず手から滑り落ちる。
カラカラと音を立てて地面に転がるそれを見つめながら、チッと舌打ちをした。
ぶつかってきた奴はこちらに気づくこともなくそのまま往来に消えていく。昔の自分であれば逃がさず追いかけ、胸ぐらを掴み暫くは動けない程度には痛めつける所だが、そんな労力も惜しいのでため息をついて見送った。

皆それぞれに忙しなく歩を進める街中の一角で、誰に拾われるでもない転がったそれを拾い上げようとすると、視界に白く細い手が映り込む。伸ばした手を止め視線を上げると一人の少女がこちらをのぞき込みながら、「貴方のですか?」と先程自分の手から離れたスマホを片手に尋ねてくる。
膝下丈のスカートに、ジャケットを羽織り特徴的な青色のリボンが首元に結ばれた学生服を身に纏う彼女は、人の良さそうな笑顔を浮かべながら「はい、画面割れて無いみたいで良かったです。それじゃ」とスマホを手渡すとさっさと雑踏に消えていった。
暫く手渡されたスマホを握りしめながら、曲がり角で立ち尽くす。そんな自分を時折不思議そうに見つめる通行人など気にもせず、先程の少女の笑顔を思い出した。

(俺が、灰谷蘭ってことを知って恩を売るために拾ったのか…?)

大企業の社長と日本の裏社会を牛耳る梵天幹部という2つの仮面を持つ自分には、良くも悪くも人が群がる。
しかし、周囲の人間が誰一人として拾うことの無かった状況からしても彼女が俺に気づいた様子は無さそうだった。

次第に体が熱くなるのを感じ、傍に聳え立つ雑居ビルのガラス扉に映る自分を見ると何故か頬が赤く染っている。
意味の分からない体の反応と、先程の少女の笑顔がやけに脳裏に焼き付いてしまったことに俺は戸惑いを隠せなかった。


+




「何してんだあ?」

一通り幹部連中との定期連絡をし終えた後、俺は少し離れた休憩スペースで煙草をふかしていた。
天井に吸い込まれるように上がっていく煙を見つめながら、ここ暫く何度も自分があの少女を思い出しては顔を赤らめる、という未だかつて経験した事の無い不可解な現象に頭を悩ませていると、突然背後から声を掛けられる。振り返ると、酒か薬かに酔った桃色髪の男が焦点のあっていない目で俺を見つめている。

「三途…お前、相変わらずやりすぎ。」

「うっせーな、お前にんなこと言われる筋合いねーよ」

呂律の回らない舌でなんとかそう言った三途はそのまま俺が座るソファの隣にわざわざ腰を下ろす。隣から香る強すぎる酒の匂いに思わず顔をしかめた。

「んだよ、わざわざ隣に座りやがって。向こうで薬でもキメてたんじゃねーのか」

「あーん?…んー、お前が珍しく弟と離れてわざわざこんなとこにいるのがなーんか気になってよぉ」

ラリっているくせに何故か察しの良い三途にさっきよりもあからさまに顔をしかめると、ムカつく顔で笑うそいつは更に続ける。

「女だろ」

「は?」

「だーかーらぁー、女だろって。どうよ?当たってんだろぉー?男が頭抱えて悩むことなんて大概女絡みに決まってんだよ」


俺の肩に腕を回しもたれかかってくるこいつは、どうよどうよ?と同意を求めてくる。
普段であればただのヤク中であるこいつに、まともな相談なんてものを持ち掛けることなど無かったが、その日は多めに酒を飲んだことや、心外ではあるもののそのただのヤク中に自身の胸の内を的中されたことに免じて素直に話に乗ってやることにする。

「お前、好きな女とかいたことある?」

「なんだよそれ、中坊の恋バナかあ?童貞かよ」

「てめぇ、暫く入院させるぞ」

思い切って聞いた自分が馬鹿みたいだと思いながら、腹を抱えてクスクス笑うそいつを睨む。わりぃわりぃと言う三途は全く悪びれた様子など無く、暫く笑い転げる。

「あーおもしれ。あの灰谷蘭からこんなおもれーこと言われるとはなあー?まあ、そーだなあ、いるぜ?何なら現在進行形でな。」

かなり意外な返答に、先程の苛立ちが少し収まる。

「その女のこと考える時って、どんな感じになる?」

「んー、そーだなあ、まぁまずヤリてえってなるなぁ。」

「…まぁ分かるけどよぉ…他にねーか?」

性欲とはまた別の所にあるような、最近の自分の感情の正体を知りたくて、何故か真面目にヤク中と会話を繰り広げてしまう。そんないつもと少し雰囲気の違う俺にさすがに三途も何かを察したのか柄にも無く暫し考えるような素振りを見せた。

「…なんか毎日頭の片隅でそいつのこと考えちまって、その度に体が熱くなるっつーか。まぁヤリてえなぁとはやっぱ思うけど、そこらにいる女に対しての性欲とはまた別っていうか…まぁ…好きってことだ!言わせんなこんな恥ずいこと!」

言い終わったかと思えば今度はばっと勢い良くソファから立ち上がった三途は、恥ずかしさを打ち消すようにパンツのポケットから小さなケースを取り出す。案の定中に入っていたカラフルな錠剤を数粒口に放り込みバリバリとラムネ菓子でも噛み砕くように飲み込んだ後、じゃあな、とその場を去っていった。


ヤツの発言を思い返しながら、未だに煙を漂わせる煙草を咥えなおし、ゆっくりソファから立ち上がる。

(好き、好き…好き…)

ようやく見つけた感情の名を頭で何度も反芻すると自然と口角が持ち上がった。

(あいつに気付かされたことだけは癪に障るが…)

脳裏に焼き付いた少女の笑顔を思い浮かべながら、テーブルに置かれた灰皿に煙草の先端をぐしゃりと押し付ける。



三十路手前の梵天幹部が、自身の初恋を自覚した初めての瞬間だった。







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