松野千冬と少女の【彼】にまつわる残滓の話。



「はい、お弁当」
「ありがと」

母からピンクの布地でできた小さなランチバックを受け取る。
崩れないようにと、丁寧にスクールバッグに直していると、背後から母の手が伸びてくる。

「襟、立ってたわよ」
「ほんと?きづかなかった」
「もう、初日だからってはしゃぎすぎちゃだめよ」

はい、できた。とぽんぽんと肩を叩いた母にお礼を言い、バッグを肩にかける。
壁に掛けられた時計を確認すると、そろそろ家を出ないと間に合わないといった時間だった。

「そろそろ時間やばいし、行くね、お母さん。」
「そうね、気を付けてね、お母さんも後から式参列するから」
「うん、いってきます!」

玄関に向かい、今日おろしたてのローファーに足を入れる。まだ履きなれないそれは、サイズこそあっているものの少し硬くて、窮屈に感じる。やっぱり、今日までに少し履き慣らせばよかったと今になって考えても仕方がないことを思った。右足のつま先をとんとんと地面に叩きながら、靴箱の上に飾られた1枚の写真に目を移す。長い黒髪を靡かせて満面の笑みでこちらを向く男性と目が合い、私もいつものように笑みを返し家を出た。

・・・



12年前、兄が死んだ。
当時4歳だった私はいまいちその時の状況を飲み込めず、ただもう兄とは会えないということだけを理解した。母は初めこそ兄の死を悲しみ、体の水分が全て無くなってしまうのではというくらい声を上げて泣いていたが、次の日にはいつものように私に朝ごはんをつくり、保育園まで送り届けてそのまま仕事に向かって行った。きっと未だに心の傷なんて癒えてはいないだろうけど、女手一つでまだ幼かった私を育てていくには、感傷に浸っている余裕すら無かったのだろうと今になって理解することができた。

そういえば母が泣いたのを見たのは兄の死が初めてでは無かった。
…中学生にして留年。一体どういったことをしていれば義務教育である中学校で留年なんてことになるのか、高校合格までを経た私には到底理解はできないけれど、とりあえず兄は勉強はできなかったみたいだ。
母が遺品として大事に残していた教科書類には謎の落書きやら解読不能な文字が多くあり、母とそれを見ながら笑ったことを思い出す。

「勉強はできなかったかもしれないけど、家族や友達思いで…お母さんの自慢の息子よ」

瞳に涙を浮かべながら母は言った。
不器用に何度も書かれた謎の漢字の跡を指でなぞり乍ら断片的に残った兄の記憶の残滓を必死に手繰り寄せる。記憶の中の兄はいつも優し気に笑っていた。


・・・


公営住宅の5階にある自宅を出て、目の前の階段を一気に駆け降りる。
新しいローファーは歩きにくいことこの上無いけれど、時間が時間なのでそうも言っていられない。
風に靡くスカートだって気に留めずに走った。
息を切らしながら一番下まで降り切ると、視界に満開の桜並木が飛び込んでくる。本来なら、この桜並木を優雅に歩き、新たに始まる高校生活に胸を躍らせながら落ち着いて登校したかったのだけどそうも言っていられない。そのままスピードを落とさずに走り抜けようとするといきなり「あの!」と声を掛けられる。
一瞬無視してそのまま通り過ぎることも考えたけれど、さすがに良心がそれを許してはくれなかった。
急ブレーキをかけて、その場に立ち止まり振り返ると黒髪スーツの男性が、これまた黒塗りの高級そうな車を背に立ち、こちらを見据えている。

「えっと、なんでしょう…」
「あ、突然呼び止めてしまって、…すみません」

明らかに私の方が年下にも関わらず、やけに緊張した風な挙動と声音を不思議に思った。
耳にピアスも付けて、髪だって刈り上げていて、それにさっきは気づかなかったけれど車の後ろには2人程怖そうなお兄さんまで従えて。緊張するのはこっちの方だと思いながら彼を見つめる。

「えっと、場地…穂乃花さんですか?」
「あ、はいそうですけど…」

いきなり名前を呼ばれ驚きつつも認めると、一瞬彼の瞳が揺らいだ気がした。
何故そんなに泣きそうな瞳をするのか理由は分からなかったけれど、なんだか胸が痛かった。

「えっと…私、そろそろ行かないと遅刻しそうで…」

数秒間見つめ合ってから、おずおずと私が切り出すと、はっと目を見開いた彼は少しだけスーツの袖で目をごしごしと拭った。

「呼び止めてしまってすみませんでした、特に用は無いんです…すみません、ただ一目貴方に会いたくて…」
「…そう、ですか…」

どこかでお会いしましたか?とか、私の名前を何故しっているんですか?とか、そもそも貴方は誰なんですか?とか。色々聞きたいことは山ほどあった。けれど、目の前のまた今にも泣いてしまいそうな彼を見て、ここでそれを聞くのは野暮だと感じた。

「呼び止めてしまって、すみませんでした。…俺はこれで、失礼します」
「あ、いえ、こちらこそ失礼します…」

恭しく頭を下げられてしまい、私も慌てて頭を下げる。
どこまでも丁寧な態度にドギマギしながらも、頭をあげた際に見えた時計台の時刻に一瞬で現実に引き戻される。未だに頭を下げたままの彼にもう一度「失礼します!」と声をかけてから、さっきよりも全速力で桜並木を駆けていく。
すると、背後から「入学おめでとうございます!!」と一際大きな声がして振り返ると、ようやく頭を上げた彼が優し気に笑い、私に向かって手を振っていた。

「ありがとうございます!」

返事を返すように、彼に向かってぶんぶんと手を振った後、私はまたまっすぐと続く桜並木を走っていく。

最後に見た名も知らぬ彼のその笑顔が、写真の中でいつも笑いかけてくる私の兄と何故だか重なって、胸を締め付けたがやっぱり理由は分からなかった。


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桜並木に消えていく彼女の後姿を俺は最後まで目に焼き付けた。
長く綺麗だけれど毛先にいくにつれ少しうねりを持った美しい黒髪を靡かせる少女。
それはかつて自分が人生をかけてでもついていきたい、と本気で願った≪あの人≫を髣髴とさせた。


本当は声なんてかけるつもりは無かった。
真新しい制服に身を包んだ少女は、はじめこそ俺の存在なんて気にも留めずにこの満開の桜並木を走り抜けようとしていた。その表情は新しい生活への期待感か、自分のように廃れてしまった大人では到底できない若さ故のものだった。

湧きあがった衝動を抑えきれずに、「あの!」と思わず声が出てから、しまった、やってしまったと思った。

「えっと、なんでしょう…」
「あ、突然呼び止めてしまって、…すみません」

不安と焦りを孕んだ瞳が俺を射抜いた。一体俺は何をしているんだ。
彼女にとって俺は見たことも無い、突然現れた赤の他人だ。怖がらせてどうする。

「えっと、場地…穂乃花さんですか?」
「あ、はいそうですけど…」

知っている。その黒い髪に、彼によく似た少し太めのしっかりした眉毛に、少し吊り上がった目尻。
彼の妹に決まっているじゃないか。一体自分は何がしたいんだと思いつつも、律儀に答えてくれた彼女の声を聴いて思わず涙が出そうになった。勿論、彼女は女性で、声の高さだって全く違う。けれど、どう表現すればいいのか…。抑揚の付け方なのか、彼女の背後に薄っすらと彼の面影を見たような気がした。
思わず瞳から涙が零れそうになり、必死に堪える。

「えっと…私、そろそろ行かないと遅刻しそうで…」
「呼び止めてしまってすみませんでした、特に用は無いんです…すみません、ただ一目貴方に会いたくて…」

当たり前だ、彼女はこれから入学式だぞ、と自分で自分を叱咤しながら、しどろもどろに彼女にそう言った。きっと聞きたいことも不思議に思うことも色々とあっただろうに「…そう、ですか…」と言った彼女はそれ以上俺に何を言うでもなかった。

「呼び止めてしまって、すみませんでした。…俺はこれで、失礼します」
「あ、いえ、こちらこそ失礼します…」

そんな彼女に精一杯の敬意をこめて、俺は深々と頭を下げた。
すると彼女も慌てて頭を下げる。数秒して、彼女が頭を上げたのを感じたが、俺は暫くそのままでいることにした。頭上から「失礼します!」と彼女の声がして、すぐにたったったっと子気味いい足音がしたかと思えば、どんどんと遠ざかっていく。
走りゆく彼女を最後に一目見ようと顔を上げて、また思わず声が出た。

「入学おめでとうございます!!」

こんなに大きな声を出したのは、あの昔ながらの黒い特攻服に身を包み、バイクを吹かせ走り抜けたあの頃以来だ。
振り返った彼女に向かって大きく手を振ると、彼女もそれに応えるように手を振り、そして桜並木に消えていった。



・・・


14歳という若さでこの世を去った彼は、今日彼女が潜るその門を叩くことは出来なかった。
公営住宅近くの公園のベンチで、彼と食べた思い出の味を思い出しながら在りし日へと思いを馳せる。
第一に母親への孝行を考えていたあの人のことだ、きっと高校までは卒業して母親を安心させてやりたいという思いが強かったはずだ。…まぁ…合格していたかは別の話だが。




「俺ぇ、年の離れた妹がいるんだけどよ、すっっげぇ可愛いんだぜ」
「え、場地さん妹いたんすか!」
「おうよ、これ」

そう言って彼が心底大事に持っていたお守りから出てきたくしゃくしゃの写真に写っていた小さな女の子。


「場地さん…あなたの大切な妹さんは、立派に成長してますよ、多分、貴方よりもよっぽど頭もよさそうです」

もし彼に聞かれていたら殴られそうだ、なんて思いながら空を見上げる。
もう涙は流れない。12年という長いような短いような期間、ずっと俺の中で燻っていた後悔の残滓。
その全てが消えたとは言えないけれど。
脳裏に焼きつけた桜並木の中で笑う彼女を思いだしながら、俺はその場を後にした。








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