「ったく…随分時間くっちまったな」
昼休みももう終わるという頃、静雄は口調とは裏腹に珍しく機嫌よく普段ならば殆ど通る事のない廊下を進んでいた。
理由は単純なもので拾った落とし物を届けたというだけ。渡り廊下で拾った生徒手帳は自分達より一学年下の一年生の女生徒のもので、中には定期券が入っていた。
手帳だけならまだしも通学に使う定期をなくしてはその生徒も困るだろうと、自分達の学び舎とは反対側にある旧校舎までそれを届けに行ったのだ。
なくしてしまったそれを相当探していたのだろう、手帳を差し出すと女生徒は心から喜んで何度も静雄に頭を下げた。
普段感謝などされ慣れない静雄も照れくさく思いながら決して悪い気はせず、故に気分よく歩を進めていたのだ。
しかしその歩みは、一つの空き教室を通りかかった瞬間止められる。
慣れない旧校舎に静雄は若干の遠回りを経て校内でもかなり人通りの少ない廊下を新校舎へ向かっていたのだが、その一室から嫌になる程聞き慣れた声が漏れていたのだ。
静雄と同じクラスのその声の持ち主も勿論、こんな所にいる理由もないはずで、静雄の中に疑念が湧き上がる。
(あのノミ蚤…また何か企んでんじゃねぇだろうな)
策士たる彼は裏で状況を操るのを得意をとしていて、それに何度も苦汁を舐めさせられてきた静雄は自分の予測が当たっているならぶち壊してやろうと音の出どころのドアに歩み寄る。
そこでよりはっきりと聞こえてきた声に、静雄は周りの時が止まったような感覚に陥った。
何かがぶつかるような音。覚えのない男の声。そして、いつも不敵な言葉をつらつらと並べ立てるその声色の、聞いたこともないような嗚咽と怯えの混じった拒絶。
真っ白に塗り込められた思考の中で、何かにせき立てられるように扉を揺らす。しかし鍵のかかった扉はガタガタと鳴るばかりで気がついた時には手加減も何もなしに扉を蹴り飛ばしていた。
ひしゃげた扉が室内に向かって吹き飛び、少し奥まった机付近で驚きを隠せず顔を上げる男。新しく入った生物教師だったろうか。その男が身体を起こした事により影になっていた部分が露わになり――
組み敷かれる痩身を視界に入れた瞬間、白い思考は瞬時に赤く染まった。
まるで、眼前の雫を落とす真紅の瞳のように。