朧月夜-弐-
※軍人臨也×男娼静雄

『朧亭』
上司に強引に押し切られる形でやってきたのは、灯篭で怪しげに浮かび上がる色街の片隅にひっそりと佇む、中規模の廓だった。あれよあれよという間に引きずられて来てしまった臨也は、軒先に立ち尽くしたまま半ば呆然と玄関先の暖簾を眺めていた。将校は到着早々に勝手知ったる様子で、店の女将と何やら算段をつけるべく姿を眩ませてしまっている。
ここまで来てしまってはもう到底断れる雰囲気ではないな、と腹は括ったものの、男と褥を共にした事がない臨也はやはり幾分か腰が引けていた。
(本当に、面倒なことになった)
将校の思惑は非常に分かり易かった。異例の速さで出世を重ねる自分のことが内心面白くないのだろう。いつ己の地位を脅かされるかと恐々とした思いを募らせているのだ。涼しい顔をして澄ましている有能な部下の鼻をあかしてやりたい。
……――大方、そんなところだろう。
重いため息を吐きながら、せめても気を紛らわせようとぶらり歩きながら店の概観を見渡して小さな違和感に気付く。
(……ていうか、ここって普通の廓じゃない、のか?)
ふと見上げた二階の座敷の障子が薄く開いており、そこからかすかに濡れた女の喘ぎがこぼれ出している。将校は確かに自分に男を紹介しようと息巻いていたはずだが。ぱっと見は立ち並ぶ他の店々と同じく、男が一夜の春を買いあさる廓のようだ。
いぶかしみながらも、そろそろ元いた場所に戻るかと踵を返しかけた臨也の耳に、この辺り一帯にそぐわない罵声が飛び込んできた。


「っ二度と来るんじゃねえ!この下種野郎!!」
「ぐあっ!」
驚いて思わず振り返ると、立て付けられていた戸ごと大柄の男が地面に叩きつけられている。
「な、何をする!貴様この俺を誰だと―……ぶあっ!」
次いで店の中から男が一人、背後に遊女を引き連れて出てきた。地面に伏した男の顔をつっかけた草履の裏で踏みにじる細く白い脚に、臨也の目は思わず釘付けになる。
あわてて視線を脚の持ち主の顔へと向けると、柔らかそうな金糸の髪を逆立てて激昂する青年の横顔が目に入った。
「あぁ?どこの何様だか知らねぇがな、ここで俺を抱きたきゃそれなりの態度でいてもらわなきゃなぁ」
「ぐっ……!」
「ここは治外法権だからよ、お前らの立場だとか、そんなん知ったこっちゃねえんだよ。色街には色街の掟ってもんがあるんだ。骨身削って必死に働いてる姉さん達を貶すような男、こっちから願い下げだ!」
「チッ……卑しい男娼風情が…!ただで済むと思うな……!」
「……んだとコラ!」
顔に血管を浮かび上がらせ、足蹴にした男の頭を地面にめり込ませるように更になじる青年の後ろから、白粉を塗りたくった顔を青ざめさせた小柄な遊女が必死に諌める。
「っシズちゃん、もう良いから……ね!うちは別に平気だからっ」
「けどっ……」
「これ以上やったらまたシズちゃんが折檻されるでしょ。もうやめて、ね?」
「……っす」
着物の裾を掴まれ、優しい声音で諭されると、まるでそれまでの勢いが嘘かのごとく、青年は飼い主に怒られた子犬の様に肩を落とした。
「お、覚えておれ!このままでは済まさん!!」
青年がしぶしぶといった体で足を退けると、地面に頭を擦り付けていた男は乱れた着物の襟元を手早く直し、口汚い罵声を撒き散らしながら地面を転がるようにその場を後にしていった。


「――おお、折原くん。こんな所にいたのかね」
呆然と事の顛末を見守っていた臨也の背後から上機嫌の将校が声をかけてきた。
「は、少将殿。その……申し訳ありません」
「おや、何だね。もう津軽と対面していたのか」
「……は?」
「彼が今夜君のお相手を勤める“津軽”だ」
思わず間の抜けた声を上げた臨也の顔を見て老将校は満足げに笑った。
改めて“津軽”と呼ばれた青年に目を向けると、釣り目がちな目で臨也をまっすぐに見据える青い瞳と視線がぶつかった。
儀礼的にぺこりと頭を下げはしたものの、その目は全く媚びた色をしてはいない。臨也自身を品定めしているかのような無遠慮な眼差し。
(まるで立場が逆だな)
面白い、と臨也は薄く微笑んだ。






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