メロウ1
人を殴る瞬間のあの感触がたまらなく嫌いだ。
固く握り込んだ拳が相手の体にめりこむ刹那、ぐにゃりと肉が歪み、その奥に潜む骨や臓器は呆気なくひしゃげる。薄い肌の表面にダイレクトに伝わってくるそれらの感覚に、俺は吐き気すら覚えた。
少しでも加減を間違えれば、この拳は何の躊躇もなく人体を突き抜けてしまうのだろう。制御不能な自分の力が、俺は恐ろしくて仕方がない。傷つける事しかできないこの手で他者に触れる事が、怖くて怖くて仕方ないのだ。
それでも、馬鹿な俺にはこんな方法でしかあいつとの接点を見い出す事ができず。飽きもせずに後悔と絶望を繰り返し味わった。抱きしめるために伸ばしかけた手のひらを拳に変えて、「好きだ」と告げる代わりに、当たり前のように「殺す」と吐き捨てる。
愛して欲しいだなんて希望は、端から抱いちゃいない。


けれど
「人間になりたい」
俺がそう言ったら、お前はどんな顔をするんだろうな。


* * *


「……、っ、ん……」
僅かに身体を動かした拍子に、脳天を突き抜けるような鋭い痛みが臨也の背中を駆け上った。
ほんのりと消毒液の残り香の漂う室内は、ベッドシーツからカーテンに至るまで全て白で統一されており、一見すればどこぞの病室のようだった。白一色の空間に不釣り合いな立派なテレビや、見覚えのある革張りのソファがなければ、臨也自身、大病院の一室であると認識していたかもしれない。
薄く開いた瞼をゆっくりと持ち上げてみると、視界は不自然に半分に遮られていた。そっと左目に触れ、サラサラとしたガーゼの感触を指先で確かめながら、ゆっくりとした手つきで顔の表面を下へ下へと辿っていく。目だけではなく、口の端にも何やらテープのような物が貼り付けてられ、血色の悪い手首には包帯が幾重にも巻きつけられていた。
「やあ、目が覚めたかい?」
少しずつ覚醒していく意識の中で己の置かれた状況を整理していた臨也の耳に、まるで緊張感のないゆるく間延びした声が届いた。部屋を埋め尽くす白と同じく染み一つない白衣を纏った青年は、ペタペタとスリッパを鳴らしながら臨也の元へと歩み寄り、ベッドの足元に腰を下ろす。
「顔色も大分良くなったようだね」
「……君の趣味の悪い人体実験に付き合う程、俺は暇人じゃないんだけどな」
小脇に抱えていたファイルに何やらボールペンを走らせている友人の横顔を見つめ、臨也はほんの少し口端を吊り上げて笑ってみせる。引き攣れた肌がピリリと痛み、思わず顔をしかめた。
「うん、それだけ憎まれ口が叩けるなら大丈夫そうだ」
嫌味が全く応えていないのか、新羅は柔らかく微笑むと、手にしたファイルをサイドテーブルの上に置いて立ち上がり、横たわったままの臨也の顔を覗き込んだ。
「自分が何でここにいるか、分かってる?」
「まぁ、何となくはね」
小さく肩を竦めてみせ、傷に響かないようゆっくりと時間を掛けて上体を起した。
身体の奥がジンジンと痺れるように痛み、無意識に脇腹を手で庇った。肋骨辺りにヒビが入っているのかもしれないな、と眉を潜めながら新羅の言葉を頭の中で反芻する。


久しぶりの池袋の街。天気は快晴だった。夏の終わりを告げる爽やかな風が頬を撫でる。街はいつも通りに活気に溢れ、大通りでは様々な人間模様が繰り広げられていた。
臨也は愛しい人間の巻き起こすあれやそれを横目に眺めながら、池袋という街を存分に謳歌していた。足取りも軽やかに大通りを横切った所で、ふと、彼は僅かな違和感を捉える。いくつもの視線が、“自分の背中”に向けられているのだ。隠し立てする気もないのか、あからさまに敵意や殺意といったものが含まれた気配。しかし、気付いた時には既に手遅れだった。
回避する隙を与えるものかと言わんばかりに、背後から鉄材のようなもので思い切り殴り付けられ、あっという間に数人の男達に取り囲まれた。
彼の記憶は、そこでふつりと途切れている。
「……ってて、」
最初の一撃を受けた頭にそっと手を伸ばす。後頭部から首筋に掛けて酷く腫れはしているものの、幸い原型を保ってはいるようだ。


そもそも、臨也の身体は天敵である平和島静雄のような頑丈さは持ち合わせてはいない。
彼が池袋最強と恐れられる男と今日まで対等に渡り合えてきたのは、生来の身体能力とパルクールを駆使して攻撃そのものを回避していたからこそで。つまりは、今回のように奇襲にも近い形で一撃を受けてしまえば、あとはただただ不利な状況が完成するのだ。
多かれ少なかれ、他者の恨みをかっているという自覚のある臨也としては、普段からそういった“闇討ち”の類には細心の注意を払ってきたのつもりだったのだが。
「はあ、……参っちゃうよね。池袋の街に足を踏み入れた途端、シズちゃんに見つかっちゃってさ」
そう。今回は臨也にとって実に運が悪かった。
静雄に執拗に追い回され、やっとの事で逃げ延びた“ふい”を突かれてしまったのだから。ろくに体力が残っていなかった事に加え、最初に受けた一撃のダメージが思いのほか大きく。成すすべもなく理不尽な暴行の餌食となってしまった。
「助けが入るのが遅かったら、この程度では済まなかっただろうね」
溜息交じりの新羅の呟きに、そういえば……と臨也は首を捻った。


自分は一体どうやって此処まで運ばれてきたのだろうか。
もし、池袋の通行人が警察に通報なり病院に連絡なりをしたのであれば、そもそも友人兼・闇医者の新羅の元に運び込まれる事はなかっただろう。情けない事に、ある程度の暴行を受け意識を失ってしまった臨也の頭の中には、断片的な記憶の欠片しか残されていなかった。
頭を殴られているのだから仕方がない。――そう割り切ってしまいたいのだが、何故だか釈然としない気持ちが残る。何か酷く大切な事を忘れているような気がした。
「まだ傷が塞がりきってないから、3日は此処で安静にしていってもらうよ」
「……仕事が溜まってるんだけどなぁ」
まぁ、こんな状態でシズちゃんに遭遇したらそれこそ息の根を止められそうだしね――。
そう言って笑う情報屋の顔を、新羅は複雑な顔で見つめる。唇をついてうっかり零れ出しそうになった言葉を飲み込むように残り少なくなった輸液パックを仰ぎ見て、彼は再び小さな溜息を吐いた。





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