恋の屍



光を和らげ塵に同ず。退屈な古典の授業で聞いたその言葉を思い出した。
正午に近くなるにつれ高く暖かくなる陽。埃っぽい屋根裏部屋。この景色に似合う言葉のような気がしたけれど、本来の意味は違うらしい。光を和らげ塵に同ず。本来の意味は、己の才知を隠し、目立たず俗世に紛れること。

(あ、こっちの話か)

きらきら輝く窓に向けていた視線を、質素な布団から覗く黒い癖っ毛に移した。やや丸まったような寝相ですぅすぅと健やかな寝息をたてる蓮を見下ろし、名前は呆れたように溜息をつく。が、その一瞬後には頬がむずむずして顔が綻んでしまった。まったく、呑気なものである。
音を立てないように気を付けながら床に座り、寝息に合わせて上下する髪に触れると、逆に指をくすぐられる心地がした。いつもは野暮ったい眼鏡の奥に隠された長い睫毛。綺麗な横顔だ。

「んん…」

髪に触れるだけでは起きる気配がないので耳殻をなぞるようにくすぐってやると、蓮はようやく眉を顰めてくぐもった声を上げた。薄く開いた目が名前の姿を認めると、しばらく思案した後、事態を飲み込んだらしく下になっていた方の片肘をベッドにつきがばりと起き上がった。

「おはよう、いい天気だよ。絶好のデート日和だね」
名前はベッドに頬杖をついて楽しげに言う。
「って、チャットでも送ったんだけど何の反応もないから嫌な予感したよね」
「い、いま何時」
「11時まわったとこ」
ちなみに待ち合わせは10時である。

「ほんとにさぁ、よく寝る子だよね。それともデートに緊張して寝つけなかったとか?」
「そんなことない」
「ないんかい」

蓮は言葉を探して何度か口をぱくぱくとさせたが、何も思い付かなかったのだろう。素直に「ごめん」とだけ言って半ばうなだれるように頭を下げて謝罪した。
もうデートに緊張するような仲ではないことは承知している。別に楽しみにしていなかったわけではないことも。
自分とのデートも、都会での暮らしも、この屋根裏部屋も、彼の体に定着してきている。つまりそういうことなのだろう。出会った頃にはあまりお目にかかることがなかった彼の油断や隙のようなものは、名前にとって喜ばしいものでもあった。
とにかく支度を始めようと布団から這い出す蓮を見て、寝巻にしているカーキ色のスウェットをなんとなく引っ張ってみたらパンツまでいっしょに腰までずれて蓮が少し怒ってふたりで子供みたいに笑った。

「今日も絶品な腰のライン」
「…変態。最近名前が俺の体目当てな気がしてならない」
「それは否めないけど」
「いや、否めよ」

みんなに知ってほしい気もするし、ずっと隠しておいて誰にも見せたくない気もする。一番望ましいのは、いつかレッテルが剥がれて手のひら返しする世界にすっかり溶け込んでしまっても彼がこの笑顔を向けるのが変わらず自分だけであることだけれど。
きっと優越感や独占欲などという名前で呼ばれるこの感情が、それでもなぜだか自分の中で一番綺麗で純粋なもののように思えて人間とは勝手なものだと名前は思う。

「ふふ、うそうそ。好きだよ、全部」

名前の口がやや滑って、あまりに素直な発言に蓮は面食らったようだった。
蓮はベッドの上で少し悩み、気まずそうに頭をかいた後、名前の方に手を伸ばした。

「ちょっとこっち来て」

掴まれた腕にそれほど強い力が込められていたわけではないのに、名前の体は一瞬で吸い寄せられてしまった。流れるような動作でベッドの上に押し倒される。
思い切った行動と裏腹に、蓮が申し訳なさそうに言った。

「…観たいって言ってた映画、今日までなんだっけ」
「レンタル出てからでいい。今しかできないことしよう?」

束の間、休息のような戦争のような時間が始まる。
たくさんある今しかできないことの中から恋を選んだ2つの体が硬いベッドの上に転がっている。


end






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