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VERMILLION



 母は、ゴミ出しに行くにも化粧をする人だった。
 眉を整えて、粉を叩いて、唇を朱に染める。

 俺はそんな母の姿を見るのが好きだった。
 
 父が一目惚れしたという母は、子供をひとり生んだ様には到底見えないほど若々しく綺麗で、彼女が化粧をすればその美しさは計り知れないものとなった。

 そんな母がどうして平凡でしかない父を選んだのか子供心ながらに不思議で仕方なくて、母に何度か聞いた事がある。
 その度に母は『目には見えない魅力があるのよ』と、朱に染まった唇を緩め笑った。
 俺の心の奥底に暖かい光が灯った瞬間だった。

 だがそんな父の魅力は、その日から五年後。遂に母にも見えなくなった様だ。
 母は別の男の手を取り、どこか遠くへ消えていった。

 何もかもを残して母は去った。

 服も、靴も、父がプレゼントした装飾品も。
 毎日使っていた化粧品も、気に入っていた香水も、目には見えぬ魅力を持っていたはずの父も、最愛の息子だと抱きしめた俺さえも…。

 父はあれ程愛したはずの母の残した物を、残らず全て処分すると決めた。裏切られ絶望の淵に立たされた結果だ。
 その中で俺が捨てられずに済んだのは、きっと、この顔が母ではなく父に似ているからだろう。

 父が纏めたゴミの中から、俺は一つ母の物を盗んだ。
 俺を捨てた母だけど、それでも俺は母の物を何か一つだけでも残したかった。今にも消えてしまいそうな俺の中の光を守りたかった。全てを無かった事にはしたくなかった。けど、父にはそう言えなかった。
 だって、父はもう、壊れてしまっている。憎しみに囚われてしまっている。
 母を恋しがれば、きっと次にゴミ袋へ詰められるのは俺だ。

 たった一つだけ残された母の陰。
 例えそれが父以外の男を誘惑した罪の色だとしても、俺にとっては唯一残された母の思い出…暖かい光の元なのだ。

 金色の装飾がついた四角い紺色のケースの中には、いつも母の唇を彩っていた朱がひっそりと眠っていた。



 ◇



 ドン、とぶつかった肩を軸に体が歪み、やがて尻餅をつく。それから少し遅れて、鞄から荷物が飛び出す音がした。

「大丈夫? ごめんね、前を見てなくて」

 そう言って転んだ俺の顔を覗き込んだのは、隣のクラスの有名人、真田基(さなだ もとい)。
 
 文武両道、眉目秀麗、性格も穏やかで誰とでも仲良くなれると評判の出来すぎた少年は、学校中の女生徒の心を虜にしていると専らの噂だ。
 そんな彼の人気は同じ学校だけに留まらず、他校にまでファンクラブができる程だと言う。
 こうして本人を目の前にしてみれば、少年と呼ぶには物足りず、青年と呼ぶには危うい彼のその雰囲気に、少女達が夢中になる気持ちが少し分かる気がした。

「へ、平気。俺こそごめん」

 自分と同じくらい細身に見えるのに、彼の体は少しもブレることなくそこに立っていた。それに引き替え俺の体は柔すぎる。
 あの程度の衝撃でいとも容易く吹っ飛んだのだ、恥ずかしくて顔を上げられない。
 目も合わせず黙々と荷物を掻き集めていると、その視界の中に俺のではない手が映り込んだ。
 その綺麗な手に握られた、紺色の四角。

「っ、」

 視線を真田に向けると、彼の目もしっかり俺を捉えていた。

「あ、あのっ、それはっ」

 真田は慌てる俺を無視して紺色の蓋を開けると、眠っていた罪の色を静かに暴いた。

「あっ…」

 どこを探したって、女物の鮮やかなリップを持ち歩いている男子高生などいない。
 母親の物だと言い訳したいが、死んだ訳でもない母親の物を持ち歩くのも可笑しな話だし、そうなると男と出て行った話までしなければいけなくなる。
 そんな身内の恥をわざわざ曝け出したくない。

 どうしようも無くなって、俺は情けなく眉を下げ込み上げる羞恥心に唇を噛んだ。きっと、気持ち悪いと拒絶の言葉を投げられるに違いない。
 けど、真田はそんな俺の予想を裏切り信じられない言葉を紡いだ。

「綺麗な色だ」

 俺は驚き、手に握られたリップから目を離し彼を見つめると、真田は声と同じ優しげな笑みを浮かべた。

「片桐集(かたぎりあつむ)くん、だよね」
「…え?」
「体育、ウチのクラスと合同でしょ?」

 いつも君を見てた。そう言った真田に俺はただ頷いた。その様子に真田はクスッと微笑んでみせると、長い指を俺の頬の上にゆっくりと滑らせる。

「良かったら、次から僕とペアを組まない?」

 どう? と笑う真田の声には拒絶できない強さが滲んでいた。
 もう一度操られた様に俺が頷くと、真田もにっこりと笑んで見せる。そこで漸くハッとして、俺は再び荷物を掻き集めた。
 その間、真田はただジッと俺を見ていた。

 俺は逃げるように鞄を抱え立ち上がる。だが、立ち上がった俺の胸ポケットにリップを入れると真田は、後頭部ごとグッと引き寄せ呆然とする俺の耳元に吐息の様に囁いた。

「その色、きっと君の肌に良く映える」

 俺の体の奥で、消えかけていた光が熱を持った。








 体育では、真田とペアを組む事が当たり前になった。
 そのうち昼休みも共に過ごすようになり、下校する時も隣に並ぶようになった。
 そんな俺たちがプライベートな時間を共有するようになるのはごく自然なことで、心と体の距離が縮まるのはあっという間だった。




 暖かかったはずの光は、いつしか全てを焼き尽くす程の激しい炎と化して俺を追い詰める。

「やっぱり、君によく似合う」

 鮮やかに彩られた唇は吐息ごと奪われ、重なる真田の唇もまた…同じ罪の色に濡れていた。



END



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