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続・色は思案の外:後編



 拾ったタクシーの中で、樹は俺にべったりくっついて離れなかった。ミラー越しに何度か運転手と目が合い気まずかったが、途中から気にすることをやめた。
 向かったのは樹の家。無駄にデカいソファに樹を座らせ、その足元に俺も座る。俯いたまま視線をあげない樹の手を取り、血濡れになった手の甲を拭いてやる。血のほとんどはマキのものだったが、人を殴った樹の手も多少傷になっていた。

「樹って、喧嘩っ早かったんだな」

 正直、喧嘩っ早いとかそういう次元ではなかったけど。それでも、できるだけ樹を否定しないように話そうと思った。きっと樹は、怯えているから。

「正直に言っていいよ、引いたんでしょ?」

 気持ちを見透かすように、樹が暗い瞳でジッと俺を見ていた。

「……まぁ、若干ビビったけど。でも、引いてない」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「だって、俺のことを何度も拒絶した」
「何度も……?」

 考えて、思い至る。昨夜も一度、樹の腕を払いのけている。おまけに送ってくれるという樹の好意も無下にした。

「あれは……」
「俺の事、頭のイカレた汚い奴って思ってるんでしょ? 今まで数えきれないくらい、どうでもいい奴と関係を持って、挙句暴力をふるった。でも分かって欲しいんだ……。裕太くんと付き合える事がどれほどの奇跡で、それを壊されることがどれほど許し難いことなのか」
「樹、俺はお前をイカレてるなんて思ってないし、汚いとも思ってない」
「嘘だ……」
「だから、嘘じゃねぇって」

 俺が大きく溜め息を吐くと、樹の瞳に絶望が滲む。

「お前だって、俺の事あんまり信用してねぇよな」
「……そんなこと、」
「じゃあ、なんでそんな絶望的な顔してんの? 俺が別れたいとでも、言うと思ってんの?」

 樹が目を見開いて俺を見つめる。俺はそれを、強く見据えた。

「俺はお前が好きだよ。……あんな風に始まっちまったし、今でも俺の一番の友達は樹以外いないと思ってるけど、俺は恋人として、ちゃんと樹の事が好きだよ」

 俺は、目の前にある樹の両手をとった。

「昨日お前の手を振り払ったのは、嫉妬で気が狂いそうだったから」
「……嫉妬……?」

 信じられないとばかりに樹が呟いたのを見て、俺は笑いが込み上げる。やっぱり樹は分かってない。

「前から思ってた。キスも、セックスも、あまりに樹が上手いから……それなりに場数踏んできたんだろうなって」

 お互いに子供じゃない、立派な大人だ。そんなこと分かってる、分かってる……けど。

「どうしても嫌だった。俺以外にも、樹にこんな風に触れられた奴がいるんだと思うと、胃がムカムカして、胸が潰れそうなほど痛かった。そんな時に、あんな生々しい関係を見せつけられて、ショックだった。本当にそういうやつが居たんだって、あのマキって奴が、俺と同じように樹に……」
「同じじゃない」

 俺の手から、樹の手がすり抜ける。いなくなってしまった手は、俺の背中に回された。そのままぎゅうっと抱きしめられ、ソファに座る樹の膝の上に乗り上げる。

「同じなわけ、ない」
「いつき……」
「最低だって分かってる。言えば、嫌われるかもしれない。でも聞いて、裕太くん。俺はさっき店であの子にいったこと、本気で思ってたんだ」

 『お前はただの穴なの』
 ハッキリとそう言われたマキを思い出す。

「セックスとも言えない寂しい関係。射精して、体をスッキリさせるだけ。発散できるなら本当に誰でもよかったんだ」
「でもマキってやつ、結構かわいい子だった」
「正直顔なんて見てないし、可愛いと思ったこともない。毎回違う相手を探すのも大変で面倒だったから、何度か関係を持ったんだと思うけど……それすら正直覚えてない」

 そう言われて、頭では理解できても、どうしてもモヤモヤしてしまう。

「裕太くんを抱いて、初めてセックスがなんなのか知った。優しくしてあげたいのに止まらなくて、泣かせたくないのに苛めてしまう。気持ちよくて堪らなくて、何度達してもまたすぐに昂ぶって。こんなこと、裕太くん以外ではありえなかったんだ。……ごめんね、裕太くん。想いを伝えることを、止められなくて。俺が黙ってれば、今もまだただの親友でいられたかもしれないのに」

 俺は思わず、樹の胸倉を掴み上げた。

「ふざけるなよ、樹」
「裕太くん」
「俺は後悔なんかしてねぇからな! お前に抱かれたことも、お前と付き合うことになったことも全部! ただ、どうしても妬けるんだよ! 理屈じゃねぇんだよ! お前がどう思ってようが、相手がお前を好いてるだけでムカムカすんだよ!」

 俺だって、どうしたらいいか分からない。樹に色目を使うウエイトレスにもイライラするし、通りすがりに樹を盗み見る女の子たちにもイラつく。

「分かれよ、俺はお前を独り占めしたいんだ。他の誰にも触らせたくないし、見せたくない。マキだけじゃない、お前に抱かれたことのあるこの世の全ての奴にムカつくんだよ。……どうしようもねぇんだよ、どうしようもねぇくらい、俺は……お前が……んっ、う…」

 言い終わるよりも前に、樹にキスをされた。それはすぐに深くなって、奪われるようなものに変わっていく。

「はっ、うぅ、いつき……きけ………よ、ンぅ」
「無理だよ……そんな可愛いこというなんて、むり」
「あっ、んぅ! んっ、あっ、は……」

 樹の膝の上に乗り、向かい合うようにしてキスをする。俺の頭を抱えるように、髪の中に差し込まれた樹の指。

「あっ、は……んっ、んっ、いつき……」
「ごめん、ごめんね。後悔してる。俺の心無い行為が、こんなにも裕太くんを苦しめるなんて……」
「俺も後悔してる……もっと早く、樹を俺のものにしとけばよかったって」
「ッ!!」

 ソファの上に押し倒され、唇から外されたキスが首筋を伝い下へ降りていく。早急に取り払われていく衣服。素肌の上を滑る樹の熱は、いつもより数倍熱い気がした。

「もう、絶対に誰にも触らせるなよ」
「ッ、当たり前だよ……俺には裕太くんだけ。裕太くん以外、いらない。可愛いなんて思える人は、この世で裕太くんだけなんだから」
「馴れ馴れしく、名前も呼ばせるなよ」

 いっくん、なんて呼ばせてさ。俺がぷくっと膨れると、樹は眉を下げて困ったように笑った。

「逆だよ」
「え……? ンんっ、んっ、あっ!」

 すでに昂ぶり始めていた俺のソコに、完全に勃ち上がった樹のを擦りつけられた。

「俺の全ては、裕太くんのものだよ」
「じゃあ、俺の全てもお前にやるよ、樹」

 そう言った俺に、樹は泣き笑いのような顔を見せた。




「あっ! あっ! あっ、いっ、ンうっ、あっ!」
「はっ、く……んっ、はっ」

 ソファで三回イった後、樹と繋がったまま寝室に連れていかれた。そこからはもう、何度イかされ、何度俺の中で樹がイったのか分からない。もはや快楽は拷問に近くなっていて苦しいのに、それでも離れたいと思えない。止めて欲しいとは思えなかった。
 今まで毎日のように繋がってきたのに、こんなにも嬉しくて、こんなにも切なくて、こんなにも胸がいっぱいになるセックスは初めてだった。
 獣のような体制で貫かれ、奥深くまで浸食される。目尻から、生理的なものでない涙が零れおちた。

「裕太くん……?」

 敏感に俺の様子を察知した樹が、激しかった動きを止めた。

「どうしたの、痛かった? やっぱり、俺とするの……もうイヤになった?」
「ばっ……ちが……」

 シーツの上で絡み合う指に、ぎゅっと力を籠める。

「幸せだなって……思って」

 振り向いた先で、美麗な男が驚いたようにぱちぱちと瞬きをする。

「やっぱり俺は、お前がこの世で一番好きだなって……お前に抱いてもらえて、俺は幸せだよ、樹」

 樹がひゅっと息を呑んだ。少しだけ黙り込んだかと思うと、後ろから俺の首筋に顔を埋め込んだ。

「あぁあっ!」

 そのまま激しく腰をスライドさせ、奥へと打ち込む。

「あっ! あぁぁああっ、やっ、いつき! あっ! ンあっ!」

 繋がったままぐるりと躰の向きを変えさせられ、対面した樹の顔は。

「ははっ、顔、真っ赤……」

 綺麗な瞳に膜を張り、長いまつ毛に雫をつけて。暗闇の中、零れ落ちるそれはまるで星屑みたいに輝いた。

「裕太くん、好き、大好き、死ぬほど愛しる。いつか俺を嫌いになっても……絶対に、離してなんてあげないからっ」
「あっ、あっ! あぁあぁっ!」

 そこからはもう、何も言葉を紡ぐことはできなくなった。



 ◇



「ねぇ、アンタ裕太くん……でしょ?」

 日曜の昼間に買い物に出かけた先で、見知った顔に出くわした。

「ゲン……さん?」

 あの日から一週間ほど経っただろうか、なんとも気まずい再会だった。スーパーの入口、ゲンはすでに買い物が終わったのかビニール袋を手にさげている。

「あの……あの後は大丈夫でした? マキさんとか……」
「ああ、気にしないで。アレはこっちが悪かったんだから。アンタにも嫌な思いさせたわよね……」

 ふたりの間で、妙な沈黙が流れた。

「この後少し時間ある?」
「え?」
「そこの喫茶店で、少し話さない? 話したいことがあったのよ」

 見た目の厳つさに反して、肩を縮めもじもじするゲンに毒気を抜かれた。

「いいですよ。直ぐに用事済むんで、先に入っててください」



 必要な物だけ買うと、急いで喫茶店に向かった。

「悪かったわね、出合い頭に急に誘って」
「いや、俺もあれからずっと気になってたんで、会えてよかったです」

 ゲンは俺の顔を見ると、深く深く溜め息をついた。

「あの日は……本当に悪かったわ。いっくんの恋人だって聞いて、ちょっとちょっかいかけて意地悪するくらいの、軽い気持ちだったのよ。マキも、嫉妬に狂ってやりすぎて……」
「いや、それはもういいんですけど」

 実際、やり過ぎたのは樹の方なのだ。

「いいえ、良くないのよ。……いっくんはね、昔から一度も恋人なんて作ったことがなかったの」
「一度も……」
「そうよ、一度も。うちのお店に来るようになってもう十年近く経つけど、恋人にする人はただ一人だけだからって。名前を呼ばせるのもその人だけだから、他の人はあだ名で呼ぶように言ってたの」
「え、名前?」
「そう、だから貴方が『樹』って呼んだ時に、どれだけいっくんにとって貴方が大切な子なのか漸く気付いたの……手遅れだったけど」

 ゲンが、ストローでアイスコーヒーをぐるりと回す。カラン、と氷が音をたてた。

「良くも悪くも、感情の分からない子だったの。だからこの間のいっくんの様子は、あの場にいた誰もが驚いたはずよ」
「あれは……」
「アンタもビビったでしょう。……大丈夫なの? あの子のアンタへの想いは、もう愛情とかそういうものだけじゃ括れない域にいるわよ」

 それは、俺も感じていたものだった。樹の俺への感情は、もはや執念に近い。

「驚いたけど、不思議と幻滅しなかったんです。目の前で、あんなことがあったのに」

 無表情で、マキを殴り血濡れになる樹の姿は異常だった。それなのに、俺はその姿に恐怖を覚えたりしなかった。どこかで、安堵すらしていたかもしれない。
 樹は、俺に執着している。何度も躰を重ねた相手にも、俺のことになるとこんなにも酷いことができるのだと……。

「ああ、俺は『マキ』よりも上なんだって、優越すら感じてたのかも」

 ゲンは、黙って俺を見ていた。

「大体、樹を嫌いになるなら最初の時点でなってるんですよ」
「最初?」
「俺が樹と付き合うことになったのは、樹に寝込みを襲われて、レイプされたから」
「えっ!?」
「アイツは俺を忘れるためにやったって言ったけど、それにしたって酷いでしょう。普通はそこで、友人関係だって終わってるんですよ」

 だけど俺たちは終わらなかった。それどころか、新しい関係性へと歩みを進めた。

「俺、多分樹に見張られてるんです」
「え、なに……?」
「いつからなのか、今ではもう覚えてないけど。付き合ってからは、確実に俺の居場所を把握してるっぽいんですよ、樹。いつもドンピシャで俺の居場所に迎えにくるから、これはもう偶然とかそんなじゃないよなって。この間も、教えてないはずなのに店に現れたでしょう」
「やだ、ちょっとそれって……」
「樹の奴、多分ここにもそのうち来ますよ」
「ねぇ、アンタそれ……」

 ――コンコン

 ゲンが何か言おうとしたその時、俺たちの座る席のガラス窓が叩かれた。

「ほら、来た」

 ガラスの向こうには、冷たい目をした樹が立っている。ゲンが思わずヒッ、と声を漏らした。

「俺のスマホかなんかに、なんか仕込まれてるんだと思うけど。でも俺は、それでいいんです、アイツがそれで安心するなら」

 ゲンは首を何度も縦に振った。

「アンタがいいなら、それでいいわ。……多分、あの子の想いの重さを許容できるのは、アンタしかいないんでしょうね」
「そうだといいけど」

 俺は飲みかけだったアイスティーを全部一気に飲み干す。

「お店のこと、本当にすみませんでした。今後は関わらないよう気を付けます」
「いいの、アタシもあの子たちにはよく言っておくから……ごめんなさいね」

 ゲンが注文書に手を伸ばすよりも先に、俺がそれを取った。

「お詫びに、ここは俺が」

 それだけ言って、レジに向かう。
 他人から見たら、きっと異常な関係なのかもしれない。でも俺たちの間では、これが普通になってしまった。
 見張られたり、縛りつけられたりすることよりも、もっとずっと恐ろしいことは……お互いの距離が離れてしまうことだと。そう、知ってしまったから。 

「おい、なんでお前ここにいんだよ」
「帰ってくるのが遅いから、心配になって探しに来たんだ」
「じゃあ帰るぞ」
「裕太くん」
「偶然会っただけ、もう二度と会わないって約束してきたとこ」

 隣を歩く樹が俺の手を握った。人通りの多い、真昼間の道の真ん中。誰に見られているか分からないそんな場所で、俺はその手をぎゅっと握り返した。

 樹にも、ちゃんと分からせないといけない。
 この先なにが起きようとも、誰に邪魔をされようとも。この手を絶対に離す気がないのは……決してお前だけじゃあ、ないんだと言うことを。



END


2020/04/20

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