幸せと言うこと。
※一之瀬昂(いちのせ こう)×前田拓人(まえだ たくと)
あの日、あの時の事を、
俺は決して後悔しない――――
「何でだよ!! 何で否定しなかったんだよ!!」
「一之瀬」
「何で俺だけ無傷なんだよ! そんなの俺っ、望んでねぇよッ!!!」
震える手で俺の胸ぐらを掴み、唇を噛み締めた一之瀬に胸が張り裂けるかと思った。
「知らねぇよ…もうっ、アンタなんて知らねぇよ!!」
準備室を飛び出ていく一之瀬を引き止めたくて、思わず右手が上がる。でも、それは直ぐに下された。
「俺にも、守りたいものは有るんだよ。一之瀬」
俺はこの春、教師を辞める。
◇
『それではこの春より別の学校へと赴任される先生方に、一言ずつ挨拶を頂きます。では佐藤先生からお願いします』
『はい。え〜、私はこの学校へ来て四年が経ち…』
噂が立ったのは突然のことだった。
生徒たちの間で、俺がとある生徒に邪な気持ちを持っていると言う噂が広がったのだ。相手として名前の上がった生徒は、生徒達の間でとても人気のある一之瀬昴だった。
成績も良く、性格も前向きで明るいことから教師たちの間でも非常に評判が良かった。
「変な噂が流れていることは知っているかね」
「はい」
「まさか、一之瀬くんと君は」
「一之瀬は関係有りません。私一人の問題です」
「な、なんてことだ…」
「アイツは被害者です。私の身勝手な感情にただ、巻き込まれただけです」
『はい、有難うございました。では次に前田先生お願いします』
俺の名前が呼ばれた途端、体育館が騒めく。
生徒たちの口に重しなど付けられるはずも無く、噂は雲よりも軽く広がった。
生徒たちの手前転任するとなってはいるが、実際は教師自体を辞めるのだと気付いている生徒も…多分、いるに違いない。
けど、そんなことはどうでも良い。どうでも良いんだ。
『私からの挨拶は特に有りません』
『ま、前田先生』
誰に何と思われようとも関係ない。
『ああ、一つ言い忘れたことがありました』
離したマイクにもう一度向き直る。
『私の気持ちは一切変わりません』
体育館内が、先ほどよりも大きく騒めいた。司会進行役の教師が慌てている。それでも、俺はマイクを握る。
『どんなに離れようとも』
人を好きになるという本当の意味を知ることが出来たのは、お前を好きになったからだ。
『どんなに時間が流れようとも』
俺はこの手でお前を守る。
けど、だからと言ってそれが手を離すことだとは思っていない。
『これだけは変わらない』
俺が伝えたい相手はただ一人。
伝えたい事は、たった一つ。
『愛してる』
「なに、笑ってんの…?」
真夜中の暗闇の中、ふっ、と笑い声を漏らせば隣から少しだけ掠れた声が漏れた。
「なんだ、起きてたのか?」
背中を向けていた相手に寝返りを打ち向き直ると、眠そうな目をこじ開けながら不満そうな顔を見せた。
「駄目だよ先生…俺の隣で俺以外の事を考えちゃ」
寝ぼけているのか、高校を卒業してもう直ぐ十年が経つというのに一之瀬は俺を先生と呼んだ。
そんな僅かなシンクロがまた、俺を優しく擽るのだ。
「ちょっと昔を思い出してただけだ」
「ふぅん…? じゃあ、思い出し笑いをしてたの?」
まだ納得のいってなさそうな一之瀬に、俺はもう一度微笑んだ。
「いや、たださ…」
あの日、あの時、俺が失ったものは確かに大きかった。
あの頃の幸せな時間も犠牲にしている。
でも、それでも…あの頃が今この時を作り出しているのだとしたら、俺は、
「幸せだなぁと…思ってさ」
あの時の決断に後悔など一つも無いと、
今、そう思うのだ。
END
戻る