▼ 月島基と会社で二人きり
だこだこ。だこだこ。だこだこだこ。ぱん。
キーボードを打つ手が乱暴になるのを許して欲しい。会社の備品? 知ったことか。
どうせ今、このフロアには私しか残ってないんだから、どれだけ自分本位に騒音を上げたところで文句を言う奴も顔を顰める奴もいない。
就業予定時刻ギリギリのタイミングで「すみません先輩。これの残りお願いしても良いですか?」と。今月はもうこれ以上残業するわけにはいかないからと。
まぁそれはいい、先輩だしな。日頃、本人なりに頑張ってるのは見てるし。
だけどさぁ、せめてもう少し早く言ってくれないかな?
確かに私は貴方より先輩で、日頃業務を教えたりサポートしたりしてるけど、それだけが仕事ってわけではない。己の業務がある中、プラスアルファで貴方の面倒を見ているのだ。
だから自分の仕事をなんとか効率よく終わらせる見積もりで動いているわけ。就業時間を見据えて。
それをギリギリで言うな。せめて、その押し付けたお仕事がどれだけで終わるのか踏まえた上で事前に言って欲しい。そんな見通しがあったらそもそも日々残業しまくってもうできない状態にはならない。だからこうなっているんだ。
「はぁー。向いてないんじゃ無いかな」
後輩はこの仕事に。私は教育係に。
このフロアにはもう人っ子一人いない。独り言をそこそこの音量で言ったところでどうともならない。
就業時間から1時間半は経っただろうか。みんな残業しないでえらい。
かく言う私も、押し付け業務の終わりは近かった。
最後の追い込み用に、コーヒーでも飲むかな。
デスクから給湯室に向かう途中、後輩の言葉を思い出す。
仕事を私に任せ、パタパタと動きながら帰り支度をしながら「給湯室のゴミだけ出しておきますねっ!」とせめてもの償いなのかそれだけ言い残して去っていった。
「自分で言い出したんだから、やっておいてよ……」
給湯室内にある自販機から缶コーヒーを買ったのち、ゴミ箱の中身を覗いたら全くそのままである。
別に誰がやったっていい仕事。でもやっといてもらえるとありがたいこのゴミ捨て。
どうにも男性割合が多いこのフロアで、いわゆる細やかな気遣いができるタイプは少なかった。結果的にではあるが、気づいてしまう私がやることが多かった。
その様子を間近で見ていた後輩が意気揚々と「私もやります!」と言ってくれたのは単純に嬉しかったのに。
相当急いでいたのか。どうでもいいかそんなことは。
無造作に放り込まれたペットボトルや缶の山。中身を丁寧に洗う人などほとんどいない。汚れたまま放置されると臭いも目立つ。空調が効いているとはいえ、真夏にこれはきつい。
「はぁーーーーーー」
悪気はないのだろうが、適当にやっている人間を目の当たりにすると、頑張っている自分がもうどうでもよくなってくる。
体の力も抜け、シンクに腰掛けるかのように体重をかけた。
もうこのまま、仕事も放り出してゴミも放置して、そのまま帰ってしまおうか。
買い込んでる缶ビールを何も制限なく飲み干して、風呂にも入らず化粧も落とさず、酩酊感に身を任せたまま意識を失いたい。
先ほど買った冷えた缶コーヒーを手で握り込みながら目を閉じた。
と、その時、ふと人の気配を感じた。
「うお、なんだまだいたのか」
給湯室の外から、馴染みの声が聞こえて、目を開けた。
「何してんだこんなとこで。眠いのか?」
「……月島さんこそ、今日は外から直帰では?」
朝礼で顔を合わせたのち、颯爽と会社を出て行ったのは流石に覚えている。
流石に外は暑かったのか、いつもボタンまで止めている袖を肘辺りまで捲っていた。
「少し野暮用な。時間も時間だし、もう誰もいないと思っていたが」
月島さんはネクタイを緩めながら、給湯室へ入ってきた。そして自販機へ。尻ポケットから小銭を出して缶コーヒーを買った。
ガシャン、と缶コーヒーが落ちてくるのを眺めた。
「……疲れてるな。帰ったらどうだ?」
男性にしては小柄な月島さんは、向き合うと顔の高さがそんなに変わらない。
私の方へ振り返った拍子に香った匂いは、制汗剤のものだった。
「いえ。まだ仕事が残っているので」
「どうせ人に押し付けられでもしたんだろう。お前が自分の業務を時間内に終わらせられないわけないもんな」
えー、何その口ぶりぃ……。さも私の仕事ぶりを日頃から知っているかのような……。
月島さんは仕事においては淡々と厳しいけど、面倒見が良いのは周知の事実だ。それだけ周りの人間を見ているし、きちんと評価をしてくれているのだ、と思う。
自画自賛するわけではないけども、私だって勤務態度は真面目だし、要領よく仕事をこなせている自負がある。
別に褒めて欲しくてやっているわけでもないが、何気なしに自分を見てくれているのだと思わされると、やっぱり嬉しかった。
心臓が少し忙しなくなるが、それもご愛嬌だろう。
「ふふ。ありがとうございます」
つい、笑みと礼が漏れた。
会話のキャッチボールとしては暴投以外の何物でもなかったが、月島さんは特に何も言わない。「俺は少しパソコン開いたら用が終わるから、その後声かける」とだけ言って、また颯爽と給湯室を出ていってしまった。
私が入社した時点で、月島さんは既に何年も新人を教育している立場だったと思う。
ご多分に漏れず、ド新人の私に様々なことを教えてくれたのも月島さんだった。
小柄だけど体格良いし顔は怖いし表情もあまり変わらないしで、最初はおっかなびっくり接していたけども、接していけば慣れもあるのか、この人の評価は優しいに変化した。
最近はもっぱら、会社役員の息子さんだという年下の上司に連れ回されこき使われている(本人談)そうで、忙しい上に子守をしている気分だと飲み会で愚痴をこぼしていた。
私は、翻弄されている月島さんを見ると、つい笑顔になってしまうが、流石に失礼なので言っていない。
コーヒーをちまちま飲みながらデスクに向き合う。
視界の端に映る月島さんがたてるキーボードの音が環境音になり、むしろ無音よりも集中できる気がした。
そうして業務と戦ってどれだけ時間が経っただろうか。
「まだかかりそうか?」
顔の右横から落ち着いた声が降ってきた。
つい息をヒュン……と飲んでしまう。
「すまん。集中してたか」
「ああいえ、大丈夫です。はい」
突然の声に驚いたのもあるが、それ以上に月島さんとの距離が近かったのが私の心臓に悪さした。
低めの落ち着く声が耳のそばにある。呼吸をすれば月島さんの匂いすら鼻に届く。
ええぇ、私めちゃくちゃ月島さんのこと意識してないか……?
「すみません、もう終わるんですけど」
「そうか。まだかかりそうなら手伝おうかと思ったが、大丈夫そうだな」
「うえぇ?」
この人手伝うって言った? 何、優し過ぎん?
一応仕事中だと言うのに、つい喉から出てしまった間抜けな声を後悔してももう遅い。
「なんだその声、初めて聞いたな」
こっちだって、はは、と頬を緩ませる月島さんの表情を初めて見た。
「すみませ……、仕事場なのに気が抜けちゃって」
「まぁもう就業時間は過ぎてるし、良いだろ気が抜けたって」
「その、ありがとうございます。でも、自分で引き受けたものなので」
「ん。お前ならそう言うよな」
言いながら月島さんは、私の隣のデスクの椅子を引っ張り出し、深く腰かけた。
「え、月島さんの野望用は終わったのでは?」
「ああ、終わった」
「か、帰らないんですか……?」
「いや、待つぞ」
ええぇ、なんで……? 今度は声は出さなかったが、困惑した表情までは隠せなかったらしい。
「そんな困った顔するな。俺がいると邪魔か?」
「そ、んなことは……無いですけど……」
無いけど、決して邪魔では無いけど、なんかこう、普段人がたくさんいる、しかも仕事場で仕事上の付き合いしかない上司と二人きりって言うとなんか、嫌な緊張というわけではなく、少なくとも嫌いではない人だからこそ、こう…………。
「…………お前は、仕事以外だと意外と百面相なんだろうな」
「そうでしょうか」
「今も青くなったり赤くなったり、さっきも給湯室で呆けていたと思えばふにゃふにゃ笑うし、」
と、そこで言葉を一度区切ると、今度は月島さんが百面相をし出したのか、急に眉間にシワが寄った。
「今のは、もしかしてセクハラなるのか?」
思わぬ言葉が飛び出して、吹き出してしまう。
「いや、いやいや。何も不快感ないですって」
「そ、そうか? いやすまん。どうにも加減がわからなくてだな」
「ふふ。露骨なこと言わない限り大丈夫じゃないですかね。少なくとも私は月島さんに言われて何か嫌な気分になることはないです」
「…………そうか」
今の間はなんだろう。と思わなくはなかったが、とにかく手を動かして終わらせなければ。
今一度パソコンに向き合って、キーボードをカタカタ言わせる。と言っても、もうほぼ事務的なことをこなせば終わる段階だ。
さして黙る時間も長くなく、私は口を開いた。
「待たせちゃってすみません。全然気にしないで帰って頂いて良いのに……」
「いや、そうだな。その、なんだ。特別遅い時間ではないが、女性一人で帰らすのもアレだろ」
駅まで少し歩く間だけだが。と。いつもの調子で。言う。
思わず手が止まる。そして月島さんの方を見てしまう。
他意はないのだろう。別に自分を特別視しているわけでもない。
こう言うのを、日々の積み重ねだとでも言うのか。
あいにく私は、ずっと月島さんを好意的な目で見ているのだから。
「月島さん、好きになっちゃいそうです」
「は、?」
言わなきゃ良かったとは思わなかった。
月島さんは口から息を漏らした後、驚いた様子で固まってしまった。
今までの軽口の延長で受け取られても一向に構わなかったが、ストレートど真ん中で受け止めたらしい。
しばしの沈黙。
私は視線を外し、パソコンを見つめる。
さらに少ししてから、スゥーーーーーと息を吸う音が聞こえた。
「俺はやめておけ」
たっぷりと時間をかけて出した言葉がそれなのか、と。
月島さんらしくてにやけが止まらない。
「なんでですか?」
「まず、お前はまだ二十代だろ。俺はおじさんだ」
「二十代って言ったってもう数年で三十路ですし、それに月島さんがいくつでも関係ないです」
「…………お前、モテそうだな。仕事に勤勉なところしか知らなかった」
「まさか、モテないですよ。女っぽくないし、性格も見た目も」
「そうなのか、基準がさっぱりわからんな」
「……そういうこと言うってことは、私のこと異性として意識してくれてるってことですね」
「…………………………」
手を止めて、月島さんの表情を伺った。
見たことがないような難しい顔をしている。顔のパーツがしわくちゃだ。
仕事に真面目だから堅物っぽい印象が強かったけど、月島さんもしっかり男の人だったようだ。気恥ずかしさで、自分でやーやー言ってるのに、急に恥ずかしくなってきた。
でも、これ、完全に脈なしというわけではないよね……?
絶対にいつもだったらこんな積極的にはならないのに、今日は何かがおかしい。
「月島さん、」
日々腰を下ろしているキャスター付きの椅子はかなりのお年らしく、キャスターを転がせばキシキシと軋む。
右隣へ進んで、距離にしてみれば少しだけだが、月島さんに近づいた。
暑さがピークの季節で日の入りが遅いとはいえ、この時間では外ももう暗い。窓から覗く空は夜。
いつからか節電を謳ってフロアの照明はまばらにしか付いていない。
毎日誰かのタイピング音、相談の小声、コピー機の稼働音、内線の電子音、革靴が床を歩く音。無音とは縁遠い空間で。
心音と呼吸音しか聞こえないような空間で。
今。
「二人きり、ですね」
太ももの上で握られている、大きな拳。その端に指先で触れた。少し、汗ばんでいるような感触。
撫でて、そのまま太ももに指を置いた。グレーの布地は見慣れたものだ。しかし、こんなに見つめたことはない。
筋肉質だとは思っていたが、太ももは文字通り太ましく、よく見ればぱつぱつだ。
すり、と指先どころか手のひらで太ももを撫でる。
浅ましい考えに脳味噌を支配されていた。心臓の鼓動が全身にどくどくと伝わり、体全体が脈動しているかのようだった。
見上げるように月島さんを伺う。険しい顔つきだが、いつもより耳が赤い気がする。
ほのかに香った制汗剤と、そして石鹸の匂いが、もう近い。
がたん! と。
次の瞬間には、大きな音を上げながら月島さん椅子から立ち上がっていた。
「給湯室のゴミがまだだったな。片付けてくる」
その間に終わらしておけ、いいな。
全く有無を言わせない口ぶりで一方的に告げると、ずんずん大股で給湯室へ歩いて行ってしまった。
「…………………………」
私は、今、何をしていたのだろう。
月島さんが立ち上がった時の音で、何かから目覚めた感覚だった。
めっちゃ近づいたし、めっちゃ匂い嗅いだし、めっちゃ触っちゃったな。……これこそセクハラなんじゃ?
声には出さないが、叫び出したい気分だった。顔が暑い。穴があったら入りたいという感情を味わいたくはなかった。
忘れようと一心不乱に手を動かし、最初からそのペースでやれよという気迫で押し付けられた仕事はついに終わりを見せた。
パソコンの電源を落とし、帰り支度を簡潔にすませた。
月島さんがこっちに戻ってくる前に、空調やら照明やらを全て消し終え、そして月島さんと再会すると、「帰るぞ!」「はい!」と軍隊さながらの明朗とした返事だけでコミュニケーションをとり、いつもより大股で歩いて軽く汗をかきながら、二人で駅へ向かって解散した。
お互い良い歳した大人なんだから、お互い忘れたほうがいいことはきっちり忘れるべきなのだ。
それはそれとして。
明確な拒絶をされたとはいえ、だからといって本当になかったことできるほど、私は器用ではなかった。
業務中、時たま月島さんの様子を伺ってみたり、隙あらば会話をしようと思うことくらい、許して欲しい。
210914
次回、飲みの席が隣同士になりまた距離が近づく話に続く!(続かない)