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▼ 新しい事務員がやってきた。

 教師、硲道夫は多くの生徒を導いてきた。それは、未熟で足りないことも、生徒の立場からすると到底ズレていた行為かもしれない。だとしても諦めずに模索を続けていた。生徒たちも、硲の少し笑えるほどの努力を見守ってすらいた。
 硲が教師を生業にして数年が経ち、担任を持つようになった頃、未だ忘れられない生徒がいた。
 彼女は何をやらせても優秀で、他の生徒に慕われていた。硲以外の教師からの評判も良く、眼をかけられていた。なにより、努力を怠らない性格だった。時には妬まれもしていたが、しかし彼女は屈さずにいた。


***


 強い日差しが徐々にやわらいでいき、少し風も冷たくなり始めた初秋の頃。
 硲は都内某所で、テレビドラマで演じることとなった探偵役に関しての雑誌インタビューを受けた。予定よりも早くスタジオを出ることなり、そのまま自宅へ帰っても良かったのだが、事務所に少し顔を出したい要件を思い出したので、事務所へと向かった。
 電車移動で数駅ほど。そして駅から歩く。時刻は夕刻、近場の学校から帰路に着く制服姿の生徒たちが目についた。
 少し、危なっかしい運転をする自転車が視界に入る。思わず注意をしそうになる口を、開けたところで何とかとどまった。
 硲が教師を辞めてもう数年が経つ。だからといって、あの頃の習慣、もはや自身の性格にすらなっている行動は、未だに体から抜けなかった。

 事務所が構えられた階層まで階段を上っていくと、ドア越しにも関わらず賑やかな声が耳に届く。
 顔がほころぶことも隠さず、硲は軽いノックの後、事務所へと足を踏み入れた。

「随分にぎやかだな」
「あ、みちおセンセーだ! お疲れ様でーす!」
「あれ、硲さん、終わるの早かったですね」

 事務所のソファーにはWの蒼井悠介が、その向かいにはプロデューサーが座っていた。

「うむ。滞りなくインタビューは進んだため、少し終了時刻が早まった。明日のスケジュール確認がしたくて来たのだが……」
「あ、そしたらついでに、ちょっと挨拶して欲しい方がいるんですけど」
「……ほう」

 いそいそと立ち上がったプロデューサーは、ソファーの奥、事務机が連なるスペースまで歩く。硲も視線をようやくそちらに向けた。
 すると、いつも通り事務員の山村賢がいる。日常だ。しかし、その隣には見慣れない人影があった。

「話したのがだいぶ前なので忘れちゃってるかもしれないんですけど……」

 プロデューサーの前置きで、硲は思い出した。

「確か、事務員を一人増やす、と言っていたな」
「そうなんです。最近業務が立て込んでて、山村くんだけだと負担が大きくなっちゃうので」

 がさごそと、昨日までもはや物置きと化していた事務机の整理をしていた新たな事務員、体格から察するに女性に見える。折っていた腰を上げて、顔がこちらに向いた。

「挨拶遅れてしまってすみません。本日からお世話になる川口雫です。よろしくお願いします」
「………………」

 硲は絶句した。反射的に挨拶を返そうとした口だけが開いて、言葉は出なかった。

「……硲さん?」
「え? なんでセンセー固まっちゃった?」

 横にいるプロデューサーと悠介の声のおかげで、ようやく体が動かせる心地になる。
 体内がかき回されるような、独特な浮遊感に何とか耐えて、硲は一度呼吸を整えた。

「川口くん。君が私を覚えているかはわからないが……」
「……いえ。覚えていますし、活躍は拝見しておりました」

 記憶の中より、幾分か、いやそれどころではなく、圧倒的に、大人の女性になっていた。
 もう、何年も前に生徒だったのだ。大学に進学したのは知っていた。そこを卒業して、働くようになる年齢なのも計算上では全く合うのだ。
 だが、しかし、だからといって、まさか数年越しにこのような形で再会する確率なんて、たかが知れている。

「お久しぶりです。硲先生。ご無沙汰しております」

 硲がほぼ新任の頃、強烈に印象に残る生徒であった、彼女が事務所の事務員として働き始めると言うのだ。


***


 自称するのもおこがましいが、我ながら真面目に生きてきた。身近な大人の言うことは正しいと思って実践してきたし、近しい友人たちと大きな衝突するわけでもなく、小学校から高校まで、真面目に、真面目に過ごしてきた。
 でも、ずっと張りつめているような糸が急に、切れてしまったのだ。それまで全く普通のことだった、できていたことだったのに。やることが苦しくなった。面倒になった。
 それまで当たり前だと思っていた勉強が身に入らない。
 それまで当たり前だと思っていた生活に気持ちが追い付かない。
 昨日までできていたことが、突如としてできなくなった。
 ……要は、疲れて、そして逃げてしまったんだと、思う。

 高校を卒業し、そして進学をした。その先には就職が待っている。
 しかし、人生の岐路で立ち止まった時、気付いてしまったのだ。
 自分は、何をしたいのか。何ができるのか。思考を巡らすことはあれほど得意だと思っていたのに、答えは一向に出なかった。
 そうして過ごす内に、大してやりたくも、興味もない職務に着いた。数ヶ月は必死にしがみついた。しかし、努力のやり方を忘れてしまった私が、長続きするはずもなく。

 辞職を選び、更に数ヶ月が経つ今。
 親の伝手で、知り合いが経営する会社の事務に誘われた。収入が無いのは何かと不便だった。だから二つ返事で了承をした。
 ただ、長続きするのか。自分にとってやれる仕事なのか。全く考えていなかったのだ。


***


 会社があるというビルに直接訪ねるのは初めてだった。
 社長曰く、そんなに大きなものではないから安心してくれ!と。電話越しにも関わらずの大声だった。
 流石に顔を見ず何も話を聞かずに入社なんてあるかい、と、取りあえず言われた日時にやってきたのだが。

「あ、今日から入社の川口ですね! 社長から聴いてますよ」

 社長の名前が書かれたビルの三階。315プロダクションという社名は、どう聴いてもマネージメント系の業務に思える。
 果たして何の会社なのかも知らずに来た私は、だいぶむちゃくちゃな社長の計らいから、業務内容を聴く以前の問題で辞退を申し上げようかとすら悩み始めた。
 だって、だって、オフィスの扉をチャイムは壊れてるし、ノックしたらなんか柔らかい雰囲気の男の子がもう入社とか言ってるし……!
 面接のつもりで化粧も服装も武装したというのに、面接用の取り繕った笑顔が引くつくのもご容赦頂きたい。

「え、えーと、川口なのは間違いないんですが、今日は面接のつもりで来まして……まだ入社するかは決まってないと言いますか何というか……」
「あっ、えっ、そうなんですか!? す、すみません! 今朝社長から、新しい事務員の方が来るから業務を教えるようにって言われていたものですから……」

 ああ、そんな悲しい顔をしないでほしい。
 別に私が悪いってことでもないと思うんだけど、そんなに眉毛を下げられたら申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
 というか、社長、もう面接する気ないんだね?

「ちなみに、現在社長はいらっしゃいますか?」
「それがその……。朝一で伝言だけ残して、恐らくどこかの企業のお偉いさんへの挨拶に……」
「そう、ですか」

 まさか、面接に来た相手がそもそも会社にいないだなんて、思いもしなかった。マジですか……。
 しかし、これは困った。思わず息を吐く。
 面接する相手がいないのであれば、帰るしかない。……面接もせずに、何をどう判断したのかわからないけど、何も知らないであろう状態で新入社員をとろうとする社長。正直、そんなよくわからない人の下で働くのは嫌だ。
 せっかく紹介してもらった仕事だけど、断らねば。

「あの……せっかくですし、中を見て行きますか?」
「え?」

 困り顔の男の子は、私の顔を覗き込むように提案してくれた。

「その、多分社長のことだから、説明が色々と足りてなさそうなので。僕でよろしければ」
「……実は、ここが何の会社なのかもちゃんと聞けていなくて」
「ええ!? ……でも、社長ならやりかねないかも」

 働いてると思われる男の子にすらそう思われる社長、いっそどういう人なのか気になってきましたね。

「取りあえず、立ち話もなんですし、中、入ってください。お茶ぐらいお出しできるので!」
「ああ、お構いなく。あと、ありがとうございます」

 男の子はきっと、優しい人なんだろうな。
 そんな気持ちになれたら、自然と口角が上がった。
 私の表情を見ていたらしい男の子も、安心したように笑みをこぼした。困り顔よりもよっぽど似合う。

 中に入ると、少し歩いた先の正面にはテレビとテーブル、ソファが並んでいた。そこまで広いスペースではないが、客間の役割を果たしているらしい。右手には台所。左手には書類が山積みの事務机が数個。そして事務机の後ろには、細かい文字がびっしりと書かれたホワイトボードがあった。
 促されるがまま、ソファに座らせていただく。男の子はその足で台所へと歩んだ。

「挨拶が遅れました。315プロダクションの事務員、山村賢です」
「あっ、はい。わたくし、川口雫と申します」

 お茶を出されたのち、向かいのソファに座った男の子、もとい山村さんと頭を下げあった。

「その、実に聞きづらいことなんですが、ここは一体どういうお仕事を……」

 気になって仕方がないを疑問を口に出したところで、このオフィスの扉から入ってすぐ左手にある部屋の扉が開いた。

「あっ、お客さんが来てる! こんにちは!」
「こ、こんにちは!」

 質問の途中ではあったけど、あまりにも弾んだ挨拶に、反射的に返してしまった。
 明るい表情が眩しい、元気な男の子が駆け寄ってきた。その顔にはどこか見覚えがある、気がする。

「ううーん?」

 じぃと凝視してしまうと、元気な男の子は悪戯っ子の笑みを浮かべた。

「お姉さん、俺のこと知ってるって顔してる〜〜」
「うーんと、多分テレビで観たことが……」
「うんうんだよねだよね。最近は色んな番組も出させてもらってるし!」

 テレビ。テレビか。確かに、こんなハツラツとした子が知り合いだったら、忘れるはずはないだろう。
 記憶を手繰り寄せる。少し時間がかかってしまいそうで、心配して元気な男の子の顔色を窺った。しかし、彼はニコニコと楽しそうにしているので、私はそのまま考えるのを続けた。
 テレビで観たような記憶が、頭の奥の方でぼんやりと形が出来上がってくる。どんな番組だったか、確か夕飯時にやっているバラエティだったはず。どんな様子だったか、確かその隣にもう一人誰かいたような気が……。
 そこまで思い出して、広大な記憶の海から何かが引っかかった。

「あ、双子アイドルの……」
「そうでーす! お姉さん大正解! でも名前までは覚えてないかー。もっと頑張らないとなー!」

 男の子は表情を変えながら、私の隣りへと座った。
 あまりにも距離が近くて、一瞬怯んで体をのけ反らせてしまったが、不快感は不思議と感じなかった。

「オレ、Wの蒼井悠介です! 弟の享介は別の仕事で今一緒にいないんだけど、二人で一つのユニットだから、お姉さん是非覚えて帰ってね! よろしくお願いしまーす!」

 よろしく……、という言葉は、口の中で溶けて消えた。
 ユニット。アイドル。テレビや雑誌で華々しい活躍を見せるような子が、勝手知ったる様子で使う場所。プロダクションという社名。ここに来て初めて知った御社の情報を、まっさらなジグソーパズルに1つ1つ埋めていくと、導き出される答えは。

「や、山村さん、ここって、アイドル事務所なんですか……?」
「はい。その通りです」
「……ところで、お姉さん何の人? スーツってことは、どこかの企業の人だったりするの?」
「悠介、いい加減敬語使って」
「あ、はーい。ごめんなさい」

 元気な男の子と一緒に小部屋から出てきた、スーツ姿の中性的な方は、彼を手刀でこずいていた。
 ……つまり私は、アイドル事務所の事務員として雇われようとしてるわけだ?


***


 社長は相変わらず不在だった。しかし、先輩事務員にあたるアルバイトの山村さんと、主にマネージメント業務をおこなっているという、何故かマネージャーではなくプロデューサーと呼ばれる方、二名に小一時間程お話を聞かせてもらった。
 このプロダクションを経営し始めてからもう何年か経つこと。所属するアイドルユニットが増えて来たこと。アイドルたちの努力の甲斐あってスケジュール管理が追い付かなくなり始めたこと。事務員を正規雇用で一人雇える状況になったこと。そして、社長の対応について、謝罪を頂いた。
 こう言ってはなんだけど、あの破天荒そうな社長の下で働く人たちなので、どんなすごいはちゃめちゃするのかと思っていたのだが、意外としっかりなさっている様子だ。と言うより、あんな社長だけど下がしっかりしているから、運営が上手くいっているんだと思う。
 そうしている内に、午後一番で訪ねていったというのに、大きな窓からは夕日の橙色が差し込んでいた。

「必要書類などは一応社長から受け取っているんですが、その、入社はご自身で考えてくださってこちらは構わないので……」
「その。そう言って頂けるのはありがたいんですが、私なんかでいいんでしょうか?」

 スーツのプロデューサーさんから、ずっしりと重い茶封筒を渡された。これが仕事の責任の重さのようだ。
 私の疑問が少し意外だったのか、きょとんとした表情をなされた。しかしすぐ、優しく微笑みかけてくださる。

「話した上でコミュニケーションもきちんと取れておりますし、何より……」

 一度、視線をソファーに座る悠介くんに向けたようだった。

「ここはアイドル事務所です。手前味噌で恐縮ですが、彼らの努力によって昔に比べれば知名度は上がってきました。新たな事務員を雇うとなると、様々なことを守っていただけるような人柄に限られます。貴女は、弊社アイドルと会話する際、彼をアイドルとしてではなく、一人の人間として対話しているご様子でした。私は、大丈夫だな、と感じたんです」

 ゆっくりと穏やかに、しかし凛とした声色から、耳が離せない。

「川口さん、一緒に働いて頂けませんか?」
「…………」

 自身の能力を低いと感じたことはない。そのための努力だってしてきた。
 ただ、努力を続ける才能だけは無かったみたいだ。そうして逃げ続けた結果、無職になった私は今ここに立っている。
 目の前の人達は、今日会ったばかりの人で。まだ話した機会も多くはない状態で。
 でも、それでも居心地がいいと感じるのは何故なんだろう。
 事務は事務。だが、サポートする相手はきらびやかな世界のアイドル達なのだ。今まで私が経験してきた仕事や世界とは別物だろう。
 未知への不安感が無いほど、私は勇気のある人間ではない。だが、山村さんやプロデューサーさん達とは、同じ仕事がしたい。この人達の力に、私の微力で足りるのなら、支えたいとまで思えてしまっていた。
 受け取った茶封筒を持つ手に、知らずと力がこもっていたみたいだ。一度、息を深く吸って、そして吐く。

「私でよければ、ここで働かせてください。よろしくお願いします」

 思い返せば、私が事務所に訪ねた時間には、事務員の山村さんもプロデューサーさんもアイドルの悠介くんもいた。
 社長は、社長と形式的な会話をするより、よりアイドルに近しい人達と会話をすること、私のアイドル達への対応を見た上で、現場の人たちに判断を委ねようとしていたのかもしれない。し、何も考えていないのかもしれない。
 次に社長に会った時は、色々と言わなければならないことがたくさんある。


***


 そうして、いつから出社すればいいのか、連絡先の交換など、事務的な会話をしている最中だった。
 どうやら、事務所所属のアイドルが訪ねてきたらしい。
 先程から顔を会わせている悠介くんとは真逆のように感じる、落ち着いた声色が玄関から聞こえた。
 はて、私は、この声を聞いたことがある気がする。壁越しではあるけれど。
 でも、これはまた悠介くんと同じパターンだろうか。またテレビとかで何気なく見聞きしていたアイドルの方なのかもしれない。
 悠介くんはその方を一目見るなり、「みちおセンセー」と呼んだ。
 ちょっと待って欲しい。その名前には聞き覚えがあり過ぎる。加えて、先生という敬称は、私の知るその人も同じなのだ。
 まさか。何でここにいるのか。数年越しにそんな。よりにもよって一番再会したくない先生が。
 いや待て待て落ち着け落ち着いて。名前が一緒、呼ばれ方も一緒、声も似てるような気がする。それだけだ。まだ他人の可能性だってあるだろう。そんな簡単に高校時代の担任と、関係ないところで出会うわけがないんだ。
 足音が、聞こえる。死の宣告のようだ。玄関から歩んできたその人は、ソファーでくつろぐ悠介くんに話しかけながら近づいた。
 どうか、その容姿が、私には知りもしない他人の空似、赤の他人でありますように……!
 意味がないのはわかっているが、どうしても目を細めながら現実を直視することに悪あがきを続けた。しかし、こういう時に限って無情なのだ。
 ああ。当時から全然容姿が変わっていないな。数年ぶりに顔を見た硲先生は、全く変わっていない。凛々しい横顔に、つい息が漏れたことに他意はない。
 悠介くんの向かいに座っていたプロデューサーさんも、その人と一言二言言葉を交わした。……まだ、視界に私は映ってはいないはず。
 プロデューサーさんが立ち上がり、先生に「挨拶して欲しい方がいる」と促す。
 先生の視線はゆっくりと、私に向いた。
 未だ終わらない二人の会話から、そしてその人の視線から逃げるように、自身にあてられた事務机に向き合った。さも、整理整頓をしているようなていで指先と視線を右往左往させる。
 隣りで事務仕事を続けている山村さんには怪訝な視線を寄越されたが、弁明をする余裕は一切ない。
 心臓が破裂しそうだ。もう、先生の視線はこちらから外れることはない。果たして、私があの川口雫だと気付いているのかまでは読めなかった。
 哀れな時間稼ぎももう潮時か。ここで挨拶をしないのは普通に失礼だろう。万が一、私のことを忘れていたのだとしたら、これからの円滑な仕事関係に支障が出るような態度だけは取りたくない。
 自分はあくまで、仕事をしにきているのだから。
 数年ぶりに、硲先生の顔見た。……そう言うと語弊がある。テレビでの活躍を、私は知っているのだから。

「挨拶遅れてしまってすみません。本日からお世話になる川口雫です。よろしくお願いします」

 手本にふさわしい角度でお辞儀をした後、改めて硲先生の顔を見た。目と口が少し開いていた。…………これは、私のこと、覚えてるなぁ。

「川口くん。君が私を覚えているかはわからないが……」
「……いえ。覚えていますし、活躍は拝見しておりました」

 ほら、やっぱり。
 忘れていて欲しかったような、忘れないでいて欲しかったような。どっちが良かったのか。わからなくなるほど、何故か安堵感すら感じてしまった。
 嘘をついても仕方がないので、平静を装って無難な返し方をした。
 硲先生を見据えていた視線は、いつの間にか明後日の方向に向いてしまった。
 もう、硲先生の表情はわからなくなってしまった。


***


「川口くん、今夜、私と夕食を共にしてくれないか?」
「は…………」

 新たな職場にも慣れ始めた二週目の水曜日。
 この事務所には、現在アイドルが40半ば程所属している。全員が全員、各々のユニットに属しているものの、最近の活動はユニットの垣根すら越えたものが多い。所謂ソロ活動や、ユニットが関係ない仕事が過去の業務内容より増えてきたのは確認済みだ。
 つまりどういうことか。数年前まではユニット単位でのスケジュール調整、先方との連絡、オーディションへのお誘い、名指しでのオファーなどが大多数だったものが、今や個人指名だって珍しくはない。要は15個分のスケジュールを把握すればよかったものが、今では細分化され46名それぞれで管理しなければならなくなったということだ。
 ここ一年、この業務量を主にアルバイトの山村さん一人でこなしていたというのだから驚きだ。
 勿論、プロデューサーさんは仕事に非常に熱心な方だから、その辺りも手伝っていたに違いない。むしろ手伝わないと絶対にまわらない。と思う。
 現在、私はひとまずアイドルたちのことを知る期間として、一通りのアイドルたちのスケジュール管理の補佐や電話対応を任されていた。あと事務所に届く雑誌やら映像のパッケージやら資料やらの整理など。
 最初は馴染みのないアイドルさん達もいらっしゃって、名前を覚えるのも大変だった。しかしこのアイドル事務所、揃いも揃って奇妙……失礼、個性的な経歴の人々が多く、一度印象に残れば忘れられないインパクトがあるので、その辺は非常に助かっている。

「い…………?」
「うむ。妙齢の女性を夕食に誘うのは、やはり問題があるだろうか」

 口元に指を置いて思案する様子は、学生時代から馴染みのあるものだ。

「……硲せんせ、……硲さんはアイドルなわけですし、事務所スタッフとはいえ異性と二人きりで食事っていうのは少し……」

 というのは建前だ。
 私は、事務所を訪ねた日以来、硲先生と二人きりになるのを避けている。
 食事に行くなんてもってのほかだ。二人きりで食事をするとなると、会話が増えるのは必然。となれば、花が咲くのは絶対に学生時代の話題だ。
 それだけは絶対に阻止したかった。

「呼び方は先生でも構わない。事務所の学生達には、変わらずそう呼ばれている」
「……はい。ありがとうございます」

 いや何のお礼だよ。と思いもしたが、的確な言葉が出ない程に、私は今動揺していた。
 何故なら、あれだけ避けていた硲先生と二人きりという状況だからだ。
 プロデューサーさんは今頃某ユニットの雑誌撮影に付き添っているし、山村さんは午前だけの出勤だった。社長は相も変わらずよくわからない。
 あと数分で終業時刻だった。本日中に片付けなければならないものは終わっていたし、帰りの支度すら始めてもう帰ろうかという時だった。
 まるで計ったかのようなタイミングで、硲さんは事務所に現れた。そうして、ホワイトボードに書かれた予定をしばし見つめた後、二言三言の会話をした流れで、まさか夕食に誘われたのだ。

「そうか。やはり、私と話すのは、気が進まないか……。いや、失言だったな。申し訳ない」
「…………」

 先生は、私のことを忘れられなかったと思う。
 私だって、硲先生のことは忘れられなかった。
 そのくらい、この年齢になっても、罪悪感が残っている。

「その、先生のことが嫌いとか、話すのが嫌だとか嫌悪感があるとか、そういうんじゃないんです。あの時とはお互いに立場が違うのもわりますけど、それ以上に私が」
「……あの時に私が、君の行動を肯定していれば、ここまで悩むこともなかったのだろうな」

 声色に心臓が締め付けられた。握る手に力が入る。

「先生は何も悪くないですし、私が逃げたことがまずかったんです。自己責任です」
「君にそうやって圧し掛かる重圧に気付けずにいた、青かった私にも一抹の責任はあっただろう。……もし再会ができたなら、一言、当時のことを謝りたかった」

 すまない、とお辞儀をする。綺麗なお辞儀だ。
 意味もなく先生のうなじを見つめ、この場に似つかわしくない可愛いという感情が沸いた。相当にこの場から逃避したい気持ちの表れだろうか。
 椅子から立ち上がって、先生に数歩近付く。
 当時から私の身長は伸びていないはずなのに、先生はあの時より小さく見える。ヒール数cmがいつもより大きく感じた。

「先生、やっぱり夕食、一緒に行きましょうか」
「うむ……?」

 呆気にとられたような表情がこちらに向けられた。
 二人きりにはなりたくない。しかし、そこから目を背ける自分は、あまりにもあの時から変わっていない。
 年齢だけ重ねて、逃げ続けて、何が残った? ……何も残らなかった。当たり前だ。その道を選んだのは自分だ。それまで築き上げたものを壊したのも自らの手だ。
 罪悪感、そして自責。優しい言葉をかけてくれる人もいた。目の前の人のように。差し伸べられた手すら振り払って、それまでの自分の努力すら否定した。
 そういう生き方を続けてきて、もうそろそろいいんじゃないか?と少し思えるようになったのだ。やっと。
 利用するような心持ちもして、少し気が引ける。
 でも、だけど、もし、あの時のことを未だに悩み続けて決着が着かないのであれば、先生にも罪悪感があるとするならば、どうか今だけその気持ちに甘えてもいいだろうか。
 当時の、もろ過ぎた私の弱さを、聴いてはくれないだろうか。

「私、あの時より大人になったんですよ」

 だから、今、改めて向き合おうと思うんです。
 そう言いたかった言葉を口にすれば、共に涙も零れそうだったので寸での所で止めた。
 指先が寂しくて、咄嗟に先生の袖を掴んでしまった。

「…………ああ」

 返答まで時間がかかったので断られたらどうしようかと思ったが、大丈夫なようだ。
 安堵感から頬が緩む。ちらりと先生の顔を覗けば、今まで見たことのない表情をしていて、心臓が高鳴った。


***


 そんな珍しくもなければ、悲惨な話でもない。
 私は、高校に通って数年経つまで、自他共に認める優等生だった。
 勉学だって手を抜かず努力。芸術科目も得意不得意は置いといてもまず努力。運動も苦手ではなかったので好成績を残し、やる気だって見せていた。
 優等生でいる自分のことが好きだった。仲の良い友人からは適所で頼られる。お礼を言われるのは気持ちが良い。
 自分はずっと優等生なんだと思っていた。両親からも、先生たちからも期待されていた。期待されることすら嬉しかった。
 そうやって何年も何年も優等生を続けていたある日。本当にある日だ。特別なことなんて何もない。
 ふと、やる気の出し方がわからなくなった。
 昨日まで何時間も続けられた勉強に、手が着かない。
 昨日まで何時間も続けられた人当たりの良い返答が、表情は動かないし言葉も出ない。
 夜寝るのが面倒になって、朝起きるのが面倒になった。
 何かをやることが、自分の意志を持つことが、ひたすらに面倒になってしまった。
 面倒。面倒なのだ。とにかく面倒。何をするにも面倒。
 その内、学校に行くことすら億劫になった。両親は体の不調を心配したし、友人たちからの連絡だって止まなかったし、先生たちも私の進路を心配し始めた。
 その内学校には通えるようになった。ただ、今までの積極性は家にずっと置いてきているようだった。自分の部屋の、開け方すらわからない場所に。
 抜け殻のようだ。人の期待に応えることが難しい。必要以上に期待されると、気分が悪くなりそうだった。

 当時の担任教師が、現在アイドルの硲先生だった。
 先生とは日頃からコミュニケーションをとっていて、我ながら生徒と教師として有効な関係が築けていたはずだ。
 真面目で人が良く、たまに不器用な硲先生から、私のような努力を怠らない生徒はきっと素晴らしく輝いて映っていたことだろう。
 優等生の豹変ぷりに、先生はきっと、様々な胸をうつ言葉の数々を語ってくれたに違いない。熱い人なのだ。
 しかし、私はその言葉を一言たりとも覚えていない。当時の私には、何も刺さらなかった。
 そして私は思ってしまった。先生との会話が面倒だ、と。
 別に学校に通わずとも勉強は一人でできる。進学はしたかったので勉強は続けたが、卒業できる最低日数を超えた時から、私は高校に行かなくなった。
 結局、卒業式にも行っていない。
 後日、家に届いた卒業証書を眺めたところで、卒業した実感はあまりにも薄かった。


***


 硲先生に連れて来られたお店は、感じの良いバーのような雰囲気だった。
 聴けば、お酒も提供しているようだが、普通にディナーとしても満足できる料理も扱っているそうだ。
 店の奥まった位置、それもほぼ個室のような、仕切りのある席に通された。
 なるほど。アイドル故の注意のはらい方に余念がない。硲先生らしい行動に思える。
 けど……。私はそわそわしていた。
 席に着いて、より一層感じる。お店の雰囲気、照明の明るさ、色々な要素が明らかに、男女のおデートでも訪れるに相応しい場所なのでは……!?

 自分から誘ったのだから、お金の心配はしなくて良い、と。
 もっともらしいことを落ち着いた声で言われた気がするが、それどころではない。メニューを眺めて目についたものを適当に頼み、世間話をしつつ届いた食事を口にする。
 目の前にいるのは高校時代の先生でもあるが、何より今は仕事仲間でもある。それにしては……なんというか……雰囲気が恋人関係っぽくて、気恥ずかしくて仕方なかった。
 嫌悪感を抱かなかったのは、硲先生を悪く思ってないからだろうか。勿論、人として。別に異性として意識しているわけではない。はず。
 先生は所作すら美しい。気がする。個室っぽい場所なのだから、マナーはあまり気にしなくて良いと言われた。でも、目の前でそんな綺麗に食事をとられては、何とも引け目を感じてしまうものではないかな。
 私があまりにも凝視していたことに、はたしてどんな感情を抱いたのかまではわからなかったが、先生は目を細めながらふわりと笑った。
 なんだその顔! 流石アイドルと言わざるを得ない魅力的な表情! ドキッとしないのは失礼に当たるから、仕方なくドキッとしただけだ。
 それに、私はあくまで元教え子。きっと、あまりにも場に不慣れな感じを悟られて綿割れたに違いない。

 食事を続けながら、ぽつぽつと、私は高校当時の心境に関して話し始めた。
 当時は、他言は絶対にできない、己が一生抱えていく感情なのだと強く思っていたが、案外、時間が経てば当事者の一人相手にだって軽い口ぶりで話すことができた。時間が解決する、とはこういうことなのかもしれない。
 硲先生は口数少なめに、しかし相づちは欠かさずに返してくれた。
 私の視線は食事を映したり、手元を映したり、食器を映したりと忙しなかった。ふと視線を上げて先生の顔を見れば、真っ直ぐな眼差しで真剣な顔つきで聴いてくれているようだった。
 一通り話し終わり、一瞬の沈黙が訪れる。
 次に、どんな言葉を伝えようか、聴いてくれたお礼を伝えようかと口を開いたタイミングは、硲先生の言葉に先制を打たれた。

「私は、努力は素晴らしいものだと思っている。が、続けることが困難なものだとも思う」

 先生が食べていた食事は、いつからか全く量が減っていないようだった。

「そして、一人で積み重ねていくこともまた、非常に困難だ」
「……まるで、身に覚えがあるように、言えちゃうんですね」
「そうだな……」

 先生の言葉はいつも熱に溢れている。
 その印象は、学生時代から変わらない。テレビの画面越しに映り紡ぐ言葉も、その熱量からか説得力を感じていた。

「不躾なうえ、気分を害したら申し訳ない。川口くんは恋人関係にあたる相手はいるのだろうか」
「はい?」

 なんて? 急に?

「君は昔から、一人で抱え込む性格をしている。弱音をむやみに吐かないその姿勢は美徳ともとれるが、人は存外に脆い。疲れた際に寄りかかれる存在として、恋人が最も歩み寄れる関係性だと思うのだが……」
「……いえ、いないです。いないですよ」

 なるほど。そういうことか。また心臓がひやりとした。
 生まれてこの方、お付き合いした人はいない。告白された相手はいたのだが、あまりそういうことに興味が持てず、時間を割こうとは思えなかったので、お断りさせて頂いていた。
 ……焦がれた相手がいないこともないが、特別何か行動を起こすなどはしたこともなかった。

「うむ。そうか」

 先生はそう口にし、顎に指をあてる。何かを思案してる様子だ。
 手持無沙汰になってしまったので、私は手元に残る食事を黙々と口に運んだ。
 沈黙が苦手と思うことは少ないはずなのに、今この空間は恐ろしく気まずい。
 しかし、先生は相当に真剣な顔で悩んでいるので、声をかけるのも躊躇われた。
 耐えかねた私は、ついに口を割る。

「……先生の言う通り、恋人はいませんし、両親にも友人にも、例えば近くにいる頼れるような人、先生などに、弱音を告げたことはないです。そうやって貯め込んだものが、一気に溢れてしまったんですかね」
「今となってしまえば、そう捉えられる。そして、恋人ではなくとも、そういう相手はいないのだろうか」
「そうですね。もう実家は出てますし、何となく親とも顔を合わせづらくて。当時の友人たちとも、頻繁には連絡とってないです」

 思えば、仲が良いとか、慕われているような友人はいても、親友と呼べるほど踏み込んだ話ができる相手はいない。
 振り返ってみれば、私は随分と、孤高だった。
 しかし、真の孤高になれるほどの器は、私にはなかったのだろう。

「川口くん、私は、いつからか君が弱音を吐ける存在になりたいと思い始めたようだ」
「…………」

 その言葉の意味を噛み砕き、飲み込み、思わず目を見開く。
 私の頭の中は、場違いにも程があるが、どうしても現代文の授業のとある問のことを思い出していた。
 本文にある@下線が書かれた文章が表す適切な文章を、本文中より抜き出しなさい。
 先生の真意はつまり……。いやまさか。そんなまさか。

「そうは言うが、君は私のことを教師としか思えないだろうな」

 私は、君の支えになりたい。
 硲先生の言葉には、いつも熱がこもっている。言霊とでもいうべきなのか、先生は自分が信じて疑わない本心を、言葉に乗せることができる。それが熱意になり、相手に伝わる。
 だが、今の言葉に乗っている感情は、そういう本心だとか熱意だとかというよりも。
 顔が火照るのは、その熱意にあてられたからに決まっている。
 私の様子を、言葉に対する反応を見て、先生は目を見開いたようだった。
 そして、ひと息、こちらに届きそうなほど熱い吐息を漏らす。

「……すまないが、逃がしてやれそうにはない」




200421
リクエスト『硲道夫さんが昔教え子だった女の子をどうしても自分の恋人にしたいお話』



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