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▼ 朽ち葉が落つる日、雲煙の昇る時A

***


 それから一週間は過ぎた。
 雫はあれ以来、大学の喫煙所に行っていない。それどころか、煙草を吸うことすらめっきり減ってしまった。
 煙草やライターを見ると、どうにも粟田口先輩の顔が脳裏に浮かぶ。雫が腕を掴まれた時の、雫を決して逃さないという意志のこもった眼光。いつも話している時には見たことも無かった、真っ直ぐに閉じられた口。やっぱり顔が好みだと思うと同時に、その後にされた唇の感触と味すらも記憶に甦るのだ。
 しかし、慣れというものは恐ろしいもので、たかが一週間そこらではあるものの、雫は禁煙に成功していた。
 元々は元カレが吸っていた影響で始まった喫煙が、新たな男の影響で止まるとは、雫はどうにも不服であった。

 雫は、大学が終わった後にバイトのシフトに出ていることが多かった。市内で最も栄えている駅前、あらゆる種類の店が立ち並ぶ中にある、チェーン店の居酒屋にてアルバイトをしていた。
 夕方からシフトに入り、客入りが増える深夜まで働くことが多かったのだが、その日は平日半ばで生憎の雨。客入りがすさまじく悪くあまりにも暇だったので、店長に「今日はもう帰っていいよ」と言われてしまった。
 自分にかかる費用は全て自分で賄うためにバイトをしているので、予定していたシフト分の給料が出ないとなると困る場面も出てるのだが。雫は残念に思った。
 いつもなら働いてるこの時間、いつもなら絶対に見ない時間帯に携帯を見ると、化粧ばっちり友人から連絡が入っていることに気付いた。
 バイト中だった、と言えば体の良い言い訳になる。実際その予定だったのだ。雫はアプリを開かずとも読める最新の文言だけに目を通した。
 都内で男友達と飲んでるから来ないか?という誘いだった。雫が少し前に彼氏と別れていることを知っているから誘ったのか、それとも自分よりも若い女性らしさが劣る雫を横に置くことで自分を引き立てるためか、真意は勿論想像だか、雫はげんなりして結局連絡アプリを開かずに上着のポケットへと突っ込んだ。
 が、その直後。携帯が震える。新着のメッセージが来たのだ。誰かと思えば、またばっちり友人からだ。駄目押しの一言かな?と、一応メッセージに目を通すと、『雫ちゃんの代わりにこの子を呼びましたー!!』とのこと。どの子だ?と思うと同時に、何やら画像が送られた。流石に気になってアプリを開いたら、その画像には同年代であろう男性何人かに寄り添われて顔を真っ青にしている、友人の中でもとりわけおとなしい子がそこにいた。
 その子はあまり自分の意見を主張するタイプではない。粗方、化粧ばっちり友人に適当に嘘を言われて呼び出され、来てみたら男性ばかりで萎縮し、いかにも思い通りになりそうな子を前に男性たちは一斉に言い寄り始めたに違いない。
 雫は居ても立ってもいられず、帰路に着いていた足を駅に向かわせた。ここから電車で三十分ほどかかる場所ではあるが、おとなしいその友人が気が気ではなかったのだ。
 雫はアプリに『今から行くから移動しないで』とだけ残し、電車に駆け込んだ。

 雫が到着すると、友人らはお店の外にいた。
 遠くにいるというのに、下品な男の声が響いている。まさかと思って目を向けると、その傍らには化粧ばっちり友人とおとなしい友人がいる。類は友を呼ぶとはこのこと。ばっちり友人の友人は、なんとも雫は好かないタイプの男たちだった。
 人混みをかき分けて、おとなしい友人の肩に手を置く。腰には何故かやたらとがたいのいい男の腕がまわっていた。友人は体を震わせている。雫の手に驚き、一度びくりと大きく体を跳ねさせたが、その主が雫だとわかると、強張っていた表情が少し柔らかくなった。

「あ、雫ちゃん……」
「帰ろう。ね」

 ということで失礼します。とだけ言い残し、友人の手を引いて帰ろうと踵を返した。のだが、勿論そう上手くはいかなかった。

「なになに、また女の子呼んでくれたの?」
「そうだよ、大学の同級生の雫ちゃん」
「へぇ。顔はタイプじゃないけどスタイル良いね」
「めっちゃ細いじゃん」
「ねぇ、これからカラオケ行かない?」

 男たちは雫を値踏みするかのように視線を這わせてくる。雫は不快感を表情に隠さずににらみつけた。早くその場を立ち去りたかった。
 しかし、友人の腰には未だ大柄な男の腕が離れず、何を考えてるのかわからない今日もばっちり化粧をしている友人も雫の腕をとった。

「いいじゃんカラオケ!でも人数多いから、二人ずつ入ろ!」
「ちょ、ちょっと。私たち帰るから……」
「えーまだ八時だよー?もっと遊ぼうよ!」

 なにがなんでも帰したくないらしい。友人の腰に手を回す男に至っては、性欲が表情からにじみ出ている。雫は気持ち悪い、とにらみつけた。
 おとなしい友人は身長が高くない割に胸が大きい。性欲にまみれた男に声をかけられる頻度が高く、本人も男性が得意ではない。雫は、騙される形でこの場に来てしまったこの友人が心配でならなかったが、案の定だった。
 周りの人間は、自分の都合が良いように話を進めるためなら、強引な手段も問わない様子だ。雫も、化粧の濃い友人と襟足がやたらと長い男に手を掴まれ、引っ張られてしまった。

「やめてください!触らないで!」
「雫ちゃん今彼氏いないしいいじゃん!」
「カマトトぶらないで良いよ。彼氏いないなら性欲有り余ってるでしょ」

 男がニヤニヤしながら雫の耳元で囁く。鳥肌が全身にぶわりと沸き立つ。嫌悪感でいっぱいだ。
 雫は渾身の力で腕を振るが、女の手は振りほどけても男の腕は簡単ではない。もういっそ、暴力でも振るってしまおうか、と雫がほどけた方の腕を振りかぶる。

「失礼。私の彼女に何か用が?」

 振りかぶった腕は、骨ばった手で優しく掴まれた。顔を向けると、久しく顔を見てなかった人がそこにいた。
 少し、息が上がっている。頬も高揚していた。雫は、この人のこんな余裕なさげな表情を始めて見た。

「な、なんだてめぇ」
「ですから、雫さんとお付き合いをさせていただいてる者です」

 寝耳に水である。

「手を離して頂けますか?」

 先輩の物を言わせぬ雰囲気にたじろいだのか、あれだけ雫が抵抗しても離れなかった腕は、いとも簡単に離れていった。

「おーい一期くーん!急に走り出してどうしたの?」

 先輩の後ろから、卑しい大柄な男よりももっと長身長な男が現れた。雫も身長は低くはないが、見上げないと顔が視界に入らない。先輩とはまた違った系統に顔の良い男だった。濃紺の長めの髪は右目を隠すほどだが、不思議と不清潔には見えない。

「……そっちの女性、随分震えているようだけれど、まさか、嫌がる女性を無理やり抱きとめてるわけじゃないよね?」

 口調は穏やかだったが、声色には脅しが入っていた。
 おとなしい友人の腰にまわっていた腕も即座に離れ、解放された友人は雫の下へと駆け寄り小さく震えながら雫の服の裾を掴んだ。友人をこんなに怯えさせたことに怒りが込み上げ、雫は文句の一つや二つを口に出そうとするが、粟田口先輩に静止させられた。

「これから予定があるもので。失礼します」

 ぴしゃりと言い放つと、雫と友人をエスコートするように人混みの中を歩きだした。背中越しに「なんで!?あの粟田口先輩と付き合ってんの!?意味わかんない!!」と喚く女の声が聞こえたが、雫にだってこの状況は意味がわかっていない。

 少し歩いてビルの隙間を抜けていくと、街灯だけが光る公園へとたどり着いた。店が立ち並ぶ通りはすぐそこだというのに、静かな場所だった。
 何か温かい飲み物買ってくるね。と長身のイケメンは近くのコンビニへと向かった。
 公園のベンチに友人と共に腰を下ろし、雫は友人の背中をさすった。友人の体の震えは落ち着いており、雫も一安心だった。

「ごめんね雫ちゃん。わざわざ来てもらって」

 別にいいよ、と首を振る。実際、行ったところで別段力にはなれていないのだが、自分の存在で気持ちが少しでも安らいだならそれでいい。

 粟田口先輩は、雫と友人を二人きりにさせてくれた。ベンチから少し離れた街灯に背を預けている。
 長身のイケメンが戻ってくると、友人は先輩とイケメンさんにひたすらに頭を下げた。そしてお礼を連呼していた。イケメンはどこまでもイケメンなようで「困っている女性を見たら放っておけないよ」と、座る友人に自分も屈んで目線を合わせて微笑んだ。紳士的な方だなぁ、と雫は感心した。

 なんでこの場に粟田口先輩が良いタイミングで現れたのか、雫は疑問に思ってた。が、バタバタとしていたお蔭で聴きだせないでいた。
 大学で見かける簡素な私服に比べて、随分と大人っぽい服装だ。白いシャツに黒いベスト、黒いネクタイ、黒いパンツ。雫には、この格好がバーテンダーに見えて仕方ない。
 雫のじろじろとした視線に、粟田口先輩は当然気付いているようで、未だ落ち着かないのか少し息を弾ませながら「バイト、してるんです」と少し照れ臭そうに言った。
 長身イケメンは、バイト先の先輩らしい。二人で休憩時間になったので、適当に買い物をしようと外に出たところ、何やらもめてる男女グループを発見。街中の夜にはよくあることだと、いつも通りスルーしようとしたのだが、その中に見知った顔を見つけたので止めに入った。という経緯だという。

「それにしても、一期くんに彼女がいただなんて初耳だなぁ。大学の人?」
「……はい」

 おい先輩。肯定するな。嘘をつくな。

「いえ、粟田口先輩とはそういう関係ではありません。あれは、先輩があの場を凌ぐために機転を利かせた嘘です」

 雫は間髪入れずに否定した。
 雫の言葉に、長身イケメンは驚きの表情を見せた。

「えっ、そうなの?……それにしては、」

 言いながら何かを思い出すようにしていたが、すぐに「いや、これ以上は野暮だよね」と随分と嬉しそうに笑った挙句「うん。若いっていいね」と満足そうにしていた。

「そんなに歳変わらんでしょう」
「僕はもう大学卒業して何年か経ってるから、学生の気持ちは古いの」

 さてと、と長身イケメンはその場を仕切り直す。

「そろそろ戻ろうか。二人は、気を付けて帰りなね」

 ところで、雫はずっと気になっていることがあった。
 粟田口先輩の顔は、未だ頬が少し赤い。そして、息も整わないでいる。雫が先輩の姿を見た時、走ってきた直後だったので、赤い顔も落ち着かない息もそのせいだと思った。が、それから時間が経っている今、未だに先輩の表情は苦しそうに見える。
 気まずさから少し顔を合わせない期間があったもの、顔が好みだからとやたらに表情をみていたのが、役にたった。

「あの、ちょっと失礼しますね」

 立ち去ろうとする先輩に雫は近付く。目を丸くさせている先輩に、問答無用で手を伸ばした。柔らかい髪を片方の手で上げ、利き手でおでこに触れる。

「ちょ、なっ、」

 先輩は急に触れられたことで動揺したようだが、雫は構わなかった。
 雫の手から伝わる熱は、恐らく平熱より熱い。

「先輩。風邪ひいてるでしょ。駄目ですよ。客商売なら尚更。移す可能性あるんだから」

 雫は長身イケメンの方へ向き直る。

「先輩の先輩さんすみません。彼、体調不良のようなので、帰してもらってもいいですか?」
「…………。うん、わかった。お店の人には伝えておくから、一期くんのこと頼めるかい?」
「はい。任せて下さい」

 本人の同意もへったくれも無く事が決まり、長身イケメンだけが仕事場に戻っていった。
 先輩は終始不服そうな表情だったが、雫の文言は正論なので、それがわかっているからこそ言い返さないようだ。


***


 友人は使う路線が違うので、雫と粟田口先輩と同じ電車には乗れない。駅の構内に入った時点でお別れをした。
 二人きりになると、粟田口先輩は少し気まずそうにしていた。それもそうか、と雫は自分のことを棚に上げて納得した。最後に彼と顔を合わせたのは、無理やり唇を奪われた時である。その後、先輩を避けていたのは紛れもなく雫の方であった。喫煙所にさえ行かなければ、雫と先輩の接点など無いに等しい。現に、今日顔を合わせるまでは、全く出会っていなかった。
 先程まで働いていたのだから、熱があるとは言え案外平気なのかと思っていたのだが、それは間違いだったらしい。雫の横を歩く先輩の足取りは重く、ふらふらとおぼつかない。助けられた時よりも幾分か息が荒くなっている。

「大丈夫ですか?いったん座りますか?」

 雫の問いかけに、先輩は意志を声に出さず、ただ首を振った。
 最寄駅はここですよねと確認すると、案の定雫の家の最寄りと同じ駅を言われたので、歩き慣れたルートでホームに向かった。
 二人がホームに着く頃に来た電車は各駅停車のものだったが、急行などに乗ってずっと立たせるのもしんどいだろうと、有無を言わさずに乗り込む。発車まで時間があった。人気のない車両であったので、マナー違反ではあるのだろうが、雫は飲み物と常備している薬を鞄から出した。

「取りあえず熱の薬と……、他に痛いところとかはありますか?」

 先輩は力なく首を振った。

「熱くて、体が重いです」
「熱のせいですね。下がればいいんですけど……」

 薬をフィルムから取り出し、渡す。口に放っている間に、ペットボトルの蓋を外してから手渡した。

「……随分と用意がいいんですね」
「どこか痛くしてると可哀想じゃないですか。市販のやつなので気休めかもしれないですけど、色々ありますよ。頭痛薬からのどの炎症抑える薬とか、あと吐き気止めと乗り物酔いのやつとか、あと下痢止めとか……」

 雫が薬ポーチに入ってる薬を順番に確認していると、先輩は脈絡も無く「あ」と掠れた声を出した。

「ん?どうかしました?」
「……間接キス、してしまいましたね」

 先輩は雫の渡したペットボトルを握りながら、呆けていた。
 なんだ?雫の記憶が正しければ、この男は野外で彼女といやらしく唇を重ねながら体をまさぐる男だ。だというのに、随分と初心なことを口にしている。素でそう思っている先輩の様子にあてられ、雫の方が恥ずかしくなってしまった。

「はいはい。中身無くなったらなら捨ててくるから貸してください」
「すみません」

 案外、普通に会話ができている自分に、雫は驚いていた。同時に、あの日のことを思い出す。
 自分が粟田口一期に恋愛感情を向けたことを自覚して、同級生が先輩の存在を知っていることですら嫉妬して、あまつさえ彼女持ちの男に好意をよせた自分に失望し、かと思いきや先輩は彼女と別れたなどと言い出し自分にキスをした。短い時間の中であまりにも目まぐるしく感情が動かされて、雫は正常な判断を下すことができなかったのだろう。すぐにその場を逃げ出したのは、自己防衛のための本能なのかもしれない。
 数日、というには長すぎる時間の中で、雫が思い返すのは、先輩と過ごしていた時間が楽しかった、ということだった。下手をしなくとも犯罪にすら該当する行為にさえ、嫌悪感を抱かない理由とは。気まずくて自ら遠ざかっていたのに、再会して具合が悪いとわかれば甲斐甲斐しく世話をやく理由とは。
 そう。雫は、粟田口先輩の顔が好みなのだ。

 電車が発車する頃になっても、二人の乗る車両には他に人がいなかった。
 先輩は目を閉じながら静かに呼吸をしている。寝ているのかと思って様子を伺ったら、先輩は目をゆっくりと開けた。

「……その体勢だと眠りづらいですよね。肩に寄りかかっていいですよ」

 先輩は少し考えた後、息を吐いた。そして、おずおずと「失礼します……」と雫の肩に頭を寄せた。
 電車が揺れる音。振動。明かりが光る窓の外の夜。そこに映る雫と先輩。雫の耳元で、先輩の呼吸音が絶えず聞こえて、雫はたまらず手を先輩の頭に伸ばした。くしゃりと先輩の髪を撫でると、先輩は縋るように雫の肩に顔を押し付けてくる。

「お願いがあります。貴方さえ良ければ……」

 先輩は、雫の空いた手を熱い両手で握った。

「手を、繋いで頂けませんか」

 雫は何も言わずに、握り返した。
 先輩は嬉しそうに息を弾ませた。そして少しすると、眠ってしまったのか呼吸が穏やかになった。

 先輩は最寄り駅に着くまで目を覚まさなかったので、雫は声をかけて起こした。その頃には握られていた手に汗がにじんでいて、雫としては手汗が恥ずかしいのですぐに離したかった。寝起き故の呆けている間に手をさり気なく離そうと試みるも、「嫌です。離さないで」と寝起きそして熱に浮かされた声を聞かされては、耳に毒だ。その間に手をぎゅっと握られ、逃げられなくなってしまった。
 電車から降り、一つしかない改札から出る間、先輩は手を離さなかった。雫ももうここまでくると離れがたかったので「家まで送りますね」と声をかけたら、赤い顔で嬉しそうにしながら「すみません。ありがとうございます」と拒否されなかった。雫は、いつも達観した表情をしている先輩がこんなにも甘えてくることが可愛くて仕方なかった。

 先輩の家は駅からそう遠くなく、ゆっくり歩いても十分かからなかった。駅の裏手にある住宅街を、先輩に手を引かれる形で着いて行く。足取りも、電車に乗る前に比べたらしっかりしていて、雫は少し安堵した。
 ふと、先輩の足が止まる。そこそこ大きな戸建ての前で立ち止まった。ここが先輩の家だ、と思うのもつかの間、先輩は切なげな表情をしながら雫の手を一層強く握り締めた。

「今日はありがとうございました。面倒をおかけした上に、情けない姿まで晒して……、恥ずかしい限りです」
「いえ。その、先輩けっこう甘えたなんですね、意外でした」

 改めてお礼を言われるのも照れ臭くて、雫は茶化すように返したのだが、それがどうやら先輩のツボに入ったらしい。雫は、眼前が先輩の胸部でいっぱいになり、熱い身体に包まれてていた。

「貴方は……っ、……優等生ではない私を見ても、そうなのですね」
「はっ?えっ、なに、どうしたんですか先輩」

 雫が驚いてる間もなく、先輩は体を離した。そして、雫の顔を覗き込みながら言うのだ。

「風邪治ったら、いつもの場所で待ってますから、汚名を挽回させてください」

 至近距離に先輩の優しく微笑んだ顔があることに耐えられなくて、雫はいつかの時のように逃げ出すようにその場を去ったのだった。


***


 翌日。雫の頭からはすっぽり抜け落ちていたのだが、厄介な相手をすっかり忘れていた。
 昼時に友人らとおちあってる最中、とてつもない剣幕で雫に詰め寄る女がいた。いつも雫の逆鱗に触れる、あの友人である。

「ちょっと、あの粟田口先輩と付き合ってるって嘘だよね!?全然関係ないじゃん!!嘘でしょ!!ねぇ!」

 食堂にいる人たちが大半振り返るほどの大声を耳元で叫ばれると、流石に耳が痛かった。雫は反射的に耳を抑えていた。

「ちょっと!答えなさいよ!」

 目でにらみ殺しでもするほどの目つきに、せっかくの化粧が台無しだなぁと雫は思った。
 彼女の言う通り、雫と粟田口先輩には、表向きの接点が無い。が、それを話すつもりは毛頭ないのだ。
 正直に言えば、雫は粟田口先輩を好いてるし、粟田口先輩も雫を好いている。ただ、恋人関係になった記憶は一切ない。のだが、雫は、内にある嫉妬心がまた暴走を始める前に、先手をうつことにした。

「うん。お付き合いしてるよ、先輩と」

 まさか、真面目に授業を受け、人一倍面倒見が良く、何かと準備も良い雫が、嘘をついているなんて思うまい。目の前の女の表情を見れば、わかることだ。

 更に翌日。風邪っぴきの先輩を家に送り届けた翌々日だ。雫がその日の講義を終え夕方に喫煙所を訪れた時、仕切り越しに煙が上っていなかったので、今日も先輩は養生中かと残念に思っていたところ、背後から足音が聞こえた。

「お久しぶりです」
「……と言っても、一日ぶりですけど。体の具合はどうですか?」
「貴方にうつすのは忍びなかったので、完治しています」

 挨拶意外に特に何を言うことも無く、二人は喫煙所に入っていった。

「先日はすみませんでした」
 先輩は早々に頭を下げてきた。
「それは、どのことに対してですか?」
「……貴方の唇を奪ったこと、です」

 雫は安堵した。風邪の面倒みたことは、雫の親切心だったので、それを謝られていたらまた疎遠になるところだった。

「謝って済むことでは無いと思っています。人として最低でした」
「……まぁ、あの、私が偉そうに踏ん反り返るのもおかしな話なので、とりあえず、顔を上げましょうよ」

 顔を上げた先輩の表情は、程度が雲泥の差であるが、子供が悪さをして叱られている時の表情を彷彿とさせた。
 雫は、どうにも先輩の、年齢にそぐわない幼げな表情が尚更に愛おしく感じてしまう。

「でも、そうですね。こっちから何もしないってなるのも癪なので、その、そうだな、私の質問に全て答えてもらえますか?」

 先輩は一体何を考えていたのか、当初は顔を白くさせていたのだが、雫の要望の全貌を知ると、呆気にとられていた。

「し、質問に答えればいいのですか?それで、いいんですか?」
「そんなことで、って言いたげですけど、私の思い返す限りでは、先輩結構自分の話はぐらかしてますよね?」

 先輩は途端に「あー……」と言い出し、しどろもどろし出す。雫は、自分が優位に立っているこの状況が面白くて仕方がない。



「先輩、兄弟の人数聞いた時はぐらかしましたよね」
「それは……、ですね否定はしません。その頃はまだ仲が深まってなかったですし、うちの兄弟は母が違ったり父が違ったり、色々と状況が複雑でして」
「あーなるほど。それは、ごめんなさい、こっちの配慮が足りなくて」
「いえ……。みだりに言うことがはばかられるだけなので、信用してる人間には隠しませんよ」
「で、何人いるんですか?」
「随分食いつきますね。……二桁は超えています」
「十人以上ですか!?うちの倍ですよ!めっちゃうるさそうですね!」
「……ふっ、あっはっは。そうですな」



「先輩は教師を目指してるんですか?」
「そんなことはぐらかしましたっけ?」
「聞かれたく無さそうにはしてました」
「そうですか……。教員免許を取るつもりではいます。けど、教師になるつもりはありません。公務員も安定した収入が魅力的ですが、うちの人数では賄えるかも微妙で」
「確かに。確かに」
「使えるものは使おうかと思いまして」
「ちゃっかりしてますよね」
「まぁそれなりに」



「なんで、いつも吸う煙草違ったんですか?箱を持ってるところも見なかったし」
「気づいておられたんですね。でも、そうですな、これだけ顔を合わせていれば気付きますでしょうな。バイト先での、貰い物でした」
「く、くれるんですか?」
「くれるんです。お客さんから、お店の人から、色々な方が。最初は吸わずに捨ててました。けど、試しに吸ってみたら、こう、何て言うんでしょうな、深呼吸のような動作が、ストレス発散に繋がったようです。あまりこだわりも無かったので、貰ったものは吸いきろうと。しかし、弟たちの手前、なんとも指摘されるのが心苦しくて、ずっと隠れて吸ってました。……その点は、貴方もわかるでしょう?お互い見栄っ張りなのでしょうな」



「いつ彼女と別れたんですか?」
「その話を掘り返しますか?」
「いつですか」
「……そこで貴方に盗み見されてから、そう経たない内に。ここで貴方と会っていた時間は、基本的に彼女と過ごしていたので、最近冷たくないかと言い寄られました。そもそもが、元カノからの熱烈な押しに負けたことが交際のきっかけだったので、元カノのことが好きだったかと言われると、そうでも無かったなぁ、と」
「えぇ……、先輩最低ですね」
「否定はしません。でも、だからこそ、他に気になる女性がいる、その人と会っている、と淡々と告げることが出来ました。自分とは体が目当てだったのか、と怒られました。勿論、罪悪感を感じなかったわけではありませんでした。けど、モデル業もやっている友人から、お前の元カノが言い寄ってきたぞ、と別れを告げた翌日に言われたので、先は長くなかったと思います」



「……私のこと、いつから好きになったんですか」
「えぇ!?それを聞くんですか!?」
「気になるじゃないですか!先輩みたいな、やたらと評価の高いハイスペックな人間が、どこにでもいるような私を好くって!!」
「…………」

 それまでは、やんや言いながらも言いよどむことなく雫の質問に答えていた先輩が、少し黙り込んでしまった。
 黙り、視線を雫に向け、逸らし、また雫を見つめると、小さく息を吐いてから口を開いた。

「顔が、好みだったんです」



 雫は固まった。先輩の顔を見たまま、動けなくなってしまった。そのくせ、心臓だけはバクバク動いている。
 目の前で、好みの顔をしている男が、自分の顔が好みだと、そう言ったのだ。

「この際、正直に白状しましょうか。小学校の運動会があったあの日、公園の喫煙所で、ライターを忘れたらしい貴方に声をかけたのも、顔が好みだったからです」

 それまで攻めの姿勢だった雫が停滞したことを、先輩は目敏く見逃さないらしい。雫に肩を寄せ、体を密着させてきた。

「下心、ありありだったんですよ」
「あ、え、ただ、親切なイケメンだなぁとしか」

 思わなかったです、と雫が言いたいことを言い終える前に、先輩の手の甲が、雫の手の甲に触れる。と、毎度のことながら、静電気が二人の間に走った。

「……今日は煙草、吸わないんですか?」

 先輩の指が、雫の指をゆっくり絡めとる。指と指の間を撫でられると、息が上がってしまう。

「最近、吸わなくても、平気、なんです」
「そうですか」

 煙草を出して頂いても?と問われるので、雫は言われるがままに上着の内ポケットから煙草を取り出した。

「気になっていたんです。随分と男性が好みそうな煙草を吸っているなぁと。誰の影響で吸い始めたんですか」
「………………」
「言えないような相手ですか」
「も、元カレです」
「なるほど……」

 次の瞬間、雫の手から煙草が消えた。

「もう吸わないなら、私が代わりに吸っておきます。……なんて言いましたけど、私がそんなことを言う筋合いはないのですが」

 先輩は、名残惜しそうに雫から離れていってしまった。名残惜しかったのは雫も同じだ。

「先輩、その」
「はい?」
「……昨日、友人に言ったんです。粟田口先輩と付き合ってます、って」

 木々の葉も、地に降りきった。もうすぐ冬が来る頃の一幕。


***


 十月の誕生石。トルマリン。
 石言葉は「希望・潔白・寛大・忍耐」。
 無色、紫色、青色、緑色、黄色、褐色、赤色、ピンク、黒色など多彩な色合いがあり、別々の石と考えられたため、色により名前が付けられている。が、全てトルマリンである。
 熱すると電気を帯びるため、電気石とも呼ばれる。
 十月の誕生石には、他にオパール、ローズクォーツがある。




180328 執筆
190322 公開



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