文章 | ナノ


▼ 朽ち葉が落つる日、雲煙の昇る時@

※現代パロディ
※お題『秋』
※縛り『宝石』





 秋にもなれば風は冷たいが、今日は嬉しいことに晴れている。雲一つない晴天。絶好の運動会日和である。
 とはいうものの、彼女、川口雫が運動会に参加しているわけではない。彼女は見物人、つまりは運動会をしている子らの保護者の立ち位置。参加しているのは、雫の弟たちだ。
 雫は大学に通う年齢であり、合法でお酒も飲めれば煙草も吸える。末の弟とは十二歳離れており、末はまだ小学生で低学年。下から二番目は高学年。加えて、中学生の弟と高校生の弟もいる。雫、弟、弟、弟、弟で構成される、今時珍しい五人姉弟だった。お蔭で話のネタには事欠かない。なにせ一番下とは一回りも離れているのだ。このように大学生という身の上で小学校の敷居を跨ぎ運動会を見に行くことも、同年代の友人からすれば非日常だろう。少なくとも、彼女の周りに小学生の弟妹を持つ知り合いはいなかった。
 現在は昼食の時間。午前中の演目を終えた児童たちは、それぞれの家族の下へ集い、弁当を食べる。およそ一時間程設けられており、ぼちぼち半分は過ぎようというところだ。
 朝から場所を取り、そして弟の演目やら競技やらを見ていると、それだけで体力を消耗する。今はただ歩いているだけなのに、既に疲れがでている。雫は足が若干重く感じ、そして足の裏は痛みを訴えていた。
 家族とお弁当をつつきあい、少し経ち腹も満ちた雫は、「散歩に行ってくる」と断りを入れて、小学校の外をぶらぶら歩いていた。
 ――いや、その言葉は嘘だった。歩いていることに偽りはないが、ぶらぶら宛てもなく歩いているわけではない。目的地があった。雫は、その目的地を家族に言い出し辛いだけだ。
 上着の内ポケットに、人に見せたくないものを常に入れていた。ここならば、一見物が入っているかどうかもわからないからである。
 忘れずに持ってきているよな…?と、雫は手で外から触って確認すると、確かにその小さな箱は入っていた。


***


 彼女が煙草を吸いだしたきっかけは、当時の彼氏が吸っていたから、という変哲もない理由である。なお、その彼氏は今や彼氏と呼べる間柄ではない。もう数ヶ月も前の話だ。未練は無い。が、こうやって時たま煙草を吹かしたくはなるのは、もしかしたら完全に吹っ切れたわけではないのかもしれない、と雫は思っていた。
 元彼の置き土産だからなのか、まだ幼い弟がいるからなのか、身近に喫煙者がいないからなのか、ともかく、漠然とではあったが、雫は自分が煙草を吸っていると言い出せないでいる。家族にも、友人にも、だ。現状、彼女が喫煙者であることを、知る人は一人としていなかった。
 しかし、煙草の臭いは独特である。周りの人間に煙草の臭いが好ましくない者もいるかもしれない。あえて指摘しないだけで、雫が煙草の臭いを発していることから、気付いている人間もいるのではないか。言い出せないことを踏まえて、触れないようにしているのかも、と考えない場面が無いわけではなかった。


***


 小学校には、運動会など保護者の大人が学校を訪れる際に、体育館の裏、学校の敷地の最も端に喫煙所が設けられる。板で囲んだだけの野ざらし状態ではあるが、仕切らないよりかは幾分か機能するだろう。
 ただ煙草が吸いたいのならば、距離が近く行き来しやすいそこで吸えばいいのだが、生憎雫は、自分が吹かしているところを人に見られたくはない。なので、わざわざ別の場所を目指していた。嘘までついて。
 学校の正門を出て、ひたすら直進する。この辺りは昔から建つ戸建てが立ち並び、登下校の時間でもない限りは静かな場所だ。五分ほど歩けば、左手に広い公園が目に入る。
 砂場とジャングルジム、雫が小学生の頃には確かにあったブランコも、危険という理由からか撤去され、その骨組みがだけが残っている。遊具の数はお世辞にも多くなく、ただ砂が敷かれている面積だけが広い公園だ。
 その一角に、乳白色のガラスで仕切られた喫煙所がある。雫の目的地はここだ。彼女の顔見知りなどは恐らく小学校の喫煙所で済ますはず。運動会であれば、なおのことそちらに人が集中するだろう。ずさんな見込みではあったが、そこまでして彼女は今ニコチンを欲していた。朝から吸っていないためだ。
 乾いた砂をじゃりじゃり踏みながら喫煙所へ向かう。近付くにつれて、雫の視界へ不透明なガラス越しに人影を映した。わざわざ移動してきたというのに、これで知り合いないし顔見知りだったら意味がない。
 公園の端に置かれる喫煙所の横を、用が無いのに通り過ぎるというのは、少々不自然な行動ではあるが、背に腹は代えられなかった。人影が知り合いでなければ、そのまま喫煙所に入ればいいだけの話だ。雫は祈る心地で踏み出す。
 人が一人分通り抜けられる程度のガラスの隙間から視線を中に向ける。雫は安堵し、息を細く吐く。彼女の知らない人間だった。
 そう確信できたのは、虚空を見つめながら煙草を吹かす青年の顔が、彼女の目には整って見えたからだ。比較的細身な体躯に形の良い頭部、目鼻立ちに均整のあるこの青年がもし知り合いだったならば、忘れるということはないだろう。
 青年は、突然現れた人影に気付いたのか、雫と目があった。鼻筋が通っていて精悍な顔つきなのに、目が大きめなせいか可愛らしい印象を受ける。雫を見つめる呆け顔があまりにも綺麗に映るので、雫はつい見つめてしまった。
 雫はすぐにハッとする。失礼である。その後すぐに軽く会釈をし、喫煙所へと足を踏み入れた。彼も少し頭を下げながら短く「どうも」と声をかけてくれた。
 青年とは対角線上にあたる位置にて、雫は遂に目当ての煙草を取り出す。さぁ火をつけるぞ、というタイミングで思い出してしまった。そうだ。ライター、新しく買ったものをどこにしまったっけ……?
 指に挟んだ煙草を唇に預けて、上着のあらゆるポケット、ズボンのいたるポケット、隅々を探したのだが、探してる途中でもやもやとした記憶がはっきりしてきた。そういえば、この前買ったライターは鞄の内ポケットにしまってそのままだ。そうだ。コンビニに寄って、買って、袋に入れてもらうのは断って、シールだけ貼って貰って、鞄の内ポケットに入れた。
 あー、しまった。やってしまった。雫は落胆する。咥えた煙草を指に戻して、口をへの字に曲げてしまう。鞄を取りに行って帰ってきてもいいが、その頃には運動会のプログラムも再開してることだろう。昼一番の演目は、各組による応援合戦だ。所謂全員競技である。弟らの出番は見逃したくない。
 仕方ない。潔く諦めよう。ニコチンへの渇望を抑え込む他ない。また後でなニコチンくん、またしばらく接種できないよ。と、雫がパッケージに煙草を戻そうとした時だった。


「あの、使いますか?」
 イケメン青年が、こちらにライターを差し出していた。

「突然すみません。ライターを忘れてお困りなのかと」
「はえ、あ、はい。その通りです」

 突然イケメンに話しかけられて雫は動揺し、言葉が震えてしまう。イケメンとは縁遠く、耐性が無かった。

「どうぞ」
「……どうも」

 ありがたい。願ってもみない申し出だ。断る理由は無く、彼の手からライターを受け取ろうと指を伸ばす。そうして、彼と少し手が触れた瞬間、指先にバチリと瞬間的な衝撃が走った。静電気だ。

「あっと、すみません。痛かったですか?」

 雫は咄嗟に謝った。

「いえ、大丈夫ですよ」

 彼はそう言いながら優しく微笑んでいる。すごい。雫は感心する。物腰が柔らかいうえに見ず知らずの人間に気遣いも出来るイケメン。こんな人実在するのか。
 再度お礼を言いつつ、煙草に火をつけ、息を吸う。肺に煙が充満し、そして惜しむようにゆっくり吐く。徐々に頭にニコチンがまわっていく。あー、これですよこれ。耐えた甲斐があった。雫は満足気な表情を浮かべる。
 ライターを貸してくれた青年は、火を付けて即座に堪能しだした雫を急かすことなく待っていた。雫は、失礼だけは無いように、言葉と態度に感謝を込める。

「ありがとうございました。助かりました」

 片手に煙草をくゆらす状態では丁寧さの欠片も無いのだが、気持ちを態度で示すことが大事だろうと雫は深々とお辞儀をした。そうして、ライターを青年に返そうと差し出したのだが。
 また、静電気でバチッとしてしまうのも気が引けた。先程の記憶が雫の頭に浮かんだ。ライターを差し出す腕が、青年に届かない位置で止まってしまう。
 手を出していた青年も、雫が不自然に止まったことで動きを止めた。不思議そうに雫を見つめてくる。

「ああ、いや、その」

 雫はまたしどろもどろした。

「また静電気をバチッとしたら嫌だなぁと、思いまして…」

 青年は少し間を置いてから、「ふふ」と笑った。雫はその表情に気恥ずかしくなった。

「いえ、すみません。そうですね。もう秋ですから、静電気も起こりますよね」

 青年はツボに入ったのか、そもそものツボが浅いのか、しばらく笑っていた。流石、イケメンは笑ってもやはりイケメンだった。雫は、彼がどんな表情をしても絵になるのだろうな、と考えずにはいられなかった。
 青年がひとしきり笑い終えた後、口を開く。

「知ってますか。ライターの火をつけると、静電気が逃げるらしいですよ」
「え、そうなんですか? 初耳です」
「私も、最近弟から聞くまで知りませんでした。テレビで言っていたそうです。先程、貴方も火をつけましたし、今度は大丈夫なのでは?」

 青年は微笑みながら手を差し出してくれた。

「……はい」

 雫も、恐る恐るであるが、ライターを青年に渡す。彼の言った通り、静電気は逃げたのか、今度はバチリともしなかった。
 たかがライターを返すだけで静電気に怯え、雫はドキドキと鼓動が高鳴っていた。見ず知らずに人間を怒らすことに気が引けたのか、静電気の痛みが苦手だったからか、それとも。

「良かった。逃げてましたね、静電気」
「そうですね。良かったです」

 彼はまだ火が付いていたらしい、短くなった煙草を備え付けの灰皿押し付け、吸い殻を捨てる。左手首にまかれた時計を見つめ、ハッとした表情を作った。

「すみません。時間で動かないといけないので、失礼しますね」

 そうして、雫が何か言葉をかける前に、足早に喫煙所を出ていってしまった。
 雫の心臓はまだ休まらない。自分の吸っている煙草の臭いよりも、彼が吸っていた煙草の臭いが強烈に頭に残って離れなかった。


***


 雫が高校を卒業し大学へ進学し、大学の講義を受けて数年が経った現在思うことは、今までの学校生活よりも、より個人の授業の受け方が顕著に出る、ということだった。
 真面目に朝一の一限目の授業に遅刻せず出席し、ノートをとる。誰のためでもない、自分のためだ。雫はそう認識しているのだが、そう思う人間が全てではないようだ。
 講義開始から三十分が経った頃、申し訳なさそうに入室してくる女性がいた。彼女は、雫の姿を視界に捉えるやいなや、雫の元へ来て隣に座る。そして小声で「ごめん。ノート見せてもらえる?」と、遅刻してきたにしてはしっかりと化粧で飾られた唇で紡ぐのだ。
 彼女は、大学に入学した当初からの友人ではあるが、「いつもありがとね」とノートを見せる度に言われる常套句をきく度、別にあんたのためにノートとってるわけじゃないよ、と心内で答え、決して口には出さなかった。その代わりに「困ってたら放っておけないからね」と、二割程度の本心を口にする。
 ああ、今日も煙草が吸いたい。


***


 雫が通う大学にも喫煙所は勿論ある。が、生徒も教授陣も皆が使うような場所では勿論吸っていなかった。
 聞くところによると、雫が入学する数年前に建物の耐震工事を行うついでに、喫煙所としてスペースを新たに設けたという。大学敷地内の端にある、新喫煙所は、いつも誰かしらがいる。食堂の脇にあるため、日頃目にすることも多く、既にリサーチ済みだ。
 雫が利用するのは、専ら旧喫煙所である。こちらも新喫煙所と同じく大学敷地内の端にあるものの、食堂側とは間反対、あまり使われる機会に乏しい、大学内で最も古い建物である、所謂一号館の裏手にあった。
 二限を終え、食堂にて友人らと談笑し、そこそこの時間になれば席を立つ。今日の時間割は三限が開いてて四限に講義が入っている。談笑している友人らとは、お互いの時間割をそれとなく知っている仲だ。雫が早めに席を立ち、「四限の準備したいから先に行くね」と断りを入れたところで、誰も止めることは無い。勿論、その台詞は煙草を吸いに行くための口実なのだが。

「あーあ、三限は雫ちゃんいないから、遅れられないんだよねぇ」

 食堂の机上にミラーを置き化粧道具を散らかし、化粧を直しながらわざとらしく大きい声で言うのは、今日の一限にて、遅れてきたやつだ。

「はは。ノートぐらい誰でも書けるでしょ」

 内心では「甘ったれんなよ」という想いでいっぱいだが、そうは見えないように軽く笑いながら雫は言った。

「だってぇ、雫ちゃんのノートちょー見やすいんだもん」

 それは授業を聴きながら内容を理解してまとめているからだ。それなりの労力を払っているからだ。勝手に私の時間を盗むんじゃない。
 雫はそろそろ表情を取り繕うのが厳しくなってきたため、「はいはいありがと。そもそも遅刻しないでよ」と適当なことを言って、他の友人に「じゃあまたね」と声をかけてからその場を離れた。
 食堂から出る直前、とある席に人だかりができているのを視界の端に捉えた。気を紛らわす目的でその様子をうかがう。十人にも満たない人数だろうか、女の子たちがとある席を囲むようにしてきゃいきゃいお話をしている。察するに、その中心には人気者の男性でもいるのだろう。
 大学ともなれば同じ学年ですらどんな人がいるのか把握することは難しい。そんなイケメンがいるのならば是非お目にかかりたいものだとも思うが、そもそもイケメンにあまり耐性の無い雫にとっては、無縁の話だった。


***


 人気の少ない旧喫煙所に到着するや否や、雫は流れる動作で煙草を吹かす。
 今日は朝から何かと苛立ちが募った。主な原因は友人の一人である。そもそも、雫視点では彼女を友人としてカウントしてはいない。だが、集団で動くことが多いであろう女子の友人グループの中に、奴は気付けば紛れ込んでいて、いつもいた。
 雫は、長女として生まれ育った影響か、どうにも人を放っておくことが難しい性分だった。だから、頼まれごとをしたらよほどのことでなければ断らない。困っている友人がいたら、何か力になれれば、とすぐ手を差し伸ばす。雫にとって、それは取るに足らない行動だった。
 雫が大学に学び舎を移してから数ヶ月経った頃の出来事。とある講義にて、電車の遅延で遅刻せざるを得なかった女性が、たまたま雫の隣りの席に着いた。授業も中盤に差し掛かる場面で、頭から話を聞いていなければ内容を理解するのは難しいものだった。案の定、隣に座る子は黒板を観ても何が何やらのご様子で、目を白黒させている。雫は、放っておけなかった。考える間もなく「ノート見ますか?」と声をかけた。隣の彼女は眉をハの字にしながら申し訳なさそうに、でも「ありがとうございます」と一言を添えてノートを覗き込んできた。
 今でも仲良くしている友人との出会いだ。
 彼女の高校からの知り合いという友人が数人、この大学にも通っており、そこから雫の交友関係は広がった。友人の友人は、自分の友人だ。雫はそう思って、親切を繰り返してきた。
 その内、雫の存在は『親切な人』として少しだけ広まった。その結果、大して仲良くもない人間にまで、たかられるようになってしまったのだが。
 いつの間にか、吸っている煙草は短くなってしまった。喫煙所に訪れた際は一本の煙草で終える、という吸い過ぎないためのルールを設けていたのだが、どうにも、胸のわだかまりが溶けない。
 吸い殻を放るように灰皿に入れて、雫は空を見ながらしゃがみ込んだ。
 通気性の問題からか、喫煙所は外にある。秋も深まり冬が近づいてくるこの時期、日が照っている昼時でも風は冷たかった。身震いしてしまう。
 誰もいない喫煙所で呆けながら、雫の頭にふと小学校の運動会があった日のことが甦る。公園の喫煙所で出会ったお兄さん、かっこよかったな。
 地元の市立小学校の近くで出会ったのだから、同じ市内には住んでいるのだろうが、まさかまた会うこともあるまい。雫は、あまり見ることのできない景色のように捉え、良いものを見たなぁ、イケメンはやっぱり眼福だなぁと、口角を緩ませていた。

「何やら楽しそうですね」
「んぁ!?」

 雫は突然聞こえた人語に驚き、妙な音を発しながらその場に尻もちをついてしまった。脂肪たっぷりのお尻は何も守ってくれず、骨をコンクリートにぶつけてしまい、あまりの痛みに悶える。

「いったぁ…」
「ああ、すみません。突然声かけてしまったばかりに…」

 声の主は雫と目線を合わせるためにしゃがんでくれたのか、聞こえる声との距離が近い。「いえ、大丈夫です」と大丈夫ではないもののそう言おうと雫が顔を上げると、

「あれ、貴方は」
「公園ぶりですな」

 今さっき思い返していた、あの感じの良い青年が目の前にいた。嘘だぁ、と雫は痛みを瞬間にして忘れた。

 二度目の顔合わせにして、ようやくお互いが名を名乗った。彼は粟田口 一期という。話を聞いてると雫の一つ年上で一学年上にあたるのだが、何故か彼は敬語を解いてはくれなかった。曰く「癖のようなものです」とのことだ。
 まさか、と雫はただ驚いていた。地元で出会った人間と、通っている大学が同じだったのだ。世間は狭い。

「公園で会った時、まさか大学が一緒なんて思いませんでした」
「そうですね。私も、後輩だとは思わず……」

 粟田口先輩は、煙草を指で弄りながら、言葉を切った。雫には脈絡が無く感じたので、先輩の顔を見つめてしまう。いつ見ても顔が良い。

「……どうかなさいましたか?」

 雫が声をかけると、先輩はぎこちなく笑いながら、「いえ。少し自惚れていただけです」と言った。
 雫にはこの言葉の意味が全く分からなかった。


***


 粟田口先輩が『自惚れ』という言葉を使った意味が雫にもわかったのは、先輩と旧喫煙所で再会したその日の夕方だった。
 四限を終え、同じ講義を受けていた知り合いとも違う講義を受けていた知り合いとも落ちあい、雫は四名ほどで最寄り駅へと歩いていた。
 周りには同じく帰路に着く学生が目につく。雫らと同じく友人たちと並んで帰る者、ただ一人黙々と足早に歩く者、これから始まる五限へと向かうため、大学へ向かう者、様々だ。

「あ」

 雫は、友人たちとの会話の途中で、思い出す。厳密に言えば、何気なく上着の内ポケットを触った時に気付いた。煙草が無い。
 他のところにいれたのか、と記憶を手繰り寄せる。昼に旧喫煙所にて煙草を取り出し、その後どうしたのか。そして思い出した。そうだ。突然の来訪者に気を取られて、それが丁度思い返していた顔が好みの先輩だったことに驚き、握り締めていた箱を上着に戻した記憶がない。驚いた拍子に落としたか、その場に置いてしまったかのどちらかだ。

「雫ちゃん、どうかしたの?」

 友人らの中でも最もおっとりとした子が声をかけてくれた。

「ごめん。物を忘れた」
「えっ、大変、取りに戻るよね? 一緒に行こうか?」

 それは困る。雫は忘れた物を友人に見られたくはないのだ。

「大丈夫。今日は先帰ってて。また明日ね!」

 雫は強行突破をした。友人らの返答を聞かずに、歩いてきた道を逆走した。

 雫の目指す旧喫煙所は、校門から最も遠い。あまり遅くなるのも嫌だなぁと、いつもより早いペースで歩いた。もう五限も始まった頃だ。暗くなる時間帯でもあり、用が無い生徒は大学を出ている。人とすれ違うことは無かった。
 と思っていたのに。
 旧喫煙所が置かれる一号館裏手までの道のりは、建物と生垣の間をひたすら進む。塗装されていない地面を踏み、直線を進む。さぁ、この角を曲がれば突き当たりに旧喫煙所がある、と右折しようとした。
 のだが、人がいないはずなのに、雫の耳には人の声が聞こえた。距離があるのか、流石に何を話しているかまではわからない。声色から察して、どうやら女性の声だ。それも高めの。
 残念ながら、旧喫煙所へ至る道はここしかない。できれば人に会いたくないのが雫の気持ちだ。進んでも喫煙所しかないこの場所に、一体何をしにきたのか、雫は上手く説明できる気がしない。
 だが、それは今声を発している女性にも言えることなのでは? 喫煙所で煙草を吸うわけでもない。建物と生垣の間の細い道で、一体何をしているのか。
 雫は己の好奇心に負けてしまった。気配なぞ消そうとした経験は無かったが、出来る限り息を潜めて、建物の陰から先の道を伺うために、なるべく緩慢な動作で、決して音はたてないように、目だけを話し声の主に向けた。
 その先には、声の主である女性と、そしてその女性よりも幾分か背の高い男性がいた。しかし、雫は思わず目を見開いた。男女の距離感が無いに等しいからだ。
 建物に背をもたれさせる男性の腕の中には、嬉しそうに男性へと話しかける小柄な女性が。男性の腕は女性の身体にまわっており、女性も男性の首元に顔を寄せている。
 ハグだ。ハグしてる。しかもこんな人気のない場所で。二人きりで。不純だ。何する気なんだ。
 雫は、男性と触れ合った経験が無いわけではない。が、自分が触れ合うことと、他人が触れ合っているのを見てしまうことは、全くもって別問題だ。たかが体を寄せ合っているだけなのだが、雫の頬は赤みを引くことを知らない。
 これではどちらにせよ、煙草を取りに行くことは難しい、と頭を抱えた。仕方ない。また明日、講義が始まるよりも早く来よう。その時に彼らがまたいないことを祈った。
 盗み見してすみませんでしたーと、心にもない謝罪を咥内で済ませ、帰ろうかと踵を返した。

「もー、一期くんってば悪い人ー」

 その直後、女性が、今まで一番の声量で放った一言が、雫の耳にも入ったのだ。
 イチゴくんとは男性の名前かー。と、知りたくもない情報を得てげんなり仕掛けたのだが、雫は気付く。イチゴって名前は珍しくない? イントネーションを踏まえると、一期くんなのでは? 一期くんって、そんな珍しい名前、粟田口先輩の他にいるのか?
 もしかして、今そこにいるのって、粟田口先輩?
 雫は、その途端に、もう目を離してしまった角の向こうが今どうなっているのか、気になって仕方なくなってしまった。雫の視点では、粟田口一期と言う人間は、物腰が柔らかく細やかなことも察する好青年に見えている。そんな印象と崩さない丁寧な口調から、きっと真面目で常識的な人間だと思い込んでいた。が、現在目の前で繰り広げられている光景は、雫のイメージする粟田口先輩ではない。意外性からなのか、そもそも顔が好みなだけに気になっていたのか、むしろ両方の理由から、雫は再び物陰から顔を覗かせることをやめられなかった。
 それまでは全く会話の内容までは聞こえてこなかったというのに、聴きたいからと耳を傾けた途端に内容が聞こえてくるのだから、不思議だ。

「あまり二人きりになる機会が無かったので」
「我慢できなくなっちゃった?」
「……こんな私は嫌ですか?」

 なーーーんだその甘えた声色は。雫は突っ込まずにいられなかった。

「ううん。好き」

 女性はその直後、粟田口先輩に口づけた。
 雫の心臓は縮む。好奇心からとはいえ、恋人同士がいちゃつく場面を見るのは、多少なりとも罪悪感に襲われる。ただ、だからと言って、見るのを辞めはしないのだが。
 最初は軽い口づけだったが、だんだんとエスカレートしていった。お互いの唇を食み合い、そして舌が絡まりだした。女性の腕は粟田口先輩の頭へまわり、指通りの良さそうな髪をくしゃくしゃとかき上げる。一方、粟田口先輩の腕は、片腕は背中にまわるままだったが、利き手だけは女性の胸部へと伸ばし、どことは言わないが服の上からではわるがゆっくり丁寧にまさぐり始めた。
 野外だってんのに何やってんだよ。羞恥心を持てよ。雫は意味も無く目を薄めた。

「んっ、やだ一期くん、外だよ」
「すみません。久しく触れていなかったので、」

 粟田口先輩はそこで言葉をきり、随分といやらしい表情をしながら女性の耳元で何かを囁いた、らしい。雫の位置からでは勿論その囁きの内容までは聞こえなければ、本当に囁いたのかを知るすべは無い。
 女性の方は「もぉ……」と随分と嬉しそうな声を出しながら、また粟田口先輩の腕に抱かれに行くのだ。

「一期くん、いつも女の子に囲まれてるんだもん。あたし全然話しかけられない」
「すみません」
「ねぇ、やっぱり、私たちカレカノなんだよって周りに、」

 女性は言葉の途中で粟田口先輩に口をふさがれた。ドラマかよ。と雫は思ったが、流石見目が良いので粟田口先輩は絵になる。

「……こんな顔を見せるのも、あなただけですよ」
「ふふ。あんなに優等生で通ってるかっこいい一期くんが、結構えっちで隠れてこんなことしてるだなんて、みんな思わないよ」
「ええ。知ってるのは、あなただけです」
「もぉ」

 女性はまんざらでもなさそうだった。

 その後も、またキスが始まったので、いい加減に雫はその場を去った。
 まさか、あれだけ丁寧に映っていた粟田口先輩が、彼女と思われる女性と場所をわきまえずにいちゃつくなんてなぁ。それに、と雫はなおのこと顔をしかめた。成績良くて顔も整ってて物腰も柔らかくて基本人に優しくて、そう振舞ってるのに彼女の存在を隠すってのは、どういう意図だ? 周囲に黙って付き合うって、粟田口先輩に何の得があるのだろう。もしかして、実は何人も彼女がいて、それぞれに「お前だけだよ」と囁いて騙してる、女たらしなのか? それとも、女性人気があるから、特定の彼女を公表するとやっかみとかで彼女に被害が及ぶから、彼女を護るため……?
 その日の帰り、雫は延々と粟田口先輩の真意を空想した。勿論、どれも憶測の域を出ない。が、彼女の中の粟田口一期のイメージを覆す材料としては充分だった。
 そして、昼間に本人が『自惚れ』と言っていた理由についても察しがついた。雫が旧喫煙所へ向かうために食堂を出ようとしたあの時、複数人の女性に囲まれていたのは、他でもない粟田口先輩だったのだろう。恵まれたルックス、見た目にそぐわない好青年な性格、自惚れと言っていたが、それはもはや事実だ。
 粟田口先輩は、その見た目と性格から、自分自身が大学内で有名で、かつ女性人気があるという事実の自覚があるのだろう。だから、大学の外で大学の後輩にあたる雫と出会った時、雫が女性なのにも関わらず粟田口先輩のことを全く知りもしていなかったから、『自惚れ』という言葉を使ったのだ。
 相も変わらず、雫からしてみれば、雲の上の存在のような人間だった。


***


 翌日。雫の受ける講義は昼過ぎからだったが、昼前には大学へ訪れ、昨日取りに来られなかった煙草を探しに来た。
 もしなかったらならば、もったいないが新しいものを買おう。
 昨日は阻止された旧喫煙所へ続く道も、今日は無人であった。安心した。
 しかし、道と喫煙所仕切るベニヤ板でできた衝立の陰からは、煙が一本伸びていた。この寒空の下、先客がいるらしい。よっぽどの物好きか、訳ありなんだなぁと、雫は他人事に思いながら、衝立を越えた。

「あ」
「こんにちは。昨日ぶりですね」

 昨日の今日だというのに、そこにいたのは粟田口先輩だった。いや、少し考えればわかることだ。今まで雫がこの喫煙所を利用している時、人と出会ったことは無かった。しかし、昨日の昼に粟田口先輩がここに訪れた。自分以外の人間がここを使っている時は、粟田口先輩の可能性が高い。
 雫は非常に気まずい気持ちになった。つい昨日、粟田口先輩と彼女の濃厚なキスの現場を盗み見したばかりなのだ。煙草を拾ったら今日の一本を堪能しようかとも思ったが、粟田口先輩の目の前ではどんな顔をして吸っていたらいいのかわからない。

「あの、煙草の箱落ちてたりしませんでしたか?」

 早々に立ち去る態度を取りつつ、話ながら粟田口先輩の顔を見たが、昨日の様子が頭をちらついて、すぐに恥ずかしくなってしまい、すぐに顔を逸らした。

「ああ、ありましたよ。やはり貴方のものだったんですね」
「あ、拾ってくれたんですね。ありがとうございます」

 目の前に出された煙草を受け取るべく、雫の手は粟田口先輩の手に触れた。すると、指先に静電気が走った。痛みよりも衝撃が強いものの、雫は思わず「いっ」などと声を出した。

「ご、ごめんなさい。また静電気が」

 煙草を受け取りもできず、大袈裟に体を離し、平謝りをした。粟田口先輩の顔色を伺うと、また公園で出会った時のように、笑っていた。

「貴方はよっぽど帯電しやすいのですな。静電気に好かれているのかな?」

 なんだそれは、冗談なのか? 粟田口先輩の発言を量りかねていると、彼は懐からライターを取り出し、煙草と共に雫の眼前へと出した。

「どうぞ。またライター使ってください。……って、今日はご自身のライター持ってますか?」

 問いかけられては、答えないわけにはいかない。

「はい。すみませんありがとうございます」
「いえ」

 せっかく出したので、と煙草とライターを受け取った。これは、この場で吸うものだと思われている。雫は気まずい。だから一刻も早くこの女たぶらかし男の前から立ち去りたいのに、親切心を無下にもできなかった。観念して、煙草を取り出し、火をつける。お礼を言ってライターを返し、早くこの場を離れるため、不自然ではない程度に吸う速度を速めた。

「不躾ですが、昨日の夕方、こちらにいらっしゃいましたよね?」
「んっっっ!」

 雫は久々に、自分の煙草の煙でむせてしまった。

「厳密に言えば、こちらに辿り着く前に断念されたようですが」
「き、気付いてたんですか」
「私は。安心してください。もう一人は気付いていません」

 何に安心しろというのか。

「その……、盗み見したのは自分に非があるとは思いますが、屋外でああいうことをするのはどうかと…」
「ええ。私も同じ意見です」
「…………」

 何言ってんだこいつ、と雫は怪訝な表情を隠さずに粟田口先輩を凝視した。その表情は、まず普通。まるで世間話をするかのような涼しい顔で、口元に煙草を置いている。
「優等生、で名前が通ってるんじゃないんですか……」

「その方が都合が良いので」
「えぇ……」

 粟田口先輩の底は計り知れなかった。

「貴方も真面目に振舞っているならわかるでしょう? 普段、特に目立った悪さをしていなければ、隠れて何かをしていたところで、まず悪さをしていると思われないですからね」

 理屈はわかる。『まさか、あんなに良い子なのだから、嘘をついているわけない』と認識される経験は、雫にもあった。事実がどうであれ、だ。何より、今この場で煙草を吸っているのも、普段の行いが真面目だから、まさか煙草を吸っている、と考える余地すら与えていない。普段のイメージを逆手にとることで、雫は自身が喫煙者ではないと思わせているのだ。

「……そんな、貴方を知る人が聞いたら引っくり返ってしまうことを、数回顔を合わせた程度の人間に話していいんですか?」
「ええ。だって、貴方も、喫煙者であることを周りに知られたくはないのでしょう? だったら、ここでの出来事を周囲に言うことは、貴方が喫煙者であることを踏まえなければならない。なら、貴方はそれをできないはずだ」
「なんで私が喫煙者であることを隠していると思ったんですか?」

 そんなことを打ち明けた覚えはなかった。なんていったって、たかが数回顔を合わせただけの間柄だ。

「秋にこんな寒い場所で煙草を吸う人間なんて、物好きか訳ありぐらいでしょう? 違いますか?」
「……確かに」

 ぐうの音も出ない。彼の言い分は、紛れもなく今さっきの自分が考えていたことなのだから。
 雫は、いけしゃあしゃあと告げる粟田口先輩を見ながら、思う。この人は、見た目が良いからと言って、性格も非の打ち所がないわけではないのだ。自分の見た目が良いことを理解し、驕りではなく事実として武器にしている、存外狡猾な人なのだ。

「ん? 『貴方も』?」

 粟田口先輩は今、雫『も』喫煙者であることを隠している、と言った。ということは、

「粟田口先輩が煙草吸うって、みんな知らないんですか」
「ええ。知っているのは、あなただけです」

 昨日見た表情より、悪戯が成功して喜ぶ子供の表情をしていた。その表情を見た雫が思ったのは、やっぱり顔が好みだなぁ、と呑気なことだった。


***


 その日以来、雫が旧喫煙所へ向かうと粟田口先輩と遭遇したし、雫が旧喫煙所で煙草を吹かしていると粟田口先輩が訪れた。
 当初は、あまりにも食えないイメージがついてしまったために、関わりたくないオーラを雫が発していたのだが、煙草を吸いながら行う何気ない会話の中で、雫も不本意ながら粟田口先輩との交流が深まっていった。

 話を聞いていると、粟田口先輩も長男だそうだ。雫は「私弟四人いるんですよー」と、いつもの通り話のネタとして人数の多さに驚いてもらおうとしたのだが、粟田口先輩は「多いんですね。うちもたくさんいるので、親近感があります」と、まさか同意されてしまった。
 雫は、じゃあ一体何人いるんだ?と疑問が浮かび、聞いてみたのだが、何故か人数は濁されてしまった。
 しかし、末の子はまだ小学校低学年であるということは話してくれた。雫は合点がいった。小学校の運動会があったあの日、粟田口先輩も弟の雄姿を見に来ていたのだ。しかし、煙草を吸っていることは弟たちに知られたくはない。だから、学校から出てわざわざ公園の喫煙所にいたのだ。雫と全く同じ理由だった。

 自分との共通点を見つけた雫は、粟田口先輩に親近感を持った。同じ大人数の兄弟の長子。優等生として評価され、隠れて煙草を吸っていること。
 二人が通う大学が国立なのも、他の家庭よりも学費がかさむため、一番上が節約させようと気を効かせた結果だ。
 ここまでくると、なんとも他人の気がしなかった。

 大学の講義についても二人で話した。
 粟田口先輩は雫の一学年上なので、一年分多く授業を受けている。この先生は話が面白いが厳しい。この先生は評価が緩い。この先生は人間性がまずい。色々な零れ話を貰った。
 先輩は、教員免許を取るそうだ。資格を取るためにはその分専門的な講義を受けないとならないそうで、いつも忙しそうにしていた。
 教師を目指しているのか、と雫は何気なく聞いた。すると苦笑しながら「教員免許を取得していた方が、何かと役にたちそうなので」とだけ言い、話を逸らされてしまった。
 粟田口先輩は、自身のパーソナルな話になると、何かと話を逸らした。秘密主義なのかもしれない、と雫は思っていた。

 喫煙所で度々粟田口先輩と顔を合わせていると、雫は一つ気付いたことがあった。
 先輩の吸っている煙草の銘柄が、会う度に違うのだ。
 そういえば、粟田口先輩が煙草のパッケージを持っている姿を見たことが無かった。
 雫は気に入っている一つの銘柄しか口にしないのだが、粟田口先輩は何でも吸う人なのかもしれない。煙草であれば何でもいい、という人ももしかしたらいるのかも。
 一度気付いてしまうとどうにも気になってしまって、雫はまた質問をぶつけようとも思ったのだが、毎度はぐらかされて終わるので、結局思案するだけで口には出さなかった。

 ある日、雫は講義を取っていない空き時間に、ふと「あ、粟田口先輩に会いに行こう」と旧喫煙所を目指した。
 歩きながら、今日はアルバイト先での愚痴を聞いてもらおうか、などと考えていた。そして、はたと気付いたのだ。もしかして、自分、煙草を吸いに行くためでは無く、粟田口先輩に会うために喫煙所を訪ねてはいないか、と。
 自覚した瞬間、雫はとにかく恥ずかしくなった。特別意識した瞬間は無いと思っていたのだが、それこそ無意識だったのだ。確かに顔が好みではある。少し腹の知れない面もあるが、共通点が多いことで話は弾む。断片的ではあるが、何度も話す内に好感度は高くなってはいる。だからと言って、例えばこれ以上の関係を望むだとか、そういう色恋の発想をしたことは無かった。しかし、今、『色恋』というワードが言葉に浮かぶ時点でアウトなのでは? いやそもそも粟田口先輩には彼女が……と考えたことで雫は更に頭を悩ませた。いやいや彼女がいなかったらいいのか、と。彼女がいなかったら、と考えている時点でもう手遅れなのでは?と。
 そうこうパニックになっているうちに喫煙所へと到着した。
 来る前は話す内容すら決めてウキウキしていたのに、一気に先輩に会いたくなくなってしまった。
 しかし、いざ喫煙所の仕切りをくぐり、そこに先輩がいないことを確認すると、どっと残念な気持ちが溢れてくるのだ。
 雫は、煙草を吹かしながら気持ちを落ち着かせようと努めた。そもそも、先輩に彼女がいようがいまいが、自分のような真面目一辺倒で女性としての魅力に欠けた者が、先輩のような顔良し成績良しの人間に、魅力的な異性として想われることは無いのだ。
 あー、と雫はまた自覚を増やした。やはり自分は、粟田口先輩を魅力的な異性だと感じているのか。
 難しい顔をしながらあれこれ考えていたが、考えたところでどうしようもないことだった。いつの間にか煙草は短くなっていた。
 結局、その日は粟田口先輩は喫煙所に来なかった。

 それからは雫は、喫煙所にいない時でも、粟田口先輩の姿を探すようになった。
 先輩は教職の授業を取っているが、自分はとっていない。何より学部が違うので、あまり授業を同じくしている場面は無かった。
 やたらと遭遇率が高いのは昼時の食堂だった。雫が意識したのは勿論最近のことだったが、およそ毎日、食堂には粟田口先輩とそれを囲む女性らや彼の友人が昼食をとっている。
 雫は雫で友人らと過ごすことが多い。会話の合間にちらりと粟田口先輩の方を気にする頻度が増えた。友人からは、最近の雫はやたら上の空だ、と指摘されたが、最近バイトが忙しくて、と適当に誤魔化した。
 一度、食堂にて隣の机に座ったことがあった。雫は友人らと、彼は彼の友人と、行動をしていた時である。
 雫は勿論、先輩が隣の席にいることに気付いてはいた。が、今「先輩こんにちは」と会話をしたところで、何で知り合いなのかを友人らに聞かれるのは明白。授業がろくに被っていない現状で、知り合った経緯を説明するにも、その場で嘘をしたためることになる。随分とリスキーだ。
 もくもくと学食を口に運ぶことで早くその場を離れようとしていた。

「ねぇ、雫ちゃん雫ちゃん」

 カレーライスを頬張る雫の右隣から、腕を指でちょんちょん触るのは、遅刻魔の化粧ばっちり友人だ。
 ん?と雫が軽い相づちを受ければ、ばっちり友人は声を潜めて続ける。

「雫ちゃんの隣に男の子、かっこいいよね」

 雫の隣にいる男、つまり粟田口先輩である。
 やめろやめろ。実は知り合いなんだから気まずいってのに、聞こえてもおかしくない距離の小声とかほぼ意味無いし、私に彼の顔を見るように仕向けるんじゃない。雫は心で悲鳴を上げた。

「そうなんだ」
「ねぇ、雫ちゃん知らない? 一個上の粟田口先輩だよ」

 知ってます。

「いつも女の子たちが何人かいるみたいだけど、今日はお友達と一緒みたいだね」

 そうですね。
 雫は興味が無い振りをしながらも、心臓はひやひやと音を鳴らしている。
 というか、この女、だんだんと小声ではなくなってきている。隠す気ないだろ。どういう神経してるんだ?
 横目で粟田口先輩を見ようとしたが、雫の視野は広くなかった。一刻もこの場を離れたい一心でカレーを口に運ぶ。学食のカレーはそこそこ辛いので、ガツガツ口に含むと咥内が痛んだ。

「雫ちゃーん、聞いてる?」
「ごめんこの後急用あるんだ、もう行くね」

 ばっちり友人以外の子らには言葉もかけず、雫は完食したお皿を持ってその場を離れた。
 なんであんたは学年違うのに先輩のこと知ってんだよ、と妙に落ち着かない気持ちになった。
 もちろん急用などないのだが、煙草を吸いたくなったので、喫煙所へと向かう。

 喫煙所に着くと、まず鞄に入れていたお茶で口を冷やした。カレーの辛味がまだ痛んだからだ。
 喫煙所に来るまではあれだけ煙草を吸いたくて仕方がなかったというのに、いざ着いてみるとその気は失せた。自分以外いない空間だからか、狭い場所だからか、煙草を吸う場所だから来ただけで吸った気になったのか、その全てか。理由はわからない。
 数分経った頃だろうか。足音が聞こえた。この場に来る人間を雫は一人しか知らない。

「やはりここでしたか」
「どうも」

 粟田口先輩はいつも通りの調子で訪れた。そしていつもの通りに煙草を吸った。また銘柄が違った。雫は、その銘柄は女性人気が高いものだと記憶していた。
 そう認知した瞬間、雫は頭にカッときてしまったのだ。

「先輩は随分と女性にモテますよね。彼女、泣いてるんじゃないですか」

 攻撃的な声色だった。それを聞いた粟田口先輩は、突然怒りの感情を含んだ声に、勿論面を食らっていた。

「……何か、気に障ることをしましたか?」
「またはぐらかすんですね」

 雫の口は止まらなかった。

「まぁたかが世間話する関係ですし、私が言うのもお節介甚だしいでしょうけど、彼女いるのに不特定多数の女性と親しげにするのも、自分が彼女いるってことをわざと言わないのも、不誠実だと思います」

 この辺りで、先輩の顔が見れなくなった。

「こうやって、他に誰もいない空間で、曲がりなりにも異性である私と、二人きりで話すってのも、ほんと、本当に。彼女が、可哀想」

 雫は、優越感に浸っていたのだ。粟田口先輩には彼女がいる。しかし、彼女は先輩が喫煙者であることを知らない。腹の底で計算高く色々考えてることも、多分察してない。煙草を持つ指の形も、煙を吸いながら豪快に笑うとむせることも。
 彼女が知らないであろう先輩の姿ならたくさん知っている。大学内で、いや、この日本中でただ一人、粟田口先輩が喫煙者であることを知っているのは私だ。雫は、自分があまりにも独占欲を抱いていることに嫌悪した。彼女がいる男性に独占欲を抱くなど、どちらが不誠実と言うのか。
 雫が勢いだけで言葉をつむぎ、少しの沈黙が流れた。

「私は、自惚れてもいいんですか?」

 先輩の声はあまりにも小さくて、はっきりとは聞こえなかった。だから、自分の都合の良いように聞こえてしまったのかと思った。

「え?」

 雫が聞き返すと同時、先輩に腕を掴まれた。瞬間、また静電気がバチリと通ったが、心臓がうるさくて雫はそれどころじゃない。

「……彼女とは、先日別れました。彼女と会う時間よりも、こちらに来ていたので」

 貴方に、恋をしてしまったんです。と、雫の耳にそう届いた頃には、唇に吸ったことの無い煙草の味がした。
 雫は、この後自分がどうやってあの場を離れたのか、記憶になかった。今日は午後から講義もあったはずなのに、気付いたら電車に乗っていて、家へと帰ろうとしていた。
 少しは時間が経ったというのに、口の中は相変わらずカレーのスパイスで痛んだ。そして、やたらと甘い煙草の味もした。感じる味が支離滅裂で、すこぶる気分が悪い。
 電車の中だから勿論人目があるというのに、雫は頬に雫を流すことを止められなかった。
 咥内のように、気持ちもぐちゃぐちゃだった。



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