▼ 憂う
「先生、私とキスしようよ」
放課後に学校近所の過疎なコンビニで男友達とお喋りしてたら、気付けばすっかり暗くなっていた。友達とは別れて、さすがに家に帰ろうと学校最寄りの駅へと歩いていると、今朝も会った人が先にいることに気づいた。
舞 田先生は、今年度になって赴任して来たというのに、なんやかんやあって今年度いっぱいで学校を去るらしい。クラスの副担任で勿論英語の授業も受けているのに、期間限定1年しか彼の声を聴くことは叶わないのだ。
特に顔が好みだとか、性格が好きとか、そういうことは無かった。
だが、私はこの時とても舞田先生とキスがしたかった。
かわいい教え子のセクハラに、舞田先生は少し驚いた後、すぐにいつも調子へ戻った。ニコニコ笑顔だ。
彼はこの時、彼氏が悲しむから止めといた方がいいんじゃないかと言っていた。
おかしいんだ。この時、私に彼氏はいない。舞田先生は、私に彼氏がいると思っていた。
私は舞田先生に、彼氏はいないと伝えた。
すると、舞田先生は不思議そうに、じゃあこの時間まで一緒にいた男の子は彼氏じゃないのかと私に聞いてきた。
違うよ。友達だよ。私は答えた。
じゃあ、君は友達ともキスをするし、先生ともキスをしたがるんだね。と。言われて、心が冷えた。
なんで、さっき男友達とコンビニの裏でキスしていたことが舞田先生にはわかっているのだろう。
なんでと聞いても、舞田先生は笑みを深くするだけだった。
「Instep of age. かな?」
舞田先生は、自分の唇に指をあてながらまだ微笑んでいる。
「Do you have anyone in your mind?」
英語の先生だからって英語で聞かれても、わからない。授業中は別のことをしているし、勉強は退屈だ。英語なんて、聞き取りも苦手だった。
「わからないよ先生」
「……授業、boredな様子だもんね」
舞田先生はそうやって、日本語にも英語を混ぜるのだ。何を言っているのかわからない。
「先生、私とキスしたらまずいよね?」
「ん? そりゃあね」
「でも、先生、もうあと数か月で学校辞めちゃうんでしょ?」
「うん」
「だったら、別によくない?」
歩いてるからぶらぶらしてる先生の手を両手で握りしめた。
舞田先生は困った笑顔を見せてたけど、無理に振りほどこうとはしてこなかった。
「minoryに手は出せないよ。俺はadultだから」
大人だから子供に手は出せないって意味だろうか?
うん。確かに。舞田先生捕まっちゃうもんね。
「なら、私が大人になったら、舞田先生と、キスしてもいい?」
この時の舞田先生は、どんなことを考えてる表情なのか、わからなかった。
でも、両手で握ってた舞田先生の手は、強く私の手を握り返してきたのだ。
「素敵な大人の女性になったらね」
それに、と舞田先生は目を細めながら、声を潜めて続けた。
「俺は、好きな人とのkissがいいな」
学業に身を置いていると、学業との距離が近すぎるのか、その大切さを当時は気づけないものだ。と、社会に出てしばらく経つと実感する。遅すぎる。
高校時代、周りのせいにするのも情けない話だが、そこそこはっちゃっけた生徒が多かった影響を、私も大きく受けてしまった。勉強を頑張らないのが当たり前。外での軽い淫行も嗜みの一つ。大人の言うことには耳を貸さず、その日その時したいことを衝動的に消化するだけの日々だった。
思い返すと、顔から火が出そうだ。
特に、当時新任で赴任した、私たち生徒との年齢も近い英語の先生。
私はなんともまぁ恥ずかしいことこの上なく、先生にキスしようなどと口走ったのだ。勿論、先生は至極まともな大人の優しい先生だったので、それ以上は事なきを得たが、これ、相手間違えたらとっても大事になって大惨事だからね? そもそも、そんなセクハラまがいのことをするなという話である。
当時は、なんというか、将来の漠然とした不安感から、非行に奔っていたのだろう。なのに、先生たちは、そんな私たちにきちんと向き合ってくれていた。
現在私は、勉強を疎かにしたために進学も危ぶまれたものの、なんやかんやと定職についてなんとかやっている。人生何があるかわからない。
だが、やっぱり勉強はしたほうがいいと思う。知ってることは少ないより多いほうがいいという単純な話だ。
現に私は、今、ちょうど、ああ、学生の時にちゃんと勉強をしてくればよかった、と憂いているのだから。
昔から背が高かった。加えて、手足も短くなかった。高校生にもなれば、周りにも感化されて、そこそこのお洒落をし、都会を歩くことだって日常だった。
進路をどうしようか、悩んでいたそんな時期である。こんな仕事してみないか、といわゆるスカウトをされたのは。
最初はモデルの仕事から始まり、いつだったかのバラエティへの出演をきっかけに、最近はテレビでの仕事も増えた。いわゆる、マルチタレントというものだ。
自分自身、スタイル以外に何か特出して秀でた部分やテレビ受けするものがあるとは思っていない。が、どうにもお茶の間やら女子高生の間では人気らしく、最近はそこそこ名が売れてきた実感が湧いた。
何はともあれ、喜ばれているのならいいか、という心持ちである。
ただ、特出した良さも得意なことも無いために、出演する番組の種類は多岐に渡った。
主なものはトーク番組だったが、今回の出演は初のクイズ番組。しかも、小中学生が習うような、義務教育の範疇の、要は易しい問題を中心としたクイズを出題する番組だった。
つまり、答えられて当然、わからなければ馬鹿として笑いの的になってしまうということだ。
私は、学生の頃、本当に本気で勉強の意義を見いだせていなかったし、おかげ様で学はほぼ何にも皆無な自信がある。
自業自得と言えば言い返せないのだが、それでも、私を知らない人にまで馬鹿呼ばわりされるのは、なんとも悲しい。
自分で言うのも難だが、端麗な容姿持っておいて、義務教育の内容すらおぼつかないおバカちゃんだと判明したら、あまりにもおあつらえ向きである。
いやだ。いやだ。今まで勉強してこなかった自分が悪いのは認める。だが、世間様から馬鹿のレッテルを貼られるのは、なけなしの自尊心が許せなかった。
なので、付け焼刃ではあるが、クイズ番組収録直前の楽屋にて、急きょ書店で見繕った小学生向けのワークを必死こいて見ている。
これでクイズでの成績が上がるとは、到底思えない。
コンコン、と軽いノック音が聞こえたので、思考が現実に戻ってきた。
時計を確認すれば、そろそろ収録時間である。スタッフが呼びに来たか、もしくは他の出演者の方が挨拶にいらっしゃったか。
「はい!」
ドア越しでも聞こえるように、大きめの声で応答しつつ、ドア前へ移動し、ドアを開ける。
ドアの向こうにいた人物を認識して、目ん玉が飛び出る思いをした。
「Hello! ミス川口!」
そもそも、このクイズ番組というのは、いわゆる特番で、番組入れ替わりの時期に突発的に放送される、プレ放送というものだった。この収録がうまくいき、オンエアで好評だったあかつきには、見事新番組として放送が決定するのだ。
だから、私はこの番組の出演者を把握していなかったし、どんな方と共演するのかも、意識していなかった。何より、クイズに答えられなかったらどうしようという不安感から、台本もろくに確認していたなかったのだ。
結果、出演者の欄にまさかまさかの舞田先生がいらっしゃるとは思わず、そして挨拶をしに行くという礼儀すら頭からすっぽ抜けていたのだった。
もちろん、舞田先生のこと、もといS.E.Mのことは知っている。業界にいれば、元高校教師のアイドルユニットという突飛な存在は目についた。何より、その赴任先が母校であるならなおさら。
だが、今までの共演は一切なかった。だから、顔を合わせる機会もなかったし、そもそも、私のことなど、微塵も覚えていないと思っていた。
ところがどっこいこの状況。
目の前にはたいして身長も変わらない小柄な舞田先生のお姿が。
相変わらずの馴れ馴れしさ、いや、フレンドリーな立ち振る舞い。高校教師時代から変わらない。あの、舞田先生なのだ。
「お、久しぶりです先生。自分から挨拶に行かず、申し訳ありません」
声は震えた。
「No! No! 気にしてないよ。それより、ミス川口のことだから、Quizの難易度にWorryかと思って、様子を見にきたんだ!」
中、入ってもいいかい?と、上目遣い気味に微笑まれれば、頷くほかない。テレビなどで見かけていたこの人の性格だと、特に断りも入れずに入ってきそうだが、意外や意外、確認とるんだな、と驚きの表情を隠さずに「どうぞ」と招き入れた。
舞田先生は目敏い。思い返せば、昔からそうだ。私の表情の変化で、内心まで暴いてしまう。
案の定、舞田先生は「……Ladyの部屋だからね」と悪戯っぽく言った。
記憶の中と変わらない舞田先生のはずなのに、私はどうも心が忙しなかった。
「私のこと、ご存じだったんですね」
「そりゃあね! 元Studentだからね!」
先生は私の楽屋のテーブル上を見るや否や、「Oh!
Junior high schoolのWork! Nostalgic!」と、何故か楽しそうだ。相変わらず、彼の見えている世界はポジティブなようだ。
「英語じゃないんですけど」
「これでもStudyはそこそこしてきたからね。Mathematicsは得意じゃないけど、中学校の内容ぐらいならNo problem!」
あ、この人、様子を見に来たと見せかけて会話をしに来たかと思いきや、純粋に勉強教えに来たのか、と察したのはこの時だ。
親切というか人が良いというか。多少の接点しかなかった元教え子がどんな成績だったかを覚えていて、そのためにわざわざ訪ねて時間を割いてくれるというのだから、感謝も感心もしてしまう。
ニコニコと手招きをされ、私は舞田先生の隣に座った。……心なしか体が密着してる気もしないではないが、正直満更でもない。
あれ?そういえば、そろそろ収録始まる時間じゃないっけ?と気が付いたのは、舞田先生に中学レベルの社会を色々と説明されてた時だった。
流石に英語混じりでは、私のような馬鹿に内容を説明出来ないと思ったらしく、初めて見た気がする日本語オンリーの舞田先生だった。改めて、わかる言語で説明をされると、教えるの上手いなーという感想を抱かざる得ない。
そうしてぐんぐん集中力が上がり、熱中していたのが仇となった。今はあくまで収録の待機時間に過ぎないのだ。
「舞田先生! 時間! 大丈夫ですか!?」
机をガタリと揺らしながら慌てて立ち上がる私に対し、舞田先生はいつも通り微笑んでいるだけで落ち着いていた。
と、次の瞬間には舞田先生に腕を引かれ、私とこの人との距離は無くなった。
「ま、いた、先生? 何を……」
「まだ、alone with youなんだけど、ダメ?」
だから、英語はわからないと昔から言っているでしょ。
その思いで舞田先生の顔色を伺ったら、あまりにも、距離が近くてひっくり返そうになる。が、舞田先生の腕は、それを許さない。
「大人になったね、ってこと」
そうして、舞田先生は、私を黙らせたのだ。
171224 執筆