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▼ 山下次郎と元教え子ちゃん

 中学の時、小学生来の親友に彼氏ができた。彼女は吹奏楽部に入っていて、そこの先輩に当たる人に恋をして、告白をして、彼氏と彼女という間柄になった。
 彼女は、私と遊ぶことよりも彼氏と出かけることが増えた。私は、何となくいい気分はしなかった。親友が、まだ出会って2年そこらの男に盗られた気分だった。
 それ以来、恋愛に対して良いイメージはない。
 小学生の頃は常に一緒にいた彼女とは、特に何か決定的な喧嘩があったわけでもなかったのだが、だんだんと疎遠になった。そして、高校は別のところに進んだ。それ以降、連絡はとっていない。
 高校に入って、友達もできた。だが、友達の誰かに彼氏ができると、やはり一緒に過ごす時間は減った。やっぱり寂しかった。
 お前も好きな人ができたらわかるよ。友人の一人に言われた言葉だ。
 そう言われても、恋心なんて作ろうと思って芽生えるものじゃない。と私は思っている。仲の良いクラスメイトの男子は勿論いたが、彼らの誰かを恋愛対象として、異性として好きかと問われれば、決してLoveの好きとは程遠かった。
 一度、告白されたことがある。私は、その子のことを友達だと思っていたが、彼はそうじゃないらしい。「好きな人がいないなら、試しに俺と付き合おう」彼の気持ちを無下にするのも心苦しかったし、何より私を好いてくれることが嬉しかったので、私は彼とお付き合いすることにした。
 そうして数ヶ月、私は友達よりも彼と過ごす時間を優先した。男友達と二人で遊ぶ空間とは、やはり同性の友達と遊ぶこととは違った。手を繋いだ。抱きしめられた。唇を合わせた。体を交わらせた。数ヶ月の間に、私は彼と彼氏彼女の関係として、できる特別なことを一通り済ませた。その頃には、私の中で彼は他の友人とは違う、他の男友達とも違う、特別な存在になっていた。だが、同性の友達がから聞く『好きな相手』とは、気持ちが違うような気がした。好きというよりも、他の誰ともしたことのないことをした間柄だから特別、という気持ちの方が強かった。

 高校2年生の夏、私は化学の試験で赤点を出した。それまでそこそこの成績を保ってたのに、彼と過ごす時間が増えたことの弊害がやってきた。以前よりも試験勉強の時間を割かずにいたら、案の定、結果に支障が出た。
 よりにもよって、化学はその年の担任の教科なのだ。答案用紙を返される時の嫌な視線を未だに覚えている。
 定期試験で赤点を取った者は、休日に学校に訪れ、教科担任による補習を受ける通例だった。私は、休みを返上して、彼と過ごす時間も返上して、おべんきょーをしなければならなかった。

 赤点なんて、初めてとってしまった。あまり褒められた行為ではない。赤点常習の友人には「何でそんなこの世の終わりみたいな顔してるの」と笑われたが、いい気分がしないものに決まっている。私は絶対に赤点に慣れることは回避しようと思った。
 8月も真っ只中、夏休みの数日を返上して、私は化学室に通った。
 数人はいるはずの化学赤点保持者で、クソ真面目に通ったのは私一人だけだった。他の数名は、適当な理由をつけて欠席しているらしい。先生は困っていた。

「来てくれるだけマシっなもんよ……。テキトーにプリントやって、さっさと終わらせて帰っちゃおう。先生も川口だけなら気が楽だわ」

 担任でもある山下先生は、こう、何というか、教師特有の堅苦しさを全く持ってない先生だった。
 比較的ぼさぼさのヘアスタイル、クマの残る目、伸ばしっ放しの髭、よれよれの白衣……。この時はまだ20代だというのに、年齢以上のくたびれた雰囲気がある。お世辞にも、所謂「良い先生」とは呼べない。ガミガミと口うるさい先生のような嫌われ方はしていなかったが、だからと言って、この無気力を体現しているような山下先生は、好かれてもいなかった。

 補習とは言うものの、授業形式でガッツリお勉強をするわけでもない。数学の硲先生は、かなり真面目に補習授業を行うという話を聞いていたが、山下先生は違った。どうやら、担当の先生に内容はお任せらしい。
 山下先生のスタイルと言えば、試験範囲の単元に関連する、書式が様々な数種類のワークが印刷されたプリントを解き、それを提出するというものである。生徒に投げっぱなし。山下先生は、「わからないところあったら聞いてちょーだい」と、何やら机仕事をしながら生徒を監視するだけのようだ。…ゆるい。

 なんと、ケチ臭いことに、休みの日は電気代節約のために空調をつけてもらえない。つまり、窓から入る生暖かい風だけで我慢しろということだ。ご丁寧に制服を着こんで、好きでもない勉強をさせられる。拷問のようだ。
 ペンを握る手の横が、汗でプリントにくっつく。ワイシャツの下にはじんわりじんわりと汗がにじんで、気分も良くない。申し訳ないが、とても問題を解くことに集中できる環境ではなかった。きっと、この劣悪な環境でさせられるのも、補習という罰の一部なのだろう。二度とこんな思いをしたくなければ、赤点を取るな、と。

「あっついねー」

 私の心を読んだようなタイミングで、山下先生は小さく呟いた。

「ごめんね。先生もつけたいんだけど、親電源落とされてるから、つけられないの」
「はぁ……」

 先生も暑さに耐えかねてるけど、システムの都合上、気軽に付けられないということはわかった。
 どちらにせよ、自分一人しかいないのだから、自分がさっさと問題を解いて、プリントを提出して、帰ってしまえば、山下先生がここにいる理由もなくなるのだろう。早く終わらせる理由が増えて、私は集中しようと問題を読み込んだ。
 が、流石赤点を取るだけのことはある。終わりから数えた方が早い問題は、知らない単語が含まれていて、さっぱりわからなかった。気休め程度に持って来た科学の教科書の、該当ページを隅から隅まで、一見関係なさそうなコラムまで読んだものの、進展はなし。
 これは、わからない。先生も何やらお仕事をしているので、お手を煩わせるのもと思い、声をかけないでここまで自力に頑張ってきたが、そろそろ限界だ。机に噛り付いていた視線を、目の前の教卓をかじる山下先生に向けた。
 あれ、山下先生の恰好が、いつもの見慣れたものではない。いつも着ている白衣は、机の端にかけられていた。いつからその恰好になっていたのか。いつもは白衣の下にある柄物のシャツは、流石に暑いらしくて腕も肘辺りまで捲られていた。胸元も、ボタンは3つほど止まっていない。普段は見えない肌色が多過ぎた。
 特別凝視をするつもりはなかった。しかし、ワイシャツから覗く胸板が、唯一見たことのある同い年の彼氏のものとは、確実に違った。なんというか、男らしい。マッチョというほどではないが、胸筋の隆起がわかる。挙句、ネクタイは緩くあるだけで、形だけの産物だ。隠れていない鎖骨から伸びる首の筋、ぼこりと出た喉仏は、私の知ってるものとは雲泥の差。
どういうわけか、耳が熱くなった。ついでに頬も。いつの間にか生唾を飲み込み、そして山下先生が見られなくなってしまった。
 体の奥から熱い。気温が高くて暑いのとはわけが違った。対処法が、わからない。急に熱でも出たのだろうか。別に気分が悪いわけでもないのに、私は机に突っ伏した。突っ伏せずにはいられなかった。

「ん? ちょっと、どうした? 気分悪くした?」

 明らかに様子がおかしい私を目敏く察知した山下先生は、そう声をかけながらこちらに近付いているようだった。視界はドアップのプリントだったが、耳には先生の足音が聞こえる。
 やめて。よくわかんないけど、理由は不明だけど、今山下先生に近付かれたらまずい。そう思いながらも、今の顔も見られたくなくて、そのまま突っ伏すことしかできなかった。

「暑いから、熱中症? え、ほんと、大丈夫?」

 声色で、心配されていることがわかる。山下先生の声はすぐ横で聞こえた。
 あ、まずい。まずい。先生との距離が近いことを意識すると、尚更に体は火照った。挙句の果てには、心臓までドクドクと元気になる。わけが、わからない。

「だ、だいじょうぶです……」
「ホントに? 熱とかない?」

 と、急に首に人の温かみを感じた。山下先生が熱を量ろうと、私の首筋に手を当てたのだ。

「ひぅ」

 どこから出してるのかわからない声と共に、私はその衝撃で顔を上げた。
 流石に驚いたのか、咄嗟に手を放して私を凝視する山下先生が視界に入った時、あ、自分は今、まずいことをしたのだと悟った。

「ご、ごめん。急に触ったら、びっくりするか、あはは……」
「…………」

 熱い。先生に触られた箇所が、熱い。とにかく熱い。
 熱は伝染して、顔に膜を貼るかの如くに広がった。鏡を見なくてもわかる。今の私は、顔が真っ赤だ。
 場を濁すように笑った山下先生も、気まずそうに眼が泳いでいる。
 私の、この反応はなんだ? 急に触れられて驚き変な声を上げた。先生の顔を見て、胸が苦しくなった。先生の普段見えない肌を目の当たりにして、男らしさを感じた。遡って考えたら、何かがわかりそうな気がした。実際に、わかってしまった。突然降りて来た、私がこの瞬間から山下先生に抱いた感情の答えが。だが、わかってしまったことが、今は問題だった。
 体の熱を逃がす術がわからなくて、遂に頭が混乱の境地へ達する。
 私は咄嗟にプリントを掴んで先生に押し付けて、間もなく「今日は気分が悪いのでここまでで勘弁してください」と早口で告げ、とにかくバッグだけはひっ掴んで化学室を出た。
 一刻も早く、山下先生のことを考えない場所へ行きたかった。
 結局、この日は眠りに入る直前まで、山下先生の汗ばむ肌が脳裏にチラついていた。

 その日を境に、私は山下先生を視界に入れる度に、頭がおかしくなった。
 今まで感じたことのない、身体の熱。動悸。呼吸の乱れ。断言するまでもない。
 私は、山下先生に恋に落ちた。


***


 思い返せば、あれが初恋だ。なんともまぁ、青いことこの上ない。初々しい限りだ。
 そんな高校時代には終わりがやってきて、今では私も大学生。来年には就職活動も控え、周りの友人らは心が落ち着かない様子だ。私はと言えば、教員免許を取るために奔走し、今も一応教員を目指して奮闘している。所謂一般企業の就職を目指す友人たちとは、また心持ちが違った。
 お勉強にも精を出してはいるが、日々の小金はあればある分嬉しい。地元よりも、通う大学がある都内の方が時給が良いため、家からは幾分か離れるが、とある喫茶店のウエイターをしていた。大学の帰りや講義の空いている時間に、積極的にバイトのシフトを入れ、参考書や諸々の必要なものへ宛てている。
 都内の喫茶店とは言うものの、所謂有名チェーン店ではない。人通りの多い立地条件ではあるが、比較的物静かな個人経営のお店だ。知る人ぞ知る、隠れ家をコンセプトにしている。

 大通りから伸びる小道に面したビルに構えているため、気付いた人しか入らない。故に、客層は常連さんが多くを占めていた。
 私がここでバイトを始めたのも、自分がこのお店をたまたま見つけ、たまたま店長と仲良くなって、たまたま人手が足りていなかったからだ。偶然の巡り合わせってすごい。
 もう働いて2年以上になる。流石に毎日通っているわけではないが、それだけ働けば大体の常連さんの顔は覚えるものだ。
 中でも、とりわけよく接客をする方がいた。不思議と、私がバイトに入っていると、お店に来ることの多いお客さんだった。私がシフトに入る度に出会うということは、かなり不規則な時間で来店されているということ。
 都内ということもあり、大体の常連さんが仕事の合間をぬって利用することが多い。となると、おのずとお客さんによって来店される時間が決まってくるということだ。
 しかし、そのお客さんがお店を訪ねる時間はまちまちだ。午前中の時もあれば、昼過ぎ、午後、夕方、曜日も関係なしに様々な時間に現れる。いつもスーツをビシっと決めて、長めの髪を低いところで結び、シャンとしている、一見男性なのか女性なのかわからない、中性的な方だった。スーツを着ているから、深く考えずにサラリーマンだと思っていたのだが、サラリーマンは土日にスーツを着てわざわざ都内に現れないだろう。近所に住んでいる説も浮上したが、今度はスーツを着てバッチリの恰好で来ることの説明ができない。
 店長には「色々な人が利用するのだから、変な詮索はするな」とどやされたが、気になるもんは気になる。ただし、お客さん本人に「あなたは何者なんですか」と聞くのも不躾過ぎる。店員として、それは失礼極まりない。
 気になるが、しかし聞くわけにもいかず、疑問だけが浮かんでは消える状態が、数ヶ月続いたのだった。


***


 夏休みが近づく。大学生にとってそれは即ち、定期考査や課題レポート締め切りに追われるということだ。私も例外ではない。
 講義の空き時間を有効的に使い、一つ一つを倒していく。普段ならバイトのシフトを入れる時間も、店長に頭を下げて休みさせてもらっていた。それでも、少なくとも週一は入らないと、身体が鈍る。それだけの理由で、その日は入っていた。
 勿論、仕事は真面目にこなす。ただ、少し暇になると頭を過るのは課題のこと、試験勉強のこと。日程から考えて、今夜はあの講義の内容をまとめて……と頭の中は忙しない。
 あと数日。踏ん張れば長期休暇。好きなことし放題。それだけを心の支えに、頑張る。
 今日は、特に何も起こらず、平和にバイトが終わればいいな。家に帰っても安らげないので、ここであまり体力を使いたくないなぁ、と甘えたことを思っていた。しかし、そう上手くはいかなかった。

 その日何度目かのいらっしゃいませを言った時、私は目を疑った。
 不規則にお店を訪れる、性別不明職種不明の方が今日もいらっしゃった。……そこまではいい。特別なことでも何もない。
 この人が来店したことは驚きもしない。ただ、いつもと違ったのは、この人は数人を引き連れてお店に入ってきたことだった。
 男の人が三人。いつもなら、まぁ珍しく団体客だこと、で終わる。その三人の顔を、数年ぶりに見る事態でなければ。

「すみません。今日は多いんですけど……」
「構いませんよ。川口、水をお出ししな」
「は、はひ」
「何、その返事。今日上の空過ぎるよ、しゃきっとして」
「す、すいません……」

 最初は他人の空似かと思った。しかし、どう考えても本人たちだ。自分が彼らを毎日のように見ていた時と、服装はまるで違ったけれど、どう見ても本人。髪色、背格好、常連の謎のお客様の後ろで何やらお話しているその声、知ってる人たちのものだ。今、頭の中で浮かんでる三人に紛れもない。いや、厳密に言えば私の顔を知ってるはずなのは二人だけだが、私はその三人を知っている。
 いやまさか、なんで、ここで、再会するの。しかも、ピンポイントであの人と……!
 思い出補正でもこの際なんでもいいのだが、とにかく昔のことを思い出してしまい、心臓が暴れ出す。顔も赤みが増す。複雑な思いが交差して、できれば私の存在を認知して欲しくはなかった。
 だが、悲しいかな今は仕事中だ。逃げて隠れたい気持ちでいっぱいだったが、そうすることはできない。かなりきょどっているせいで、店長にも注意を受けてしまった。

 お客さんにお水をお出しするなんて、もう毎日何回も繰り返してきたことなのに、まるで頭に入っていないような感覚がした。それでも、身体にしみ込んだ動作は、私の頭を置いていけぼりにして、どんどん進んでいく。
 お盆にコップを乗せ、件の四人が座るテーブル席へと足を運ぶ。手が震えているのか、お盆は細かく揺れて、カタカタと微かな音を鳴らしていた。
 なるべく顔を見ないように……。相手は覚えていないかもしれないが、万が一にもばれてしまわないように……。いつもなら失礼過ぎてしたこともないが、今は保身が勝ってしまった。顔を不自然なまでにうつむかせて、お客さんの手先だけを見る。

「お冷でございます。注文が決まり次第、申しつけください……」

 ダメだ。声も震えた。いつもより音も小さい。接客したての新人さんのようだ。
 お水を持つ手が更に震える。視界に、忘れたくても忘れられないその人の手が映ったからだ。顔を見なくても、手を見ただけでその人だとわかってしまう。……未練がましい。何も始まってすらいなかったくせに。
 どんなに不格好でもいい。どんなに惨めでもいい。どんなにおかしい店員だと思われてもいい。後で聞かされるだろう、店長のお小言にだって耐える。だから、とにかく、私だとわからないでくれ。
 近年稀に見る切望加減。しかし、こういう時に限って叶わないものだ。

「あれ? もしかして、川口?」

 よにもよって、あなたが気付きますか……!
 相手が気付いてしまっては、隠しようがない。しらを切るのは難易度が高すぎた。
 観念して、顔を上げた。右手奥に座る、この中で最も長身の男。私の記憶よりも、少し老け、少し男前度が上がったような気がするその人を前に、心臓は平静じゃなかった。しかし、私は笑顔を努めた。

「お久しぶりです、山下先生」

 一体何の因果か。私が何をしたっていうんだ。
 私が卒業した次の年、何があったのか詳しい話まではわからなかったが、数学の硲先生と、その年に新任として学校にやってきたという英語の舞田先生と、山下先生は揃って先生を辞めた。そして、アイドルになった。
 今ではアイドル、そして何よりも自分の初恋の相手である山下先生が、紛れもない山下先生と、たまたま勤めていたバイト先で、たまたま入っていたシフトの時間に、再会したのだ。


***


「山下くんが請けもっていた川口くんか」
「はい」
「確か、大学を進学していたな?」
「はい」
「何を志望しているんだ?」
「えっと、一応教師に……」
「あっはは、ミスターはざま、二者面談みたい!」

 どうしてこうなったのか。
 私は今、四人席に座る彼らのテーブルに、所謂お誕生日席に座る形で会話をしていた。右手前に硲先生、左手前に舞田さんを受け、私はドギマギしながら適当な返答しかできていなかった。
 緊張で身体が固い。別に暑くもないのに色々な箇所から汗が噴き出る。目線は話し相手を見れずに、机上をさまよっていた。

 山下先生もとい他の二人が、教師をやめてアイドルになったという、まるで下手な嘘のような噂は卒業生たちの耳にも届いていた。それに、最近は彼らが所属するプロダクションがかなり活気づいてる様子で、テレビや雑誌などでも露出が増えた。
 私も、日々の生活で何気ない瞬間に、先生たちがテレビの中で歌って踊ったりバラエティーで活躍したりなどなどの姿を見かけることもあった。自分が恋した担任の先生が、テレビの向こうで活躍している。基本的に感情を表に出さない人だったが、自分が生徒として接している時とは、また違った表情をしていることはわかった。……それだけ山下先生を見ていたことの裏付けになってしまうが。
 高校を卒業して、もう数年が経った。確かに、私は山下先生を異性としてみていた時期がある。だが、飽くまで昔の話だ。当時のただただ相手を見ているだけの酸っぱい経験は、思い出になっている。だからと言って、こうして再会した時に、ああ初恋の人だなと、何も感じないわけがない。心臓が高鳴らないわけではない。
 加えて、今目の前にいる人たちは絶賛活躍中のアイドルなのだ。芸能の世界に疎くたって、自分と住む世界が違う認識はある。本来、こうして喫茶店で同じテーブルに腰かけて近況を報告するなど、あるわけないシチュエーション。

 私が山下先生の元教え子だということが発覚した後、私は尚更に挙動不審になった。
 記憶よりも男前になった恋い焦がれた時期もある相手を目の前にして。もう住む世界が変わってしまったと思っていた人を目の前にして。同じ空間に存在していることそのものが、私の緊張の種となってしまった。
 見かねた店長は、休憩時間と称して、彼らと話す時間をくれた。その結果、椅子に座ってお話をすることになっている。休憩時間と言うが、心も体も休まる気は一切しない。

「どう、大学。上手くいってる?」

 硲先生とは、当時数学を教えてもらうだけの間柄であり、私の存在は知っていても、細かい進路先については流石に把握していないようだ。私が卒業した次の年に学校へ赴任してきた舞田さんは、そもそも初対面である。
 唯一、私の進路先や、そこで何がしたいかを知っている山下先生は、質問攻めをする硲先生を遮る形で私に言葉をかけてきた。
 たった、それだけ。山下先生に言葉をかけられただけなのに、私の心臓は忙しない。
 アイスコーヒーの入ったグラスから伸びるストローを指で弄ぶ仕草に目を奪われながら、なるべく平然を装って震える声を誤魔化した。

「は、はい。大学で聴ける話は、刺激が多くて楽しいです」
「……そっか、よかった」

 山下先生は、ただはにかんだ。
 あれ、この先生、こんな柔らかい表情をする人だっただろうか。…いや、この人もきっと、大学に入って変化した私のように、アイドルになって色々と変わった部分があるのだろう。その変化は、テレビでの様子を見るだけでも感じていたことだったが、こうして顔を合わせて話すと、尚更に感じるものでもあった。

 この後、私は何故彼らがこのお店に来ているのかを尋ねた。
 すると、いつも来ていたスーツ姿の中性的なお方が、彼らのユニットのプロデューサーということらしい。役職名はプロデューサーだが、実際のお仕事はマネージャーに近いもだということも教えてもらった。
 なんでも、この近くに撮影スタジオがあり、空いた時間で休憩できるという理由で、プロデューサーさんが気に入ってくれたことが始まりだそうだ。立地条件や、店内の雰囲気から、物静かであまりお客さん同士が干渉することもなく、街中だというのに常連が多い環境なので、アイドルである彼らを連れて来ても、変な騒ぎにならないだろうというわけで、今回三人を連れてきたという。
 プロデューサーさんは、なるべく彼らがここに出入りしていることを口外しないで欲しい、と申し訳なさそうにおっしゃっていた。
 断る理由がない。きっと忙しく、周りの目も気になる彼らにとって、家以外でくつろげる場所をみつけるのは容易なことではないはずだ。店長も私も、誰かにこの話はしないと約束した。

 そして、彼らは帰っていった。
 お店を出る時、山下先生が私を振り返った。
 数十分話したお蔭で、変な緊張はほぐれていたので、つい「またいらしてくださいね」と笑いかけてしまった。山下先生は少し照れたように笑いながら「また来るよ」と言ってくれた。
 社交辞令かもしれない。しかし、純粋にその言葉は嬉しいものだ。
 心臓の震え方に、高校時代を思い出す。
 ああ、きっと、また私は、山下先生に恋をした。


***


 数日後、今度は山下先生だけでお店にいらした。
 変装のつもりなのか、目深に帽子を被り眼鏡も着けている。一瞬誰だかわからなかったが、大きい身長ともったいない猫背で判別するくらい、私には容易い。

 手が空いた時に少し話をした。
 例の撮影スタジオで、雑誌のグラビアを撮っていたらしい。話の流れで、どんなものを撮ったのか聞いたが、「まだ言っちゃいけない情報だから、教えられない」と言われた。なるほど、そういう業界のルールみたいなものもあるかと、私は感心してしまったら、その姿を見た山下先生は面白そうに笑っていた。

「え、そんなに馬鹿みたいでしたか私」
「んー? いや? ……へへ、卒業してから少し経つし、随分大人っぽくなってたから結構変わってるのかー?って思ってたけど、変わらないところもあって、おじさん安心しただけ」

 何故だか、山下先生は嬉しそうだ。

「そんな、私、大人っぽくなってますか?」
「そりゃあ高校生の時に比べたらねぇ。ヘアースタイルも変わってるし、化粧もしてるでしょ? それに……」

 山下先生の視線は、私を見ていた。顔から首、更にその下を目が泳いだ瞬間、急にパッと顔を逸らしてしまった。

「?」
「あー……、いや、うん。これ以上はセクハラっぽいからやめときマス」

 それ以上の言及は許さない、と言わんばかりに、山下先生はコーヒーを一気に煽って、小銭だけを置いて「また来るね〜」とお店を出て行ってしまった。
 空のカップの横に残された小銭は、金額より少し多かった。……次来た時に返さないと。

 ところで。と、呆けた頭で整理する。
 最後、山下先生は何て言っていた? 私にセクハラ? いやいやいや。
 仮にも元生徒にそんなこと、しかも体を見ながら、少し気まずそうに、言ったのかあの人は。
 自分自身、一体何照れているのかわからなかったが、顔に熱が集まった。山下先生のあの口ぶりでは、まるで私が元教え子としてではなく、一人の女性として見られてるようにも取れないだろうか? …いや、流石に、私の浮かれすぎた頭で行われた妄想の産物に過ぎないのか。いやでも、山下先生の口から、大人っぽいという発言、化粧に気付かれたこと、それは事実。だがしかし、生徒に対してどこか一線を張っていた山下先生が、元教え子とは言え、わざわざあんなことを言うだろうか? だけどもだけども、山下先生とは10歳近く離れていたはずだし、子供のような女の子を異性として見るだなんてそんな……。
 自分にとって都合の良い解釈と、現実を見ろと言う現実的な理性が、頭の中でぐるぐると、投げられたコインの裏表のように回る。思考の切り替わりの速さに、頭がパンクしそうだ。

 高校時代、彼氏がいながら山下先生への恋心を自覚してしまった私は、特別、山下先生に対して行動を起こすことはなかった。担任の先生として、苦手な科目の担当教師として、私は一生徒として妙に距離を縮めることもしなかった。むしろ、意識しないように、山下先生にばれない様に、極力遠ざかった。そうすることによって、自分の中に膨らむ気持ちを誤魔化してきた。
 間もなくして、彼氏から別れを告げられた。

「お前、俺のこと好きじゃねぇだろ」

 彼氏の声は寂しそうだった。
 私は否定も肯定もできずに黙っていたが、彼氏の察しは悪くなかった。それ以降、元彼氏は私とあまり話さなくなってしまった。以前から仲の良かった彼が、離れて行ってしまうことは純粋に寂しかったのだが、それを主張する権利は私にはない。
 その後の高校生活の中で、私は彼氏という関係の男の子をつくることはなかった。光栄なことに、告白をされたこともあった、だが、「好きな人がいるから」と言い断ってしまった。
 女友達に好きな人が誰か聞かれた時も「内緒」で通した。もしかしたら、何人かには気づかれていたかもしれない。でも、最後まで山下先生が好きなのかと指摘する子はいなかった。

 高校を卒業する時、この気持ちはさっぱり忘れようと思った。高校から離れてしまえば、私と山下先生との接点はなくなる。生徒と教師、その枠組みから外れてしまえば、私と山下先生の関係性は何もないのだ。
 初恋は実らない、というジンクスもよく聞くが、私の初恋はまさにその通りだ。いや、そもそも実らせるつもりがなかったのだから、むしろジンクスを守りに行ったと言うべきか。おかしな話である。
 大学に入ってからは、真新しいものにふれあい、刺激的なこともいくつもあって、恋だなんだと現を抜かしている暇は正直なかった。仲の良い男子学生もいるが、彼らとはれっきとした友達である。

 もう恋はしないなんて言わない。でも、また初恋と同じような、絶対に実らない恋はしないとは思っていた。身の丈に合わない、絶対に自分を異性として見ない相手に、もう二度と恋はしない、と。
 それなのに、どうして、山下先生は、また私の前に現れたのだろう。
 もう自分の中では終わっていた片想いだったはずのものは、前に会った時、そして今日会った時で確実に育った。なんだ、何も吹っ切れていないじゃないか。未だに山下先生のことが好きなんじゃないか。認めてしまえば簡単な話だった。

 山下先生は、何故、さっきあんなことを言ったのか。
 今これ以上考えると、もうこの後のバイトで使い物にならなくなること必須だったので、頭を空っぽにして接客に専念した。
 しかし、こういう時は空回りするものらしい。グダグダな失敗を連続したせいで、結局、店長に怒られてしまう。


***


 名目上は、受け取らずに帰ったお釣りを渡すことだ。決して、テレビじゃなくて目の前で素の山下先生が見たいというわけではない。
 そう思いながら、せっかく休みの時期が訪れたというのに、今日もバイトのシフトを増やしていた。結局、あれ以来山下先生は訪れていない。テレビで見かける機会が多いので、忙しくて来れないのだろう、多分。この前の「また来るね」こそが社交辞令で、もう来ないなんてことはないはずだ、多分。

 山下先生は一向に来なかったが、これまでに舞田さんだけ来たこともあったし、プロデューサーさんと硲先生が来たことはあった。

 舞田さんがいらっしゃったとき、仕事仲間なら山下先生に渡しそびれたお釣りを渡してもらえるだろうと、頼もうとしたのだが、「それはちゃんと雫ちゃんが渡さないとねっ☆」とウインクを飛ばされた。この人、ナチュラルに下の名前をちゃん付けしてきている。何故知ってるんだ下の名前。…この人は元教師だと聞いてるが、申し訳ないが今のところは納得していない。英語教師というのは、何となくわかるけども。
 何で私が渡さなければいけないのか。疑問はすぐに、舞田さんの口から解消されることになる。

「雫ちゃんって、ミスターやましたに be in love with……、でしょ?」

 待って、英語わからない。
 表情に出ていたのか、察しが良いらしい舞田さんはすぐに言い直してくれた。

「惚れてる、だろ?」
「っあ、えっと、あ」

 意味はわかったけど、言い直してくれなくて良かった。お蔭で体は跳ねた。その反応すらお見通しのように、人好きのするような舞田さんの笑顔が憎い。ファンに見せたら卒倒ものだろう。
 舞田さん、察しが良すぎる。いやでも、前のやりとりの挙動不審さを見ていれば、わかってしまうのかもしれない。え、嘘、ってことは、山下先生にもばれてしまっているのだろうか?
 不穏なドキドキが心臓を動かしていると、それすら把握してしまった舞田さんは、懲りずに話しかけてくれた。

「ミスターやましたは気付いてないんじゃない? Self-confidenceのない人だから」

 相変わらず何をおっしゃっているのかわからないが、しかし気付いていないというのなら、それは良かった。正直者の心臓は鼓動を通常に戻すのだった。

 「好きな人とは、なるべくTalkingしたいからさ!」と、舞田さんは陽気に言った。確かにそうだ。彼なりの粋な計らいに感謝した。
 しかし、その後何故か「ね、店長」と店長に同意を求めていた。店長は適当にあしらっていたが、舞田さんは親し気に何度も話しかけていた。
 舞田さんが帰った後、店長に「舞田さんとは以前から知り合いなんですか?」と自分の境遇とを重ねて聞いてみたのだが、顔をしかめるだけで何も教えてはくれなかった。
 私がバイトに入っていない時に、何かあったのだろうか、とまた店長に聞こうと思ったが、どうせにらまれるだけで何もわからないから、やめた。
 店長は、きりっとしていて同性が憧れる恰好の良い女性なのだが、それ故に怒ると怖いのだ。

 また別の日には、プロデューサーさんと硲先生がいらっしゃった。
 お二人で何やらをお話していたので、間に入るのも不躾だろうと、注文を聞く以外はお二人と会話をすることはなかった。
 この日は何故か、普段は中性的で以前までは性別もわからなかったプロデューサーさんが、不思議と女性らしく見えた。直接伝えでもしたら失礼極まりないので勿論口に出すことはなかったが、気になる。
 かと思えば、硲先生も、私が生徒の時に授業中に見ていた表情とも、テレビで拝見する表情とも違う。言葉にはしがたい違いだったが、なんというか、雰囲気が丸い印象を受けた。
 二人の談話の様子を見ていて、私は何かの既視感に気付く。以前も、この場で、このような様子を見かけたことがある。しかし、プロデューサーさんと硲先生が二人で訪れるのは、確実に今日が初めてのはず。ということは、過去に似た雰囲気の二人組を見たということになる。顔や雰囲気が似ているというより、二人の関係性や空気そのものが似ていた二人組…。手が空いた時に何気なく考えた結果、頭に浮かんだのは、ずばりカップルだった。
 はて、プロデューサーさんと硲さんの二人っきりの空気はカップルと似ているのか…。無粋な私は、これはもしかしてスキャンダラスなそういう関係が、アイドルの身近な女性とで交わされているのか? と考えてしまった。
 しかし、誰かに言うことほど無粋な極みだろう。真実かどうかわからないが、胸に留めておく。秘密の共有をしているようで、ドキドキした。


***


 あれ以来、山下先生は一度もお店に来ていなかった。

 そんな中、私はとあるCMを見かける。なんてことはない。家でくつろいでる時、たまたま見ていた番組内で放送されたCMだ。
 どこかの遊園地では、結婚式ができるんだという。ライトアップされた遊具に包まれ、ロマンチックな雰囲気の中、新郎が新婦に手を伸ばし、囁く。カメラアングルは主に新郎の表情を映し、女性へ向けている印象を与えた。
 なんてことはないCMだ。しかし、出演者に問題があった。
 新郎役をしている男性は、紛れもなくアイドルグループS.E.Mに所属する山下次郎。かなりの長身、しっかりしている体躯を、きっちり背筋を伸ばして新婦へと優しく微笑みかけている。差し出された手を取る新婦は頬染めているが、これがお芝居だけだとは思えない。明らかに、きまっている山下次郎に対して満更ではない様子だ。
 担任だった頃の、山下先生。アイドルの、山下次郎。少し前にお店に来てくれて、自然にお喋りをした、山下先生。私が今まで見たことのある山下先生とは、また異なった表情をしている。良い意味で。
 山下先生はイケメンではない。年の割に老けているし、どちらかと言えば地味な顔をしている。なのに、このCMの山下先生はどうだろうか。新婦を愛おしそうに、大切そうに、微笑む山下次郎は、どうみてもかっこいい。
 綺麗に整えられているわけではない髭も、むしろ大人っぽさと男らしさを兼ね揃えていて、所謂大人の魅力ってやつを最大限に引き出している。少し細められた瞳も、緩く上げられた口角も、全てが彼の男としての色気を表現していた。

 見た瞬間、私は奇行に走った。机に思い切り額を打ち付け、そのまま動けなくなった。……痛い。額がジンジンする。
 それ以上に、心臓が痛い。なんだあの素敵笑顔。なんだあの色っぽい仕草。なんだあの大人特有の色気。数秒しか見ていないはずの山下先生の姿が、頭にこびりついて離れない。
 ……将来、山下先生はどこかの綺麗な女性と、結婚するのだろうか。誰かにプロポーズをする時、あんなに素敵な笑みを浮かべて言うのだろうか。
 心臓の鼓動は、ドキドキからドクドクへ変化した。トキメキではなく、不安に変わった。
 彼女でもなんでもない自分が、山下先生にこんな感情を抱くのは間違っている。そんなことわかっている。たかが元教え子の小娘が、元教師現アイドルの山下先生に片思いをしているだけ。考えなくても状況は明らかだ。
 告白するつもりは、ない。相手は、アイドルという恋愛が御法度の立場にある。それだけではない。元教え子である私が、先生から異性として見られるとは到底思えないのだ。ただでさえ離れた歳の差と、女性として特別魅力的ではない顔つきと体。素敵な女性がより取り見取りな山下先生にとって、私を選ぶメリットは何もない。

 ああ駄目だ。ひどく感傷的になってしまう。
 突っ伏した瞳から、涙が流れる。滑稽な姿だ。
 山下先生は素敵だ。好きだ。恋をしている。あわよくば、自分を見て欲しい。
 欲望が尽きることはない。しかし、現実で叶えられる話ではない。

 CMを見かけてから数十分後、あんなにお店に顔を出して欲しかったのに、できればもう二度と来ないで欲しいという気持ちが膨らんだ。
 これだから、恋する女は面倒臭い。


***


 その翌日のことだ。
 結局あの後泣き続け、少しだけ目が腫れていた。適当なメイクでごましたものの、店長にはばれた。
 今日はなるべく常連さんには顔を見られたくないなぁ、と呑気なことを考えてるのもつかの間、今一番来てほしくなかった人が来店した。

「ホットコーヒー、くださいな」

 ふざけた口調で、私の立つ目の前のカウンター席に座った。山下先生は、どこか嬉しそうだった。
 私は、なるべく平静で返事を返し、準備をする。山下先生に顔を見られないように、必然と山下先生を見ないように立ち回った。

「どうぞ」

 バイト中にしこたまする動作。とちることもなく、無事に終えた。
 よし、これで山下先生と離れられる。そう思って、何か別の仕事がないかと店長に目配せをしたところ、「ん。今暇だし休憩していいよ」といらぬ気を使わてしまった。違う店長、いつもだったらちょっと嬉しそうな顔しちゃうかもしれないけど、今日は駄目です! 内心で叫ぶも、店長はニヤニヤしながら「泣き顔、慰めてもらいな」と、山下先生にされたら…と妄想するだけで悶絶するようなこと言って、仕事に没頭しにいった。

「ん? 川口、目腫れてる?」

 何故気付いてしまうのか。
 コーヒーを飲みながら、何気なく私らの会話を聞いていたらしい山下先生は、メイクの努力も虚しく、私の目元が腫れていることを指摘した。
 このまま露骨に避けたい気持ちでいっぱいだったが、存外傷つきやすい山下先生にそんなことしたら、可哀想なことこの上ない。大丈夫、余計なことを言わなければ、泣いた理由を話す必要もないし、変に勘ぐられることもないはずだ。私は意を結して、山下先生の隣りに座った。

「そういえば、昨日CM観ましたよ」

 山下先生の質問をぶつ切りにして、話題をすり替えた。

「CM? なんの?」
「あれです、先生が新郎の恰好して、」
「あーー、あれかぁ」

 半ば遮られる形で、山下先生は叫んだ。両手で顔を覆い、どう見ても恥ずかしそうにしている。「あーー」とか「うーー」とか言いながら体をくねらせる先生の耳は、徐々に赤くなっていった。

「はは、そんなに恥ずかしいんですか、あのCM」
「恥ずかしいでしょー。こんなおじさんが、あんなビシッと雰囲気で、あんな台詞……」
「でも、かっこよかったですよ」
「んーーー」

 教え子に見られるのが一番恥ずかしい……と小声で言う先生の姿は、いつもより小さい。
 CMの中では、そんなことおくびにも出さずに演じきっていた。いや、お仕事なのだから求められたお芝居をすることは当然のことだろうけども、山下先生がそんなことをできるなんて、すごい。純粋にすごいと思う。
 あまりにも、山下先生が悶絶を続けるので、私は半ば面白くなりながら、少し探りを入れた。

「山下先生は、彼女さんとかとああいう予定はないんですか?」

 飽くまで、世間話の体だ。至って自然な流れで、山下先生の女性の影がどうなっているのか知りたいだけ。
 もし、彼女がいるんだとしたら、こうやって私とお話していることも、あまり宜しいことではないかもしれない。自分は山下先生から見て女性ではないかもしれないけど、その彼女さんからしてみれば女に見えて、あらぬ誤解を受けてもらっては困る。我ながらあべこべ言ってるのはわかっている。
 山下先生は、私の問いかけに少し驚いていた。いや、驚いているように見えただけで、何故驚いたのかは、皆目見当がつかなかった。
 開いた目をすぐに戻し、視線を向こうにやった後、山下先生は困ったように苦笑していた。しながら「はは、そんな相手いたら、張り合いあったんだけどね」とこぼした。
 そうですか、と返しながら、内心じゃ嬉しい。いや、そもそも今の山下先生はアイドルなのだから、恋愛の類は御法度であり、聞くまでもなかったかも。
 ただ、嬉しがったところで、脈もなさそうなのだが。

「そういう川口は? 大学と言えば、出会いもたくさんあるんじゃない?」
「え、私ですか? ……いないですよ、彼氏」

 好きな人は、いる。今目の前に。

「ふーん、じゃ、好きな人は?」

 おい、何で聞くんだそういうこと……!
 初恋でもある好きな人に、好きな人はいるのか?と聞かれるこの状況。切り抜ける方法はわからない。頭が沸騰しそうだ。このままだんまりも不自然、かといって上手いこと誤魔化すのも難しい。だが、肯定すれば興味本位にもっと聞かれるかもしれない。ああ、どうしよう。

「……川口って、案外言えない人好きになったりするタイプ?」
「はぇっ、な、何でですかっ」

 当たっているのだから、否定はできない。

「その無言の百面相を見たら察するって。ま、これ以上聞くのも野暮ってもんか」
「…………」

 切り抜けることには切り抜けた。しかし、なんとも言えない後味の悪さ……。
 無言で山下先生をにらんだら、手をヒラヒラさせながらどことなく楽しそうにコーヒーをすすっていた。
 そういえば、この人は補習の時、化学室の備品であるビーカーでコーヒーを沸かして飲んでいたことがあった。「川口も飲む?」と、明らかにアウトなお誘いに私は勢いよく首を左右に振った。
 今、目の前の山下先生もコーヒーを飲んでいる。だが、その姿は高校時代に見ていたものとは全く違う姿だ。よれよれの白衣を着てボサっと佇んでいた山下先生は、今じゃ喫茶店で足を組みながらコーヒーを飲んでも、様になる。

「先生、変わりましたね」
「ん?」

 昨夜見た、CMでの山下先生の姿も、脳裏にチラついた。

「私の知ってる山下先生とは全然違うから、驚きました」
「……。まぁ、ね。一応この道に入ってから数年経ったし、多少は慣れたのよ、これでも」

 唐突な言葉だったが、山下先生の中で、例のCMの話だと解釈されたらしい。相変わらず照れ臭いのか、若干気まずそうに苦笑していた。

「……私の知ってる山下先生じゃないみたい」
「え?」

 つい、零れてしまった言葉に、私はついしまったという顔をしてしまう。
 しかし、もう言ってしまったからには遅い。いや、あの、なんちゃってって言ったら誤魔化しはきくだろうか。撤回しようと、口を開きかけるが、急に山下先生が真剣な表情になってしまうので、口は閉じてしまった。

「川口も、結構変わったでしょ? ……大人っぽくなっちゃってまぁ」
「……そう、なんでしょうか」
「そうそう。若者の成長は早いんだから、おじさんの言うことは信じなさい」

 なんで、そんなことを真剣な顔をして言うのだろうか。
 やけに照れ臭くて、先生の顔を見れなくなってしまった。
 すると、急に頭の上に温もりが乗る。何事がと思う前に、横目に山下先生が私の頭に手を伸ばしていることがわかった。な、に? 私、今、山下先生に頭ポンポンってされてるの、? ちょ、っと、ちょっと、待ってください、そんなこと、なんで、は?
 反射的に山下先生を見れば、頬杖をつきながら、何故か満足気に私を見ながら微笑んでいるのだ。まるで、昨日見たCMのように。新郎が新婦向けて笑いかけるように。
 顔に熱を集めるなっていう方が無茶難題だ。緊張のあまりに拳に力が入り、いっそぷるぷると震えていると、「顔、赤いぞ」とか言い出す。

「だ、誰のせいで赤くなってると思ってるんですか……!」
「はは、そりゃそうだ。ごめんね」

 謝る気がないこと丸わかりの謝罪だ。
 山下先生は何かに満足したのか、やっと私の頭から手を離した。いつの間にか飲み終わっていたらしいコーヒーの勘定をしたいのか、財布をとり出している。
 それを見ながら、一つ思い出した。

「あ、先生、この前お釣り貰わないで帰りましたよね?」
「えー、そうだっけ?」

 何故そこですっとぼける。
 私は席から立って、レジからお釣り分を返そうとしたのだが、レジに向かう前に腕をとられた。

「え、何で私止められてるんですか」
「いやぁ……、野暮だなぁって思って」
「はぁ?」

 意味が分からないこと仰る。一体何が野暮だって言うのか?
 訝し気な視線を山下先生に送っていると、先生は一度視線を逸らして何か思案する表情を見せた後、屈んで私との距離を詰めて来た。気付いた時には私の顔のすぐ近くに山下先生の顔があり、ぎょっとして後ろに退けようとしたが、腕を引っ張られて更に距離が詰められるだけで終わった。耳元に山下先生の息遣いを感じて、心臓が壊れそうだ。

「来る口実、なくさないで」

 山下先生は、私の耳に息を吹き込むようにそれだけ言って、またカウンターに値段よりも多めの小銭を置いて、店から出て行った。
 脳味噌に直接、山下先生の声を響かせられた心地だ。足の裏がゾワゾワして、もともに立っていられなくなった私は、顔を赤くしながらその場にしゃがみこむ。
 何故、先生が口実をつけてまでこの店に来てくれるのか。私とお話をしてくれるのか。私が大人になったと繰り返し言うのか。

 その理由を、私はまだ知らない。





160906
171206 誤字修正



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