▼ 一ノ瀬トキヤの本性
先日、塾で行われた模擬試験の結果が返ってきた。一言で言おう。惨敗だった。まだ高校二年生だというのに既に大学進学を考えさせられている日常、親からの見張るような視線にはほとほと息が詰まる。第一の志望校が判定Cという微妙なラインに立たされていることを両親に告げれば、これまた微妙な顔をされた。私達の娘なんだから、これくらいできるわ。頑張って。エリートな道をまっしぐらしてきた人生、それが私の両親だった。エリートな大学を出てエリートな会社に就職。そこで出会い結婚し私が生まれた。両親には確信があった。自分達の愛の結晶なのだからエリートの大学に入ることが当然、と。
勘違いも甚だしい。そもそも私は勉強が嫌いだ。いや、知識をつけることは好きだ。しかし日常に使うかもわからない細やかな数式や小難しい言い回しや英文法、そんな使わなければ何の役にも立たないもの、私にはいらない!
そう主張したところで、逆らえはしないんだ。
耳にタコが出来るほど言われた言葉。それはもう幼い日々から言われ続けたものでもある。一種の洗脳なのではないかと思ったときさえあった。
「お前は優秀な血をひいている。だからお前は優秀でありその道を進む権利がある」
威厳のある父の声は耳によく残った。
その模擬試験の結果を告げた時もそうだった。ソファーで新聞を開く父は耳タコをもう一度くれた。私は相当嫌な顔をしていたに違いない。父の顔は新聞に隠れていて見えなかったのが幸いだ。すると母も相手は娘だというのにえらく偽善ぶった態度で言う。ちょっと疲れてたのよね? 大丈夫。貴方ならできるわ。次を頑張りましょう。にこにこと笑いながら告げられた。私も、心底楽しそうに微笑み返す振りをした。
家は息が詰まる。両親からの純粋な期待も、最初から不快だったわけでは決してない。自分が頑張れば成果を出せば両親は心の底から喜んでくれた。幼心に、それはとても心地よかったのだ。しかし最近はどうもダメだ。反抗期なんてものもあったかどうかわからないまま高校二年生まできた。勉強することに、両親が良かれと思って導いてくれているこの道が、本当に幸せになる道なのだろうか。両親はこの道を歩いてきたお陰で今幸せを掴んでいるが、これは本当に私の幸せなのだろうか。一気にわからなくなってしまったのだ。
何故そうなったのか。思い当たる節はある。非常に高校生らしいものであると思う。
私は、クラスメイトの同じ委員会の男子に好意を抱いていた。
その日うっかりしていて所属ぬしている保険委員の集まりがあることを忘れていた。うっかりしていて、というよりは塾の模擬試験の結果が発表される日でありそれを受け取りに行くため急いでいたのが原因だ。帰りのショートホームルームが終わるや否や早々に荷物を入れておいて帰る準備ばっちりの鞄を肩に掛けて足早に教室を出ていってしまった。
特に何も考えることなく校門に差し掛かった時だ。背後から大きな声で苗字を呼ばれた。振り向けば、同じ委員会の一ノ瀬トキヤくんが、肩で息をしながらそこにいる。
「ん? どうかした?」
「今日の放課後、保健室で委員会の集まりがあることを忘れていたようなので」
そこまで聞いてハッとした。何をやっているんだ自分は。一気に顔が歪むのがわかる。
「ああああ! ごめん一ノ瀬くん! 私すっかり忘れてて、」
「いえ。幸いまだ時間もありますし、帰る前でよかった」
目を細めて口角を少しあげて、なんとも儚げに笑う。宜しかったら、この足で一緒に保健室まで行きましょう? と特に咎めることもせずに落ち着いてきた肩を翻し私を促してくれた。
同じクラスの一ノ瀬トキヤといえば、超がつくほどの優等生だ。頭が良く運動神経も素晴らしければ、真面目かと思えばある程度の冗談も通じ人当たりも朗らか。絵に描いたような高青年である。私も彼との接点は流れでなってしまった保険委員だけだが、月一の集まりで話をする度に思うことは彼はとんでもなくいいやつだということ。
モテにモテているこの完璧超人とまで言っても過言ではない彼は、ご覧の通り優しい。非があるのは確かに確実に私だというのに、それでもこんなに優しく接してくれる。端的に言えば、私は彼に恋していた。自覚がある。私はこの感情のお陰で、いくらか気持ちが楽になっているのだ。本当、一ノ瀬くん様様である。
「ところで、大丈夫ですか?」
「え? 何が?」
校舎の方へ足を戻しながら、唐突に一ノ瀬くんが心配した声色で聞いてきた。
「何か、思い悩んだ表情しているようですが……」
「ああ、えっとー……」
「……何かあるなら、相談くらいのりますよ?」
「……うん」
「では、集まりが終わったら早速お聞きしましょうか」
「うん。……うん!?」
ガバリと一ノ瀬くんを見れば、うん、いい笑顔。惚れ惚れするね。じゃなくて。
外にさらけ出すまいとしていた私の悩みをサラッと見抜いたばかりか、とてもナチュラルに誘導されて有無も聞かれる前に相談することになっている。天下の一ノ瀬トキヤさんに私にとって大きな、しかし世間様にとっては取るに足らない些細な悩み事を聞いて頂くためにお時間頂くとかもう、なんて、贅沢! じゃなくて。
「えっ、え? 悪いよ一ノ瀬くん、そんな、時間と暇を取らせちゃって!」
「すみません。迷惑でしたか?」
「あ、え、う、いや、そんなこと、ないけど、けどさ」
「いえ、迷惑でしたはっきりそう言ってください。いつも朗らかな貴方がそのように暗い表情をしていると、私の方が心配になってしまうだけなので」
う、わあああああああああなんだそれはああああああああああああああああ。
この男、なんて男。とんだたらしだ。しかも悪意のない天然もの。たち悪いよ。たち悪過ぎだよ一ノ瀬くん……!
こんなにもへりくだって出られたら断りにくい。そもそも察しがいいというか欲しいときに欲しいものをくれるらしい一ノ瀬くんクオリティの前に私の心臓は瀕死寸前だ。バクバクといつも以上に過剰労働してくれている心臓の手前、こんなにも親切にしてくれる彼の好意をむげにできない。というか、気になる一ノ瀬くんに気にかけてもらえてうはうはだ。
私は何にはむかうこともなく、少しだけ渋る表情を演出しながら小さく頷いて、よろしくおねがいします、とだけ言った。
この時の一ノ瀬くんの微笑みがしばらくの宝物だ。
委員会の会議中、それはもう私は浮かれていた。
会議の内容としては、毎月発行している保険関連のことのっけるプリントについてだ。これを生徒達で作らなければならない。なかなかに面倒な作業に思われがちだが、毎月毎月掲載する大まかな内容は決まってる。あとは生徒達がどうレイアウトしてどのような原稿や画像を載せるかだ。これも担当の者二名が作成する。担当ではない委員は保健の先生の話を聞くふりしてボーっとするだけ。
先々月は私たちがプリント作成班で、非常に頭を悩ませたのだが、それは私だけだったらしい。優秀な一ノ瀬くんのお陰ですんなり完成し先生からの評判も良かった。
ともかく、私は浮かれてクラスに伝えて欲しいという内容の半分も右から左へ聞き流して、この後まだ一ノ瀬くんと一緒にお話出来るという薔薇色のような空間を時間に想いを馳せていた。
そう。うまくは行かないものなのだ。
緊張の余り、トイレに行きたい。委員会終了20分前程からむずむずしだして、ちょっとこれ我慢ならないんだけど早く終われとただそればかりを考えていたら、いつの間にか委員会は終わっており、委員の半分くらいは既に教室から消えていた。早く帰りたい生徒が多かったんだろうな、と思う。いつもなら私もその一人だけど、今日は違うんだ。うふふ。
とはいうものの、早く駆け込みたい、トイレに。早くこの束縛から解き放たれたい、トイレで。
私は大きめの机の向かいに座る一ノ瀬くんに、ちょっと……と言葉を濁しながら、
「すぐ戻ってくるから、待っててもらえる?」
と自分の中で最高に懇願するような声色を出して、今思えば猫頭過ぎなそれに鳥肌ものだけど、ともかくじぃと一ノ瀬くんの顔を見てみた。やだもう、イケメンかっこいい。
すると、一ノ瀬くんは少し驚くような、そうでないような微妙な表情をしてから、いつものように綺麗に微笑んだ。
「では、ここで待っていても教室を閉められなくて先生も困ってしまうでしょうし、取り敢えず保健室で待っています」
保健の先生がこの後しばらくは委員会業務で残っているから、その配慮だろう。当然先生が残っていれば防犯のために教室を閉める時間も遅くなる。そこに集まっていれば、見回り教師に急かされることもない。相談事自体は帰り道にでも話せば先生に聞かれることもないだろう。
この一瞬でそこまで考えてしまう一ノ瀬くん、流石だ。
「うん。じゃああとでね!」
一応笑顔で応えたけど、正直そろそろ限界。机の上に雑に置いてある鞄を掴んで少し駆け足で教室の出口を目指す。
不意に振り返った時に見えた一ノ瀬くんの眼差しは、どこか光っていた。
しまった、紙がないトイレットペーパーがない。と無駄に時間を喰ってしまった。よく見ておけよ自分、と手を洗いながら鏡を見る。……これから一ノ瀬くんと二人きりでお話するんだよなぁ。化粧っけのない、地味な顔付きをじっと見る。いやいや、今更気にしたってどうしようもないし。もう顔見られてるし。ありのままの自分を見せて、それを受け入れて貰えないと困るし。
いい表情ができますように、と顔をもみくちゃマッサージをする。紙事件のお陰で不自然に時間が経ってしまっているから、今更時間を気にしたところで大差はないだろう。因みに、どうやって凌いだのか。そこはご察し頂きたい。
トイレの扉を開けた時点で既に心臓はドッキドキだ。トイレに行くことによって、一度一ノ瀬くんと離れてしまったために、自分の中で無駄にハードルが上がってしまった感が否めない。前に出す足取りは軽いんだか重いんだか、わからない。楽しみなはずなのに、嬉しすぎて少しおっかないのかもしれない。
使っていたトイレから、保健室までそう遠くない。同じ一階だ。ほら、悩む間もなく着いた。
いやいや、何を悩むと言うのか。いつも通り、ただお待たせ!と明るく言えばいい。そして実のないやり取りをしてから、タイミングを計って悩んでいることを打ち明ければいい。でも、こんな個人的な家の、両親とのトラブルのことを関係の無い、私とはただのクラスメイトな一ノ瀬くんに話してどうするんだろう。けど、一ノ瀬くんはそれでもいいから、私に笑って欲しいから打ち明けてくれと、ぜひ聞かせてくれ、と言ってくれたんだ。
いくつものでも、や、けどがぐるぐると回る。保健室の扉前まで来て、今更何を悩んでいるんだ。というか、何で悩んでいるんだ。アホか。
もう知らない。どうにでもなれ。自分の中で勝手に誇大させて勝手に悩んで勝手に解決して、私は保健室の扉に要約手をかけた。すっかりノックのことを忘れていた。
ガラガラと、引き戸を開けると、手前にある大きめの机には誰もいなかったし、先生の机には先生の姿も見えなかった。
はて、さて? 少なくとも一ノ瀬くんと先生はいるだろうと思ってたのに、なんでいないの? どこかに出てるのか。それとも、一ノ瀬くんは私が遅過ぎたから帰っちゃった? いやいや、後者なら先生もいないのは何かおかしい。
そう。なんかおかしい感じがする。曖昧に不思議に女の勘が何かを言いたげにしているのはわかったが、その先の肝心な何かはわからなかった。取り敢えず、扉の前で立ち尽くしていても仕方がない。気の抜けた失礼しますの一言と共に扉を閉め、手前の大きな机の椅子に腰掛けて、机には鞄を置いた。
自分以外誰もいないので、当たり前だが保健室は静かだ。と、思っていたが、そうではなかった。
一定のリズムを刻んで、何かが軋む音がする。
はて、何だこの音は。キシリ、キシリ、と固めの何かに無理やり力がかかって形を変えんばかりの時になる音。最初は気のせいかな?と思っていたが、耳をたてればたてるほどその音はリアルになっていた。身近に、常に聞いている機会音では決してない。
ふと、合わせて人の漏らす声が聞こえた気がした。
いやいや、あのあの、そりゃあ、ね? 私だって高校生なわけですよ。性の話題に敏感な世代なわけですよ。漏れる声と軋む音、なんて、ほら、想像しちゃうじゃん?
とまぁここまでは私もまさかまさかって思っていたが、よくよく考えればここは保健室だ。机の奥にあるベッドに目を向ければ、ああ、2つあるうちの1つにカーテンがかかっている。……決定的だ。
鳴りやまないベッドだと判明した軋む音が、途端に生々しく聞こえてきてしまう。このカーテン1枚隔てた先で男女が営んでいる。心臓が若さに正直に騒ぎ出す。生憎、彼氏なんてものがいなかった私にそんな経験はない。想像上のそれを、今同じ空間の中でしでかされていると思うと、なんとも込み上げる熱いものがある。許して欲しい。まず最初にモラルを問えよ、と思わない気もないけど、それよりも気になってしまう。許して欲しい。
深呼吸して体を冷やす。そこでようやく、ここに来た理由諸々を頭によみがえらせた。そうだ。一ノ瀬くんは?
いやまさか、え? その先に一ノ瀬くん? え?
確かに一緒にいると想像していた保健室の先生は女性であり、憧れの一ノ瀬くんは今私の視界の中にはいない。保健室の先生もだ。そして、意味深に軋むベッドの音。これ以上先のことを想像するのも難くないだろう。
待って。なんで。なんで。
一ノ瀬くんはクラスの優等生だったはずだ。人当たりも良くて勉強面も優秀で運動もピカイチで。女子の憧れの的だったじゃないか。一ノ瀬くんに焦がれる女子だって多かったはず。告白に呼び出されたなんて話しょっちゅう耳にしていた。私にとって高嶺の花だと自ら話しかけに行くだとか接点を持とうと努力する行動はしなかった。待って。じゃあなんで、そんなにモテるはずの一ノ瀬くんは、特定の彼女というポジションの女の子がいるという話を聞かなかったのだろうか。今まで、一度も、だ。流石におかしいんじゃないか? だって、あの一ノ瀬くんだぞ。なんで。なんでだ。
不安げに加速していく心臓に合わせて、軋む音も速まっている気がする。さっきまでの期待に高鳴る心音ではない。身近過ぎて気付けなかった、しかし気付いてしまえば簡単な、今まで見えていた本当だと本物だと思い込んでいたものがまやかしだと思い知らされてしまった、この、感覚は。
「…………っ、あぁ、ああああ……」
変な汗が吹き出る中、女のあられもない声が届く。ひどく癪に障った。
しばらく、私の心音と激しい呼吸の音しか聞こえない。私の脳みそは真実に辿りついた途端、オーバーヒートしたかのように何も考えられなくなった。あのカーテンの先に誰がいるのか。何をしているのか。一ノ瀬くんと保健室の先生はどこに消えたのか。私がトイレに行く前、見ていたその二人は、私の目ではもう見ることはできない。
カーテンがシャ、と乾いた音鳴らしその中の様子が放たれる。なんだか、形容し難い臭いが鼻についた。
「おや、川口さん。見てしまったんですね」
その先にいた一ノ瀬トキヤに酷く似た人物は、楽しそうに唇を歪め口角をあげながら、私をみた。
「白々しいよ。入ってきたの気付いてたでしょ」
「バレていますか。まぁそうでしょうね。あなたの脳みそは出来がいい」
だらしなく緩む下半身の衣服は、局部は見えないもののついさっきまで何を致していたのか察するには充分だ。ベルトを絞めながら近付く男は私の座る真正面に腰かけた。
「さて、悩み相談でしたか」
「…この状態で? 嘘でしょどんな神経してるの」
「塾の模擬テストの結果が振るわなかった、と」
「ちょっと、聞いてるの?」
「親の視線が痛いんですね。あなたも苦労してらっしゃるようで…」
「ねぇ! 無視しないでよ!!」
余裕そうに腕を組みながら淡々と言葉を紡ぐこの男。ほとほと腹が立つ。思い切り机を叩いて立ち上がったら、掌はジクジクと痛んだ。
「あなたは私が好きなのでしょう?」
その言葉だけ、やたらクリアに聞こえたのは、やはり自分の心には嘘がつけないからだろうか?
うん。好きだよ。完璧に見える一ノ瀬くんが気になってた。その裏で苦悩しているのだと思ったら堪らなかった。もし、叶うなら、微力ながらにあなたの力になりたかった。
「私の好きな人は、保健室で先生とセックスなんてしない」
「おや、随分文学的なことをおっしゃるのですね? 流石、優等生なことあります」
「茶化さないでよ」
「しかし、私に恋焦がれていたことは、否定しないのですね」
言い返せなかった。目の前の彼は、大好きな一ノ瀬くんと同じ顔で笑う。しかし、私はこんな表情の一ノ瀬くんを知らない。穏やかに口元をあげ、しかしほのかに獰猛な雰囲気を隠しきれていないその笑みを、だ。
私の知ってる一ノ瀬くんは、そう、こんなにも、色気を放っていない。人として、男性として、ひと皮むけた。そんな彼は、どうしようもない抗えない色香を武器にしているとまで思ってしまう。保健の先生も、その色気にあてられたのかと、そう考えれば今まで致していたことにも納得出来るような気がした。
「どっちが本当の一ノ瀬くんなの?」
私の問いに、彼は表情を崩さなかった。
「さぁ? 忘れてしまいました」
何でだろう。相も変わらず目を細めて笑う割にギラギラしたものを魅せてくるその表情に、引き込まれそうになるのは。
「でも、…そうですね。少なくとも、」
ガタリと腰を上げてこちらに顔を近付ける。私の体は、ビクリと驚くこともなく息をするようにその行動を受け入れた。
「あなたは、私を見つけることができた」
140221