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恐らく僕には、人の感情を理解する能力が欠如しているんでしょう。
『貴方には大切な物なんて何一つないじゃない』
どうやら夢を見ているようです。
20年ほど前に死んだ人間が目の前に居るというあり得ない状況に顎に手を当てる。
憎々しげな表情を浮かべた○○は僕を睨み、罵り続ける。
それがどうかしましたか?
僕は元から貴方のことを何とも思っていなかったのですよ。
○○の手が首に伸び、力一杯締め付けられる感覚に、夢の中でも息苦しくなるのかと妙なところに感心してしまう。
『私は貴方を愛していたのに』
『だって私は貴方の――』
「お客さん来たっつってんでしょーが!!」
怒鳴り声と共に鳩尾に感じる衝撃に息が詰まる。
「・・・クラリネ?」
力の限り鳩尾に落とされた本を机に戻し同居人の名前を呼ぶと彼女はひっ、と息を呑む。
怯えるくらいならやらなければ良い物を・・・。
「それで、どなたがいらしてるんですか」
「見たこと無い人。薬欲しいって」
その物言いにあまり喜ばしい来客では無いことを察する。
目で合図するとクラリネは小さく頷き常に持ち歩いている小刀に軽く触れる。
応接間へと向かい、そこに居る予想外の来客に眉を寄せる。
「やあ、久しぶりだなぁ・・・『エレクト』?」
「お久しぶりですね。10年になりますか?」
僕の背後でクラリネが微かに反応したのが分かるがそれはあえて無視をする。
「それで、ご用件は薬をお伺いしましたが」
「そんなことはどうでもいいだろう?」
彼は苛立たしげにそう言い放つ。
・・・確かに、僕が10年前にしたことを思えば友好的になど到底不可能なわけですが。
「そうですか。それでしたら・・・出て行ってください。ここは僕の病院です」
今朝の夢といい、突然の来客といい。
そろそろ本気で年なんでしょうか。
それとも、今まで欠如していたものを取り戻せとでも言うのでしょうか。
「貴様・・・!」
「エレクト!!」
クラリネの悲鳴のような声。
大ぶりなナイフが視界の端で光って、消える。
「うわ・・・エグ・・・」
「そんなに引いた声を出さないで下さい」
彼がナイフを振り下ろすよりも、僕が彼に毒を塗ったナイフを投げる方が速かった。
それだけじゃないですか。
即効性の毒は既に回りきっているのか彼は肩で息をしている。
「うっわ、しかもこれかなり強いのじゃん。よかったねー、死んでないだけマシだよー」
クラリネはしゃがむと毒が回って倒れた彼の腕を指先でつつく。
「で、どうすんの?」
「僕が適当に処理しておきますから放っておいてください。それより応接間の片付けをしてください」
はぁい、と気の抜けたような返事をしてクラリネが掃除用具を取りに向かうのを見送る。
「生きていられると困るんですよねぇ」
名前を捨て、立場も捨て、ようやく落ち着ける場所を見つけたと言うのに。
「今更そんなくだらないものを持ち込まないで下さいよ」
「何がくだらないだ・・・お前は、ただの・・・犯罪者だろうが」
そのまま血を吐いて彼は動かなくなる。
「ぎゃあ!ちょっとぉ!何で血まで吐いてんのよー!っていうか死ぬような毒ならそう言ってよ!」
掃除面倒くさい!と喚くクラリネが今度はぞうきんを取りに走る。
「棚の洗剤を使って下さい。血も落ちます」
「あー・・・あったあった」
霧吹きをとぞうきんを持ったクラリネが戻ってくると死体には何の興味も示さずに血の処理に入る。
20手前の娘の行動としてどうかと思いますが・・・。
まあ彼女は色々特別ですから仕方ないでしょう。
「どうにかするなら早くどうにかしてよ・・・掃除出来ないんだけど」
「はいはい、分かりました」
・・・と言ってももう捨てるしか使い道はなさそうなんですよね。
猛毒ですし。
まあどうにでも処理は出来ますからいいでしょう。
魔物にでも食わせておきましょうか。
それとも何かの実験にでも・・・。
ふいに、クラリネの姿が○○と重なって見える。
似ていないはずなのですが、何故でしょうか。
やはりあの夢が悪いんでしょう。
「クラリネ」
「なにー」
床磨きに意識が向いている彼女から返ってくる生返事。
「ここ、出て行きますか?」
その瞬間クラリネの肩がびくりと震える。
「・・・・・・行く場所ないもん」
「そうですね。すみません」
片付けて来ます、死体を担ぎ上げそれだけを言うと応接間を後にする。
きっと、子供が生まれていたらクラリネと同じくらいだったんでしょうね。
それはもう無意味な想像でしかないのですが。