老いた魚は二度跳ねない
(さん)
「高坂先生」
「へい」

油絵のキャンバスと校庭をにらめっこ、モチーフと構図に悩んでいる内にどうやら寝てしまっていたらしい。
呼ばれたのと同時に涎を拭いながら振り返れば、定年間近の学年主任が立っていた。時折自前の茶菓子を分けてくれる、比較的親しい先輩教諭だ。

高坂佑大(こうさか たすく)は、初等科から教師になるまで一貫して帝王院学園に所属している。
学生時代は中央委員会に所属していた事もある優等生だったが、凶暴な姉が家業を継いでくれるだろうと、彼は曰く『堅い道』を選んだのだ。
そして色々悩んだ挙げ句、美術の道を志す事にしたのだ。学生時代、人気の無かった美術カリキュラムを選択していた事も要因だった。後はまぁ、様々な事情である。語学の道は母と言う偉大な存在が居た為、数学の道は再従兄弟が居た為、警察官は家柄無理で、派手な商売は性に合わず、心理学にも興味はあったが、家族の性格もイマイチ読めない佑大にはハードルが高過ぎた。
親戚の『ヒロ兄ちゃん』に心理テストを試したが、惨敗したのだ。その両親である『おじたま』と『おじたん』に至っては、心理テストの選択肢を全く選んでくれない有様で結果に辿り着かない。
佑大はあっさり美術を選んだ。無駄な争いはしない、合理的男子だったのだ。


佑大の父は、ヤの付く金髪だった。
ヤンキーとはちょっと違う、ヤーさんの方だ。見た目はイギリス系紳士なだけに警察も怯む、組長である。
そんな父を軽々とお姫様抱っこする母は売れっ子料理研究家で、数々のメディアから引っ張りだこだが、テレビだけは何があろうと絶対に出ないと決めているらしい。上がり症が原因だ。

凶暴な姉は根っからの女好き、数年前に結婚し奥さんが居る。奥さんになったのではなく、奥さんを貰ったのだ。もう何が何だか。
残念ながら二人の間に子供は望めない訳だが、奇跡は起きていたのである。そう、想像だにしていなかった奇跡が、既に。


母50歳、よもやの妊娠。
佑大が成人式を迎えた直後だった。その時に産まれた男の双子はすくすく成長し、今度高校生になる。佑大と並ぶと親子にしか見えない年の差だが、残念ながらどちらかと言うと童顔な佑大だった。

姉夫婦は兄弟と言うより子供の様に面倒を見ており、父は孫を可愛がる勢いで甘やかし、二人共そこそこヤンチャらしい。らしい、と言うのは、二人共何故か佑大の前では借りてきた猫の様に大人しいからだ。
どちらも父親似の顔立ちで黒髪だが、性格はどちらに似たのか、佑大は未だに判らない。言えるのは、181cmの佑大がそろそろ抜かれそうと言う事だけだ。悲しい事に。

「実は後期に中途昇校した留学生が、この度の選定考査で昇級する事になりましてなぁ」
「へぇ。国際科じゃ珍しくない話だけど、それでもう昇級ですか。優秀ですね」
「いや、まぁ、確かに優秀な方ですがねぇ…。何と言うか、理事会でも手を持て余す出自の生徒で…いやはや、何と昇級を辞退してしまって…」
「辞退?」

どうしたものだろうかと、高坂佑大は首を傾げた。どうやら何か言い難い事があるらしいのは、先輩教諭の歯切れの悪さが物語っている。

「それが何かあるんで?辞退は別に、珍しくないでしょ?」
「選定考査で一位だったんですよ、その生徒」
「おいおい、昇校帝君か。何年振りの快挙だそりゃ。40年以上前にあの『陛下』と『星河の君』が打ち立ててから、一人も居なかったって聞いてますけど?」
「そうだなぁ、今までにただ一人の快挙である高等部初代外部生の帝君に比べれば、数は少なくないのだけどなぁ」
「田中先生が引っ掛かってんのは、面倒臭い家柄って事でしょ。上院が手を焼くって仰ってましたし」
「本当に、そう、その通りなんだよ…。そこで寮監でもある高坂先生に、手を貸して貰えないかと」
「あー、Sクラスに入る様に説得しろ、って?」
「いやまぁ、それも込みで…当の本人が選定考査からこっち、殆ど登校していないんだ。このままでは色々問題が出てくるだろう?」
「あー、成程」

ならば話は早い。
耳に刺していた鉛筆を抜き取り、キャンバスの脚立を畳んで、絵の具セットと水入れを抱える。

「お安いご用です。で、俺はソイツを見付けて連れてきたら良いんですか?」
「あぁ、あぁ、高坂先生っ、まずはそれを運ぶのを手伝いますよ!」
「へ?あー、大丈夫ですよ、これ300号しかないんで、軽いもんです」

どう見ても自分より大きな枠を抱えている佑大は、のほほんとしたものだ。哀れ、青冷めた教諭はおろおろと佑大の後ろを付いてくるが、本人は軽々と人影のない校舎へ入っていく。
普通科は期末試験を終えて数日前から冬休み、進学科は全国模試に向けての補講だの検定だので慌ただしい時期だ。

エレベーターは無理だと狼狽える教諭を余所に、わりと広めな美術室のドアを足で蹴り開ける。ポカン、と目を丸めている背後には気付かず、ぽいっと荷物を適当に放り込んだ男は、燃える様な紅蓮の赤毛を掻き上げた。


「…っ?!」
「あ?おい、お前また勝手に入ったのかよ。ったく、そんなんじゃ友達出来ねーっつったろ」

2メートル以上あるだろう重そうなキャンバスを楽々抱えてくる若い教師に言葉を失っていた教諭は、部屋の中を覗き込み、キャンバスの下敷きになっている誰かを見付ける。キャンバスを放り投げた佑大は男にしては円らな蒼い瞳を瞬かせ、仕方ないなとばかりに下敷きになった誰かを引っ張り上げた。

きらきらと。
光に満ちたシルバーブロンド。それはまるでプラチナの如く美しい髪に、佑大の髪と同じく、片方だけが深紅の瞳。

「こ、こ、こ、高坂、先生…っ」

定年間近の学年主任は、今度こそ顔色を失った。
けれど画材だらけの部屋の奥、唯一まともなソファの上にあるリュックサックからビーフジャーキーらしきものを取り出した佑大と言えば、キャンバスで頭を打ったのか膝を抱えている銀髪に近寄り、

「あー?タンコブ出来ただと?んなもん、ジャーキーねぶってりゃ治るだろ。ほら、喰え」
「…この俺を誰だと思っている!」
「テメェこそ、このサーモンジャーキーを何処のメーカーだと思ってやがる、うちのお袋の手作りだぞ。つまりメイドインオカン。俺はこの鮭トバで茶漬けが3杯喰える」
「俺はっ、」
「喧しい。四の五の抜かすな、餓鬼ぁ大人しく鮭トバねぶってろ」

ブスッと凄まじい美形の口に太いサーモンジャーキーをぶっ刺した高坂佑大は、ガシッと自分より大きい生徒を片手で抱え上げ、ぽいっとソファの上に投げる。
一部始終を目撃した学年主任が瀕死だったが、哀れ、育ちの所為か元々の性格か、大雑把な所のある彼は何ら気にせず、戸口の学年主任へ頭を下げた。

「スんません、大晦日までには片付けるつもりなんですが、丁度国際コンクールの〆切と重なってて…。ま、立ち話も何ですから、昼飯に付き合ってくれませんか田中先生」
「むー!もごもごもご、ふごっ、もむー!」
「あ?何だお前、モゴモゴ煩ぇな。鮭トバは味がなくなるまで死に物狂いで噛めよ、歯が良くなるからな」

よしよし。
まるで犬を撫でる様に銀髪を撫でた佑大は、ぴたっと動きを止めた生徒に気を好くして、そのまま部屋から出ようとした。



「高坂先生ー!!!」

然し、漸く復活した学年主任が叫ぶなり泡を吹いて倒れたので、


「…あら?どうしました田中先生…?寝てんのか?」
「ほご!もきゅきゅむごご?」
「何、倒れただと?良し、AED持ってくっからお前は此処で待ってろ、判ったか!」
「もきゅ!」

AED保管ケースを拳で叩き割った教師が、非常ベルに飛び上がるまで、残り数秒。



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