タクシードライバーと植物人間


 絡めた小指を、つたなく解いたあの日の感触が、ふと蘇る。
 その幼い約束は、先に夢を叶えたほうが相手に一つだけ命令が出来ると言うものだった。吉良吉影は、今日の今日までそんなものはすっかり忘れていた。
 記憶を呼び起こしたのは、一枚のはがきだった。

「まったく、子どもというのは恐ろしいものだね。幸い私はきみにしか話さなかったけれど、親や他の大人に伝えていたらと思うと肝が冷えるよ」

 ブルーグレーの空の下、一台のオープンカーが海へと向かっていた。珍しくとった有給休暇は生憎の天候で、それでも雨が降っていないだけマシだなと、吉良は笑った。

「でも本当に、植物人間っていうのは人間が植物になったものなんだと思っていたのだよ。きみは真実を知っていたのかい? それで黙っていたとしたら人が悪いけど……そういうことをするタイプじゃあなかったね」

 平日昼間の高速道路の上、車の速度はぐんぐん上がっていく。男は流れる景色を時折眺めて、懐かしそうに目を細める。
 その幼い約束は、片方はタクシードライバーを望み、もう片方は植物人間を望むというものだった。吉良吉影は、自分が勝ったのならなにを言いつけようとしていたのか、未だ思い出せない。
 もう一人の命令は、『海への同行』だった。

「……まさか、きみに先を越されるとは思わなかったよ。怒らないで聞いてくれよ。子供の頃の話だ。もう時効だ、そうだろう? 私はね、きみのことをなんてマヌケなやつだと侮っていたんだ」

 風に潮の香りが混じり始める。海が、近い。

「思い返せば、私の方こそひねくれただけの面白みのない子どもだった。よくきみは仲良くしようとしてくれたものだと、今では感謝しているよ。無視を決め込む私に、ああやって根気よく話しかけてくれなければ、きっと私の入院生活は退屈そのものだったろうね」
 
 幼い約束を取り付けたのは、吉良が7歳の頃で、場所は入院先の病院だった。同室で同い年のもう一人とはすぐに打ち解けあうーーとはいかなかった。少しづつ少しづつ、歩み寄りおっかなびっくりに育まれた友情だった。
 もう一人は、もういない。植物人間になって、先週の頭に息を引き取ったらしい。
 届いた手紙は、彼の母からの訃報だった。

 高速を下りれば海はすぐそこだ。

「私は……きみのことがとても好きだったんだと思うよ、名前くん」

 『恋人』さえ座っていない空の助手席に、吉良はそっと手を置いた。



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