ハイランドにも、春が来る。
 もちろん一年の半分が雪に埋もれているような土地だ、春の訪れは、ほんの短い間だけだったけれど、野山には美しい花々が咲き乱れ、一面銀白ばかりの味気のない景色に彩りを与えた。
 季節が巡る度に、ワイス家の親子とその従者たちが揃ってハイキングをするのは、毎春恒例のことだった。
 それを待ちきれず、「花を摘みに行きたいの」とエーデルが言い出した。その日その時間ちょうど手が空いていたのはレイスだけだった。わざわざレイスにお守りしてもらわなくても私一人でも構わないわ、とエーデルは言うが、この辺は野犬だって出るのだ。一人で出歩かせるわけにもいかない。面倒だったが、これも自分の仕事の内だ、レイスはエーデルのわがままに付き添うことになった。
 まったくエーデルはいつも手間ばかり増やして、と思ったものの、出かけてしまえば、思いの外レイスは、野山の散策を楽しんだ。花々は咲き誇り、風の匂いも暖かい。鳥もさえずっていた。出かけるまで面倒だとは思っていたはずだが、目から鼻から耳から春の訪れを感じて、レイスは清々しい気持ちになっていた。なんと気楽な仕事だろうか。
 そんな、平和でしかないのどかな日だったから。――ふと、思い出したかのように告げられたエーデルの言葉に、レイスはすっかり不意を突かれた。
「ねぇ、今日はどうしてここまで付いてきてくれたの? レイスは、私のことが嫌いでしょう?」
 一瞬何を言われたか理解出来ず、レイスは少しばかり呆ける。
 唐突で、脈絡のない言葉だった。柔和でのんびりとした口調で、責めるようなものではない。だからこそ内容と噛み合わず、飲み込むまで少し時間がかかった。
「うーん。嫌いというか、それも少し違うわね」
 動揺するレイスに構わず、エーデルは続ける。
「私だけじゃない、ヒューリー以外の人間に、少しも興味を持ってないんだわ」
 そして何も否定すべきことはないのだから、レイスは黙り込んだままだ。

 それはレイスの核心だった。彼の関心事は、いつだって自分自身だけなのだ。
 だから己を生かし、生に意義を与えた、ヒューリーにだけには、唯一興味がある。
 彼女にも彼女の父親にも、それどころかこの世の人間全てに、レイスは欠片も興味を持っていない。しかし、人を疑うことを知らぬ、純真無垢なこの少女にそれを見破られるとはちっとも思っていなかった。
「私、ヒューリーが好きよ。愛してるの」
「……何が言いたいの?」
 口から出た言葉は、ずいぶん投げやりなものになってしまった。もう本性が知れているのなら、取り繕っても意味がない、と開き直っていた。
「ヒューリーも、私を好きなの。本当の妹みたいに愛してくれてるわ。自惚れでもなんでもない、いつかどんな遠くへ行こうとも、どんなに好きな人が出来ても、ヒューリーの帰る家はいつだってこの家よ。――だって、私たちは、家族だから」
 それも、何より正しい真実だった。ヒューリーは、エーデルの想いと同じくらい、彼女を大切に想っているし愛している。仇の人造人間を追って、いつかレイスと共にこの家を出たとしても、きっと常にエーデルを気にかけ、時折手紙を書くだろう。あの日から、血の繋がりはなくともヒューリーと彼女は強い心の絆で結ばれた家族なのだから。
 レイスはそのことに、なんの感慨も持ち合わせていなかった。ヒューリーとエーデルが仲睦まじいから、それが一体なんだというのだ。ヒューリーに好感を抱いていたところで、エーデル自身に一切の興味がないのだから、羨む気持ちもない。これから先も、レイスはずっとエーデルになんの興味もないまま、生きていくんだと思っていた。
 本心を言い当てられた、今、この瞬間までは。
「ねぇ、お願い。せめて私を嫌ってよ、レイス」
 そう言ったエーデルに、レイスは心底呆れた。
「……なに言ってるの、馬鹿じゃないの」
 エーデルの思惑は、浅はかで見え透いていた。好きにならない、興味も持てないのならば、せめて、だって。
「じゃあ命令。嫌いって言って?」
 しかし、レイスが従事している主が、何より溺愛している一人娘の命令だ。自分が生きるために、雇われている家の娘の命に、従わぬわけにはいかなかった。
「――君が、本当に大嫌いだよ。エーデル」
 ただの命令だ。こんなやりとりになんの意味もない。
 その言葉を聞いたエーデルは満足げに微笑んだ。快活で幼い印象のある彼女には、到底似つかわしくない、大人びた静かな笑みだった。
 それを、レイスは大変不愉快な気持ちで見つめる。初めて、エーデルという少女に苛立ちを覚えた。
「ありがとう。あなたのことも、心から愛してるわ、レイス」
 ――あなたとも、本当の家族になりたかった。




 その名のとおり、白くか弱い花のような、無邪気な女だった。
 レイスはきっと、死ぬまでこの女の存在を、妬み、蔑み、そして恨み続けることだろう。
 それが、心の底から憎たらしい。




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