事の起こりは、のだめの実家から千秋宛てに送られてきた段ボールである。毎日毎日料理の出来ない娘のために千秋がご飯をこしらえてくれている、と知った洋子がせめてものお礼にと米やら海苔やらを送ってきてくれたのだ。娘をよろしく花婿衣装は私に任せろ云々などと、一緒に入っていた手紙にその旨が綴られていた。何やら解せぬ勘違いをしていそうだが、それはそれ、一人暮らしにこのような仕送りは有り難い。(叔父から金銭的に多大な支援を受けている千秋は、米が高くて買えない、ということはない。が、米など重いものは車を持ってない千秋には正直買いに行くのが面倒臭いのだ。)
 早速中身を拝見していた千秋の右手には、梱包を解くためのカッターが握られたままだった。よろしいか。カッターである。刃の部分はわずか3センチと出ていないが、その気になれば人のやわい肌など簡単に切り裂ける凶器だ。だがしかし、お馬鹿なのだめはそんなものこれっぽっちも気にすることなく、いつものとおりに「千秋先輩!」と千秋の背を目掛けて飛びついてきた。
 その声と気配に千秋は、ほぼ長年の反射である、振り返り思い切りのだめの頭を叩こうとした。当然、カッターは握られたまま。殴ろうと振り上げた右手が、視界に入ってそこで初めて、千秋は己がカッターを持っていたのを意識した。慌てて拳ごと右に大きく腕を広げる形でカッターを反らすが、しかし不幸にも、のだめは同じく大きく手を広げて飛びついてきていたのである。
「痛っ…!」
 カッターの先で、何か嫌な手応えを感じたのと同時に、のだめはそう声を上げてびくり、縮こまる。
「悪い、大丈夫か…!?」
 平気です、とのだめは答えるが、顔をしかめて右手を添えていたのは、左手の指だった。ピアニストの指。握るだけでは抑えきれずに、血が滴り落ちている。
 指だと思った瞬間、千秋は迷わず指を傷口ごと口に含んだ。それは猫のような素早さだった。のだめはと言えばそのまま固まる。そうするしかなかった。周囲に奇想天外の代表として知られるのだめだったが、そののだめでさえ、千秋のそのあまりに奇想天外すぎる行為に、思考を停止させたである。
 ちゅうと音を立て指を吸っている。あの千秋先輩が。のだめの指を。目の前における状況をようやく飲み込んで、のだめが感じたのは羞恥よりまず困惑だった。一体これは何事だ何故なんでどうしてホワイ?千秋の形の良い唇の中に消えたままの指が、どうしても何か意味を与えるようで、のだめは首まで真っ赤に熱を上げた。これではまるで。まるで。
 そんなのだめにちっとも気がつかず、千秋はそのまま、なんと更に口の中にある指に舌を這わせたのである。その瞬間、のだめは堪らず声をあげた。
「あっ…!」
 その意味ありげな声に、ようやく千秋も、はた、と、固まった。今、己は一体何をしていた、と慌ててくわえていた指を解放した。唾液が絡み付いている長い指。裂けた毛細血管から血がじんわりと滲んで、またそれが指の細胞に広がる。その、なんとなくいかがわしい様子に、千秋はかああと赤くなった。
 いや、オレはこいつの音が好きだから。それに、来月にはもう留学の試験もあるし。だから、指から血が出て思わず――いや待て、今オレなんて言った?好き?好きって何が?待て待て待て待て誰が誰を何が何だって?有り得ない有り得ない有り得ない!これは料理も掃除も出来ないゴミクソのだめで、変態でオタクで後輩でただの隣人で――でもピアノは好き?大概にしろ、オレ!
「ち、千秋先輩…?」
 真っ赤に沸騰した頭を抱える千秋と、同じく真っ赤なのだめの視線が重なる。何が何だか。もうお互いどうしていいのか分からない。だが二人の間にある件の指は、血がまだ止まっていない。とりあえずちゃんと手当てをしなければ、と千秋は無理矢理と言うのか慌ててと言うのか、とにかく急いで視線を外して立ち上がる。
 そして薬箱から消毒液やら包帯やらを出しながら、でもあれくらいの傷ならピアノは弾けるなぁと、千秋は心のどこかでほっとして息を吐いていた。………どうしよう。




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