「………悪ぃ」
「………いえ」
それはいつものよう、二人でトレーニングセンターへと向かう途中のことだった。
一階上にある更衣室でTシャツ・ハーフパンツに着替え、たわいない話をしながらセンターへの階段を降りた時。階段の踊り場から、虎徹はものの見事に足を滑らせた。
運良くたまたま先を歩いていたので階段下にいたバーナビーが、落ちてきた虎徹を(そろそろお家芸の域である)姫だっこで抱き止めたのだ。
鍛えてるだけあって能力は発動せず、虎徹も上手い具合に受け身を取ったので、お互い特に怪我はない。
いつもならばそこでバーナビーから、何やってるんですかそれでもヒーローですか、ときつい小言の一つ二つは飛んでくるはずだが。
バーナビーは、何故か無言でそのまま虎徹を抱きかかえたままだ。
そんな様子の相方を不穏に思ったのか、引きつった表情のまま虎徹は声を上げた。
「…お、おい、もう大丈夫だから、下ろせよ。ごめん、ありがとな」
「はぁ…」
そうして言われた通り、素直にバーナビーは虎徹を床に下ろす。
素直に。この辺りも、普段のバーナビーを考えるとますます不気味だ。
しかしそうやって訝しがる虎徹など全く気にも止めず、バーナビーは、何やら強烈な違和感を感じていた。
見事相棒を受け止めたばかりの両手をまじまじと見て、首を傾げる。
――変だ。しかし、一体何がだ。
そう言えば、虎徹をこうやっていつもの固いヒーロースーツなし・素手で直接抱き止めるのは、初めてじゃないだろうか。まぁ当然である。危なっかしくどこかから転げ落ちるのなんて現場だけで――
そうやってバーナビーが色々と思い悩んでいる隙をついて、――虎徹は何故だか、いきなり脱兎の如く逃げ出した。
バーナビーは、反射的にその背を追って走り出す。
追い掛けてくるバーナビーに気が付いて虎徹は、ぎゃあ、と悲鳴を上げた。
「なんで追い掛けてくんだよ!?」
「虎徹さんこそ、なんでいきなり逃げるんですか!」
叫びながらも全力で虎徹は階段を駆け上がっていくが、何階かも登らせることなく、バーナビーは後ろから羽交い締めにして捕まえた。両腕を押さえつけるところで、――また違和感。
「な、おいこらてめっ!本気かよ!」
「足で、僕に勝てると思ったんですか!」
歳もあるだろうが、バーナビーは蹴り技がベース、鍛えるのも当然下半身中心のメニューになっている。
足だけなら、虎徹よりバーナビーのほうが断然早い。
「だああ、離せこの!」
両腕を完全ホールドしてるのにも関わらず、虎徹は諦め悪く尚も逃げ出そうと足掻いた。
そうやって腕の中で大人気なく暴れる虎徹に苛ついて、バーナビーは、つい。
「ああ往生際の悪い!この、――おばさん!」
――そう叫んで、両者の間でしばらく、はたと時が止まった。
バーナビーとしては、お節介焼きで構いたがりな虎徹を、揶揄したぐらいのつもりだった。
だが。
これほどしっくり虎徹に当てはまる形容詞が、未だかつてあっただろうか。
そして、極めつけは、虎徹が魚のように口をぱくぱくと声なき声をあげながら、顔面蒼白でこちらを振り返ったのだ。
「…虎徹さん」
――バーナビーは先程の違和感を、完全に理解した。
「今すぐそのTシャツめくって、中身を見せなさい」
「お、おおお前、いきなり何言ってん…!」
「いいから、さっさと脱げ」
「ぎゃああ、後輩がセクハラぁー!!」
バーナビーは問答無用で後ろから手を伸ばし、Tシャツの裾を無理矢理めくろうとする。
が、一本解放されたほうの腕で虎徹も必死で抵抗してきた。止めろこの馬鹿野郎!、と涙声で叫びながら。
しかし、バーナビーの、
「もういい加減にしないと、股間鷲掴みにしますよ!?」
という一言で、やりかねないとでも思ったでも思ったのだろうか。
「ああああああ分かった!!ごめん!ごめんなさい、謝るから!――女です!実はおじさんじゃなくておばさんで、女です!モロ出しは勘弁してください!!」
虎徹は、あっさりとそう白状する。
先ほど抱き止めた時も、そしてたった今羽交い締めにしていた時にも感じていた違和感。
――それは、虎徹の身体が、男では有り得ない、柔らかさを持っていたのだ。
若干伸び気味なTシャツを整えながら、息も絶え絶えに虎徹は続ける。
「お前、もし脱がせてモロリンだったらどうすんの…」
「ただラッキーなだけじゃないですか」
しれっとそう言い切ったバーナビーに、20代怖いよー、と虎徹は怯えた声を作って呟いた。
ふてくされた表情のままのバーナビーに、虎徹は恐る恐る問いかける。
「…やっぱり怒ってる?」
「当たり前でしょう」
「うう、そりゃあそうだよなぁ…。ずっと騙してたわけだし、命懸けの仕事なのに相棒が女だとか…」
「はぁ?そこは別にどうでもいいですよ。だってどうせあなたの能力はハンドレッドパワーじゃないですか」
ハンドレッドパワーは発動中ならば攻守共に最強の能力だ。どれほど鍛え抜いた武道家だろうが、武装したテロリストだろうが、ノーマルでその能力に敵う奴などまずいない。
「――虎徹さんを相棒だと信頼してるのは、あなたにそれけの実力があるからです。男も女も関係ない」
バーナビーが虎徹に背を預け共に戦う時、命の心配どころか、誰が相手だろうが、負ける気がしないのだ。
今更、そんなことでバディを解消するつもりは毛頭ない。
「…えええ、いきなりなんだよバニーちゃん、真面目に嬉しいんだけど…。最近もうオレ涙腺めちゃくちゃ弱いんだぞっ!」
そう冗談っぽくバーナビーをながら言った虎徹だが、確かにその言葉通り、瞳はじんわりと潤んでいて。そのままバーナビーを上目遣いで見ていた。
…そんな彼女を、バーナビーはじと目で睨みつけ、続ける。
「…そんなことより僕が怒ってるのは、今の今までの、僕の葛藤を返せ、ということです」
「………へ?葛藤ってな、」
に、と言い終わるより先に。
虎徹は唇を唇で塞がれて、何も続けられなくなる。
いきなり唇を奪われ、虎徹の思考は完全に停止し、お互いの唇が離れてきっちり十秒経ってから、虎徹は限界まで目を開いて、色気も何もない、すっとんきょんな声を上げた。
「おおおおおい、おまっ、ばに、今なん、いきなりなに、やって…!!?」
「女性ヒーロー自体、昔はあまり歓迎されてなかったようですし、あなたが男装してデビューしたのもまぁ理解出来ます。それで最初あれだけ僕が虎徹さんを毛嫌いしてたんですから、カミングアウトしようもんならバディ解消される、とでも思ったんでしょう。で、今度は親しくなったから、逆に言い出しにくくなったってのも分かりますよ?でも、今の今まで僕が、ついにそっちの世界に目覚めたんじゃないかとどれだけ焦って悩んでたと思ってるんですか。認めたくないのにやっぱりどうしようもなくて、ようやくこないだ決意を固められたっていうのに、何ですかそれ本当にふざけないでください。あれだけ悩み抜いた時間を返せ。こうなったらもう速攻捕食しますから、覚悟して…」
「ちょっ、ちょっと待て、全然分からん、それで何が一体どうなったら、いきなりちゅーすんの!?」
混乱する頭を抱えながら虎徹はバーナビーを遮る。
だがしかし、バーナビーはわざわざ意地悪くも、これ以上にないほどいい笑顔を作って、トドメを差した。
「だから、ものすごく分かりやすく、有り体に言うと、――虎徹さんが、好きということです」
そういうドストレートな告白を受けた虎徹は、一瞬呆けた後、見る見るうちに耳まで真っ赤に染め、――またもや、猛ダッシュで逃げ出した。
だけれど、バーナビーは特に怯むことも慌てることもなく、むしろ楽しげにひとつ笑って。
その背を追って駆け出した。
だってさっきまで限りなくゼロに近かった可能性が何倍にも跳ね上がったのだ。それだけで世界が薔薇色である。
そして何より、虎徹がバーナビーに足で敵うはずがないのだ。それを選んだ時点で、彼女の負けは、決まっているだろう。