目が覚めると、峰は柔らかな布団の中にいた。間違いなくそれが二階にある自室だったということを、峰は久しぶりに思い出していた。
 起き抜けの煙草に火を点ける。煙は意識と肺に少しずつ爪を立てていって、ゆるゆると45%くらい目覚めた頭で、峰は今見た夢を考えた。
 湿ったコンクリート、を、歩く足、ケータイのアドレス、マイセン8、梅味のガム、ダイレクトメール、そしてピアノと、たくさんの画が次々と浮かんでは消える。強烈なインパクトを持った、しかしその割りには掴みようのない、ぼんやりとした違和感だらけの夢だった。
 なんだったかなぁとしばらく首を傾げていたが、ふと枕元にある時計に目を落としてみて、意識は100%を振り切って冴える。針はそろそろいつも家を出る時間を回りかけていた。
 慌てて煙草の先を潰して、そこらに落ちてた服に適当に着替える。バックとヴァイオリンケースを引っ掴み、厨房で仕込みをする親父にいってくる!と一声叫んで学校へと駆け出す頃には、夢のことなどすっかり忘れていた。




 どんよりとした、ふくれすぎたスポンジのような雲から、そのまま至極当然のようにひどく不格好に雨は落ちた。空気は湿り気を帯びて、簡単に呼吸を困難にさせる。肺が重く、痛い。それだと言うのに男は黙ってそのまま、雨を受け続けた。重い肺を抱えながら、ただ途方に暮れている。世界を両断するように一本の薄い煙が立ち上ぼる。だが、やはりそれも、不格好な雨に塗り潰され、やがて空の彼方へと消えていった。呆気なく。




 千秋は火曜日の二限は空きらしく、毎週食堂で時間を潰していた。たまたま峰とのだめの二限目の授業が休講になったので、今日は三人だった。
「だから、昨日はもう疲れちゃって。今日も眠いんデス」
「ふうん。ハリセンは何て言ってた?」
「別に普通にがんばれーとかでした」
 彼らの話はあまり要領を得なかった。ただ千秋の機嫌は珍しく、そんなに悪くないようだ。峰は曖昧に微笑み返してから、煙草に火を点ける。
「ようやくデスね」
「そうだな」
 何がだろう。分からないけれど、二人は笑っている。
「へぇ。それは、よかったな」 煙を吸い込んで、タールを喉にべったりと焼き付ける。
 ふと、唐突のデジャヴに掴まれて、峰はようやく合点した。喉の奥に突っ掛かってた何かをやっと取り除いた気分で、得意になって峰は言う。
「ああ、そういえば今日、お前らの夢を見たよ」




 行列が続く。終わりはまだ見えない。行く当てもまだ見えない。棒のような足を引きずって、とにかくその後に続いた。行列は続く。今はもう、自身すらその矮小な黒い蟻の一部であり、そしてその行方を今日、初めて知ることになるだろう。




 講義を受けている。漠然とした、白い箱のような教室で、周りの学生たちはいつものように喧しく騒いでいる。
 唐突に、彼女は呟いた。
「今は、一体何時でしょうか」
 教壇のすぐ脇にある時計に目を向けるが、止まっていた。ポケットの中に手を入れ探ってみたが、携帯もない。
 ――だが、まだ早すぎると峰は思う。堪らず口にしてしまった。
「どこに?」
 それは、愚問だった。
 彼女は不思議そうに首を傾げて峰を見ている。峰もまた、すぐ隣りの席に座っている彼女を呆然と見つめ返す。
「どうしてデスか?」
 しかし、こんなにも近くに彼女はいるというのに、峰にはその表情がよく読み取れなかった。いや、それでもやはり、彼女は笑っているのだろうか?

「のだめ」
 煙は、晴れない。




 ブザーを押した。だがしかし、いつまで経っても扉は黙り込んだままである。仕方なく、ひやりと冷たいノブに自ら手をかける。錠は外されていて、思いの外、重々しいはずの扉は簡単に開いた。だがしかし、踏み入れた部屋の異様さに目眩がする。どうも男は手当り次第、指揮棒や総譜までそこらに投げつけたようだ。散らかった部屋が、余計に現実味を失くさせた。世界から、ばっさりと切り取られたような暗い暗いこの空間で、男はただ嗚咽を漏らしている。それでもそれなのに、開きっ放しのドアから、残酷にも、彼と世界とは繋がり続ける。




 東の空がうっすら群青色に染まり始める頃、峰は突然目を覚ました。
 いやにはっきりとした頭で、心の底に大きく広がった波紋を見つける。喉がからからで、峰は反射的に煙草に火を点けた。もちろんますます渇きは増して、わけがわからなくなる。
 此所は、どこだろうか?ハイヴィスのポスター、ビールの空き缶が数本に食べかけのスナック菓子、折り目のついて少々くたびれた音楽雑誌、間違いなく自室なのに。自室、なのに?まだ日も昇ってもいない明け方にも関わらず、なぜこうも頭ははっきりとしているのだろう。昨日はそんなに早く眠っただろうか。夢が、そうだ、さっきまで、雨が降っていて。雨、雨?
 無意識に煙草の灰を落とす右手をぼんやりと視界の端にとめて、峰はふと気が付いた。肺の中で蠢いていた煙が、消える。

 ――ああ、おれ、確か、禁煙した気が。なんで、だって煙草、しばらく買ってないのに。




 そのまま世界が暗転する。
 辺りが暗い。目は開いているのだろうか、閉じているのだろうか。喉はじりじりと渇いたままで、ひどく静かだ。
 おれはいま、おまえらは、どこに。




 ぐわんぐわんと頭の中で三次元の音が波紋を描いている。これは雨の音だ。水の音。鐘の音かもしれない。機械音にも似ている。だがきっと、ピアノの音だろう。音々は狭い脳みそを方々へ跳ね返って三半規管をゆっくりと殺した。耳が痛くて苦しい。まともに立っていられない。痛みだけがより一層強くこの世界を浮き彫りにした。壇上で、白いたくさんの花に埋もれ、やはり、白い彼女は眠る。痛むほど鮮烈な音の渦の中で、誰よりも耳が良いはずの彼女は、嘘のように眠り続ける。そうして、男は、静かに形而下の彼女に唇を寄せる。――幕は、下りた。




 ピアノの音。が、ふたつぶん。
 峰は足を止めて、夕焼けで真っ赤に染まった校舎を見上げる。三階右から四番目のいつもの教室から、美しいソナタがとめどない洪水のように溢れ出してうっとりとした気持ちに心から浸る。
 峰はきっと世界で一番、この音が好きだ。
 流れる音程に足を乗せて、峰は家路へと向かう。足取りはもちろん、うきうきと弾んだ。




 その小さな白い箱に、かつての彼女は収まっている。大きな手も、彼のことばかり語った口も、くりくりと輝いたあの大きな目も、よくもつれて転んだ足も、脳みそも、溢れ出しそうな音楽も、全部。あの日、肺の中で燻ってそのまま消えた煙の端に、きっと世界の全てはあったのだ。小さくなった彼女を抱いて、千秋は呆然と呟いた。
「骨は、本当に、白いんだ」
 そう窪んだ底でじっとりと光った目を、峰はきっと一生忘れない。




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