霧が出ていた。その中を、物々しい槍や弓矢を持った軍隊を率いて、入鹿は馬を駆けている。目指すは、霧の奥にある御殿だ。
 あの血族は、水神の加護を受けている、とそう言ったのは果たして誰だっただろう。濃く、不気味な霧は、斑鳩の屋敷への道を隠しているようにも見えて、兵たちの何人かは、やはり噂通りだと怯えていたが、入鹿は迷わず先陣を切って道を進んだ。何の因果か、その血を入鹿も引いている。霧に隠されようとも、しっかりと進むべき方向が分かった。

 ゆらり、と、霧の向こう側に、人間の影が浮かんだ。道の真ん中に、男が一人、立っている。
 慌てることなく、しっかりと手綱を引いて、馬を止めた。後方の弓士が一斉に矢をつがえるが、まだ射るな、と入鹿は合図を出す。
「久方ぶりです。入鹿様」
「……やはり、邪魔立てするか、小野」
 予想通り、そこに立つのは小野妹子だった。ご丁寧に脇に刀まで差している。
 最後に会ったのは、もう五年以上も前だ。太子の墓守のようなことをしている、とは聞いていたが、後ろめたくて、ずっと行けていなかった。太子の墓にも、妹子の元へも。
 記憶より、ずっとしわがれた声で、顔も最後に会った時より更に顔は皺だらけで老け込んでいた。見た目はその通り、もうとっくによぼよぼの翁だと言うのに、背筋はピンとしている。
「老害が、たった一人で無様に剣を取って、蘇我家に刃を向けようと?」
「一興でしょう?」
 気配を探るが、周りに伏兵は見当たらない。例え森に援軍を隠していようにも、入鹿が手を振り下ろしさえすれば、すぐ矢が飛んできて、呆気なく妹子は死ぬだろう。
「……昔のよしみだ。このまま退けば、見逃そう」
「こちらの台詞です」
「ならば命令だ。退け」
「承服しかねます」
「この蘇我入鹿の命が、聞けぬのか?」
 いくら妹子がすでに息子に家督を譲って第一線から退いていようが関係ない。朝廷で一番の権力者である入鹿の命は絶対だ。
 だというのに、妹子はそんなことは気にも止めぬと飄々と笑った。
「勘違いしないでいただきたい。――僕はね、帝どころか、ましてや蘇我家にも、朝廷にだって、一度たりとも忠義を誓ったことなどありませんよ」
 その妹子の言葉に、入鹿は思わず怒鳴り散らした。
「ーーあんたは、骨の髄まで"聖徳太子の犬"なのかよ!!?」
「はははっ、ずいぶん懐かしいことをおっしゃいますね。出世のためならば、気狂い摂政にも取り入る田舎者、と散々罵られたあの頃を思い出しますよ」
 えげつないほどの阿呆で、カレー臭男で、ただの能無しで、ボンクラで…。ウザいところを上げると、キリがないんですけどねぇ。
「それでも。いつだって"国のため民のため"、と。影で奔走し、身を粉にして政に尽力していたのを、僕は誰よりも知っています。――僕の生涯で、主君と呼べるのは、あの馬鹿ただ一人です」
 そう言いきり、いよいよ妹子は剣を鞘から抜いて刃をまっすぐ入鹿に向ける。
 ……入鹿に、抜き身の刀を向けた。これで、どうあっても、入鹿は妹子を殺すしかなくなってしまった。
 一瞬、歯を食いしばって、きつく目を閉じたあと。入鹿は、右手をしっかりと上げた。それと同時に、後ろに控えていた弓士が一斉にキリキリと弓を引く。
「……お前の介入など、想定内だ。逆賊の汚名を負ってまで死人に義理立てなど馬鹿げたことを、精々あの世で悔いるがいい」
 今尚墓守を続けるほど忠義深い妹子が、何か仕掛けてくることなど容易く想像が付いた。
 別の隊をすでに斑鳩へと向かわせているし、山背王側の有力な豪族・士官の元へそれぞれ兵を向かわせている。必ず山背王は今夜討伐される。妹子の、負けだ。
 だが、しかし。
「……政の才は、歴代の蘇我一族の中では随一と名高いですが。まだまだ甘ちゃんですね、入鹿様」
 僕の介入を知ってながらこの程度とは。いい加減割り箸くらい割れるようにならないと、と馬鹿にした口調で妹子は続ける。
「仕事は飛び抜けて出来ましたけど。正真正銘田舎者の、なんのコネもないのに誰それと媚びることが出来ないこの僕が、あんな馬鹿摂政の取り立てひとつで、大徳に上り詰めたとでも?」
 しわしわの顔で老獪に笑う姿は、ひどく挑戦的だ。この、今にも切り捨てられる絶望的な状態とは、到底相応しからぬ。
 だけれど、入鹿の記憶に鮮明に残る、彼のたった一人の主君のそれを、よくよく思い起こさせて。突如再現されたあの底知れぬ恐ろしさに、入鹿はざわりと背筋を震わせた。
「ーー果たして、ことが全て終わる頃、逆賊の汚名を着せられるのは、一体どちらでしょうね?」



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