嵐が去り、その風雨に晒されていたアシュクリフにも、平穏が取り戻り始めていた。飛んできた枝の掃除をする職員たち、おぼつかない足取りで歩いていく患者と、その付添人。
"テディ"は、その中を、静かに歩いていく。自身を殺してくれる医師たちのもとへと。

「あ!お疲れさまです、テディさん」

"テディ"を見るなり、にっこりと微笑んだ若い女性に、怪訝な顔をしかけて、ひっこめる。アシュクリフで過ごした記憶のすべてを、正確に思い出したわけではない。本当に大事なこと以外、ぼんやりとしたままの記憶の中の住人なのだろう、と。

「事件、解決したみたいですね。もう帰られるんですか?」
「……ああ、まあ、そんなところだ」

歯切れ悪く話す"テディ"に、ナマエは気にした様子もなく、微笑んだ。よかったですね、と一言添えて、別れる。
"テディ"は、自身の後方へと歩いていくナマエの背中を見つめる。何かが引っかかる、けれど、思い出すことは、できなかった。



「先生。彼、治ってるのね」
「、……うん?」
「レディスさん。私のこと知らない、って顔してたから」

は、と無意識に、シーアンが、もう行ってしまった”テディ”の姿を探して、そして、ふと自嘲の笑みを浮かべた。
正常な人間としての、死を選んだ相棒――。学会で発表する研究材料として接していなかったと言えば、嘘になる。シーアンに、レディスを止める権利などない。
だが、ナマエなら――……。

「そんな目で見ないでよ。止めるつもりもないし、止められないよ」

あんなに穏やかな目をしているのに、無理だ。ナマエは苦笑して、シーアンの隣に腰かけた。
ナマエを知っていた"テディ"は、もうレディスには、必要ない。

「おやすみ、テディ」

静かに呟いたナマエの声を、シーアンだけが、聞いていた。沈黙、そして穏やかな平和――。アシュクリフの平和は仮初。だけど、患者には、これこそが必要だ。

「ナマエ、君は昨日のフェリーで発つつもりだったのでは?」
「うん、まあね」

このひどい嵐で欠航になってしまった。
ナマエは、ぐ、と伸びをして、苦笑する。

「――やめたんだ」
「…………え?」

あっけらかんと、ナマエは笑う。

「なんかいいや、って思っちゃったんだよね」

ナマエは、この島で生まれた子供だった。
母親はC棟の患者で、父親はここで働く職員だ。もちろん、妊娠はすぐに発覚したが、コーリーによって、中絶は行われなかった。人道的観点からではなく、実験動物としての目論見。それがなかったとは、言い切れない。
だが、コーリーが後見人となり、出来うる限りの普通の暮らしを――、与えられていた。
シーアン先生、と、ため息を吐きながらナマエは言った。

「"普通"って、なんだろうね。私には、わかんない。外の"普通"って、きっと私にとっては、"普通"じゃないんじゃないかな」

奇声をあげている患者が、2人の目の前を通り過ぎていく。
ナマエが、発作を起こした患者に殴られたことは、両手で数えきれないぐらいある。けれど、正気に戻れば泣いて謝ってくれる彼らは、確かにナマエの親には違いない。
そんなようなことを、小さくぼやいたナマエは、息を吐いて、それから笑った。

「ここが私の家。家族もいる。たまに外に連れて行ってくれたらいいよ。奥さん、元気?」
「…………ああ、君に会いたがってた」
「そっか、」

遠くに見えたコーリーに、笑って手を振るナマエ。片方の投げ出されたままの小さな手を、握った。ここが家だと言うくせに、迷子になったような顔をするナマエを、安心させるために。



永遠回帰