「ご無理を言って申し訳ありません」
 「娘を、よろしくお願いいたします」

 やつれた顔で頭を下げる夫人と、その肩を抱く慇懃な態度の主人。
 美しい妻に、社会的に成功した夫。
 ただただ娘を案じる母親と、外聞を気にする父親。
 案外、正反対な人間同士の方がうまくいくこともあるという。この夫婦は、その典型に当てはまっているようだ。ハンニバル・レクターは微笑みを浮かべて、父親の差し出した手に握手を返す。
 郊外に建てられた大きな家は、広い庭に囲まれ、木々が立ち並んで、人目をはばかるようでありながらも、自己顕示欲に満ち満ちていた。基本的に、来院した患者を診療する形をとるハンニバルだが、この日は、珍しくも、自らが出向く形をとっていた。
 断れない仕事ではなかった。ハンニバルが面倒を見ていた別の患者の知人が、資産家のMr.ミョウジだった。彼が今回の依頼主だ。
 正直に言って、依頼を受けたのはハンニバルの気まぐれ、であった。部屋に引きこもったままの娘へセラピーをしてほしい、という依頼。
 十代半ばの多感な時期にはよくあることだ。父親はそう切り捨てていたが、彼女が学校で起こしたという事件は、興味深いといえば、そうであった。

 母親の案内で向かった二階の一室。扉の前には、干からびたサンドイッチがあった。それに悲しそうに目を伏せて、母親は、そのトレーを引き上げて去っていった。
 ハンニバルのノックの後に返ってきたのは、少女らしい澄んだ声の、入室の許可だった。

 「失礼するよ」

 窓辺の机に、彼女は向かっていた。壁には、精巧なタッチで描かれた静物画が張られている。飴色の床に、白を基調とした落ち着いたインテリアだ。部屋の隅には、備え付けのキッチンと冷蔵庫までがあった。

 「どうぞ、その辺に座って」

 こちらに背を向けたままに、彼女は、ナマエは、扉の横の椅子を指した。インテリアに似つかわしくないその一人掛けのソファは、ハンニバルのような来客のためのものだろう。
 そこには座らず、ハンニバルは、後ろで手を組んだ。

 「ハンニバル・レクターだ」

 そこで、ようやくナマエは振り向いた。大人びた面差しだ。
 スクールカーストで言うならば、上位に立つ側だろう。容姿に恵まれ、親は金持ち、成績も良く、スポーツもそつなくこなせる。部屋を見る限り、センスも悪くないようだ、とそんなことを思いながら、ハンニバルは微笑んでみせた。

 「例のカップケーキは、そこのキッチンで作ったのかい」

 ぴくり、とナマエの眉が上がる。無表情ながら、ふっくらとした唇のあたりに、無邪気な残酷さが浮かんだように見えた。

 「ええ、そう、友達とね。結構、大変だったのよ。頑張って作ったのに、あの子は100個も食べられなかった」

 黒目がちの瞳が、細められる。バターと卵をたっぷりに、粉砂糖を振りかけて。お好みでホイップクリームやバターをのせて。
 彼女たちを発見した用務員の話によれば、机には紅茶が用意され、優雅な茶会のようでもあったという。その場に、椅子に縛りつけられている女生徒さえいなければ。

 「食べてみたい?」
 「そうだね、できることなら」

 それじゃあ、次回作っておくわ、と微笑んでナマエはまた、背を向けた。
 門の前に停めていたベントレーに乗り込もうとして、ハンニバルはふと、二階の窓を見上げた。青白い顔がぼうっと浮かんでいる。
 ナマエだった。無邪気に、手を振って、カーテンが、閉まった。



 カップケーキは、最悪の味だった。甘ったるく、そして、口の中の隅々までが、ぎとぎととした油でコーティングされるようだった。
 美味しいよ、と、眉を寄せて言ったハンニバルに、ナマエは手を叩いて笑ってみせた。嘘つき、と。

 こんなに長く続いたのは貴方が初めてですよ、と、無遠慮な力で肩を叩いてくる父親を、ハンニバルは穏やかな仮面の下で睥睨した。彼は、このありふれた上流階級の、凡庸な両親の元に生まれたナマエを、哀れに思っていた。

 「こんにちは、先生」
 「バッハか、いいね」

 部屋を満たす旋律に、ハンニバルは目を閉じた。その様子に、ナマエは笑みを深める。奇妙な友人関係が、この部屋に出来上がっていた。
 ナマエは、ハンニバルの話に素直に耳を傾け、土が水を吸うように知識を吸収した。学校は退屈かと聞けば、だから行かないの、と返される。

 「学校に行かないのは構わないが、食事はちゃんと取った方がいい」
 「あの人が作ったものは食べないわ」

 紙に鉛筆を滑らせながら、ナマエはそう切り捨てる。
 人間は食べたもので形づくられる、と彼女は言う。自分が認めた物しか、自分の体に受け付けないと。
 それはある種の、行きすぎた潔癖性なのかもしれない。強迫観念めいていながら、彼女自身には、そういった人間特有の言動が見られない。

 「先生は私を病気だと言わないから、好きよ」
 「君はどこもおかしくないからね」

 言いながら、ナマエの背後に立つ。ハンニバルは、髪を結んで露わになっているうなじを掴むように手を広げる。たとえばここで、ハンニバルが何の感慨もなく、細い首をへし折ってしまえるのと同じように、ナマエは何とも思っていないのだ。

 『だって、あの子が言ったのよ。"このカップケーキ美味しいね。これならいくらでも食べられるわ"、って』

 クラスメイトを椅子に縛り付けたは、それが理由だという。被害者ということになっているそのクラスメイトは、学校でも浮いていたようだ。空気の読めない言動に冴えない容姿。典型的な、いじめられっこだった。
 ついでに言うのなら、首謀は、ナマエではない。ナマエがつるんでいた友人だ。彼女は、典型的ないじめっこ。ナマエは、キッチンを貸して、ケーキを作るのを手伝っただけだ。母親はそう娘を庇い、父親はこう主張した。娘も、被害者だ。逆らえなかった、と。
 油っこいカップケーキを嫌と言うほど詰め込まれて、涙と唾液と嗚咽と吐瀉物、いろいろなものにまみれていたその生徒を、ナマエはただ眺めていたという。

 「いくらでも食べられるだなんて、嘘をついたのよ」

 そう言ったナマエの目は、真っ黒な穴のようだった。



 「ねえ、この前ちらっと見たけどさ!おじさんだけど顔は悪くないよね!」
 「車もいいやつ乗ってるしさ、ねえーー」

 ちょっとくらい、味見しちゃえば?そう低く囁く声は、甘ったるく、ねばついていた。あのカップケーキのように。
 ぎ、と軋んだ音を立てて開いた扉に、ハンニバルは困惑した大人の顔を張り付けた。わざとらしい悲鳴を上げ、くすくすと笑いながら、ナマエの友人たちは走り去っていく。
 ナマエは、ぎこちない笑みを浮かべて、ハンニバルを部屋の中へと誘った。

 「彼女たちと会ってることがばれたら、お父さんに、叱られるんじゃないのかな」
 「だから先生、内緒にして?」

 首を傾げて苦く笑ったナマエに、ハンニバルは仕方ないね、と笑った。いつも通り、ナマエが淹れてくれる紅茶に口をつける。

 「彼女たちも、停学中だから暇なんだって」
 「ふうん。君は?」
 「私は、先生が来てくれるから」

 微笑んだナマエの唇の赤さが、いやに目についた。頬にうっすらと浮かんだそばかすに、まだ幼さを残す輪郭。少女らしく、瑞々しい色気だ。 それで、と、ハンニバルは言った。

 「味見、するつもりかい?」

 目を丸くする様子は、どことなく、わざとらしい。

 「ひどい。先生と私は、おともだち、でしょう」
 「そうだね」
 「でも、そうだ。おともだちなら挨拶のキスぐらいはするかな」

 軽い足取りで近づいてきたナマエが軽く身を曲げて、ハンニバルに口づける。耳にかけていた髪がこぼれ落ちて、ハンニバルの頬を撫でた。すん、と鼻で香りを掠めていったのは2人ともだった。秀でた額を、細い指先が辿る。

 「先生、いい匂いがするのね」
 「君もね」

 まるで、カップケーキだと、ハンニバルは思う。


 彼女が窓辺で手を振るのを見上げて、ハンニバルは微笑む。
 それで、もてあそんでいるつもりか、と。
 上っ面の笑みを浮かべて、車に乗り込んだ男に、ナマエは微笑む。
 なあんにも、わかっちゃいない、と。

 まったく、滑稽だよ、と微笑んだ。


like the cupcake