※特殊といえば特殊


 ロンドンの冬は寒い。だが、ジョックは、熱い息を吐いて、道端に座り込んでいた。腹を撃たれて、少なくない量の血を流しながら。そんなジョックの前に、薄汚い路地に似つかわしくない高級車が止まったのだ。ウィンドウがゆっくりと降りる。

 「お手」

 と、言われたものの、ジョックは、血塗れの手を絹の手袋に乗せることを躊躇った。犬は命令に従うものよ、と笑い交じりに言われて手を乗せる。たおやかな細い手に、古傷の目立つ武骨な拳が乗っている。
 ぴりっと何かが走ったような気がした。その暴力的な衝動を落ち着かせるために、傷の熱と痛みに意識をやらなければ、彼女の手を掴んでいたかもしれない。
 おかわり、と言われて、反対も。今度は躊躇いなく。

 「お利口ね。いいわ、貴方のことを助けてあげる」

 弧を描いた唇に、しゃぶりつきたいと思った。



 動きやすさを重視したいつもの格好ではなく、きちんとしたスーツを着て、ジョックは、あるタウンハウスの前に立っていた。
 マートランドに頼まれた件――ヤード直々の協力要請の一件が片づいたところで、ジョアンナが、お礼に行ってきなさい、とジャックの身なりを仕立てて、ここへ送り込んだのだ。
 しかも、彼女――今日ジョックが挨拶に来た人物だが、は、ヤードにも秘密裏に助力を行っていたらしい。マートランドから、ナマエが好むというスコーンの店の情報がもたらされていた。
 そんなわけで、右手には花束。左手にはスコーンを持って、ジョックは彼女を訪ねにやってきたわけである。
 チャイムを鳴らせば、執事が玄関を開けた。来訪は告げてあったため、とてもスムーズだ。

 「お待ちしておりました。Mr.ストラップ」
 「あの…これを……」
 「ああ、お嬢様のお好きなスコーンでございますね。ありがとうございます。あとで紅茶とともに供させていただきますね」

 年齢を感じさせない滑らかな動きで一礼し、執事は出て行った。さて、と思う。ジョックは、こういう空気には慣れていない。本来ならモルデカイのお屋敷もこういうしっとりと落ち着いた雰囲気であるべきなのだが、主人夫妻が型破りな御仁であるので、仕方がない。とりあえず、ふかふかのソファに埋もれて、待っていたのだが。
 ざわざわと心臓が落ち着かない。主人であるチャーリーのしたり顔が眼の裏をちらつく。ようやくジョックにもまっとうな春が来た、と小躍りしていたのだ。学生の頃から緊縛プレイだとかアブノーマルなことをしていた男が、目を細めて、嬉しそうに。きまりの悪さに、ぽりぽりと頭を掻いていれば、室内履きの足音が近づく。
 遠慮なく開けられた扉に少々瞬いた。はたして、ジョックの待ち人は、戸口で固まっている。寝起きらしく、アンニュイに顔にかかる髪に、ジョックは小さく唾を呑みこむ。そんな男の逸る鼓動には気づかず、彼女は、ナマエは、固い動きで傍らに控える執事を見やる。

 「……Mr.ストラップがいらっしゃるなんて、聞いてないのだけど」

 寝起きで掠れた声。それとなく息を吐いて、意識から薄めようとするけれど、ジョックの目も耳も、それだけでない五感すべてが、彼女に釘付けだった。こりゃ確かに犬だ、と内心で自嘲する。

 「ああ、お伝えし忘れておりました。失礼を」

 慇懃な物言いに、ナマエの愁眉が吊り上がる。彼は、好々爺然とした笑みをたたえて、こうも言い募る。

 「ボディーガードも兼ねて新しい"犬"を飼われてもよろしいのでは?お嬢様も、気に入っていたではないですか、あまり周りにいない犬種だと。確かにお嬢様の周りには愛玩に適した室内犬ばかりで」
 「ちょっと、黙って」
 「勿論ですとも」

 ぞんざいに手を振って執事を黙らせ、ナマエは、額に手をやりながら、ジョックを見た。

 「モルデカイ卿の従者を努めてらっしゃるのよ?」
 「ええ。ですが、満更でもないと思いますがねえ」
 「お黙りなさい、と言ったでしょう」

 憮然としたナマエを気にした様子もなく、明るい声で、どうですか、ミスター、と話を振られて、ジョックは考えた。それから、立ち上がって、目をうろつかせている彼女に歩み寄る。
 夜のネオンに映える化粧とドレスで着飾った彼女もそそったが、素顔でリラックスした寝巻姿も、もう一度ベッドに引きずり込みたいほど、魅力的だった。
 迷わず、片膝をついたジョックを、ナマエはあの夜のように見下ろした。

 「傷は多いですが、ちょっとやそっとのことじゃ死にやせん」
 「……そうでしょうね。正直立って歩いているのが不思議よ」
 「顔は、…まあ、いかついっすけど、不細工じゃねえと思いやす」
 「ええ、好みよ」

 彼女の手が、ジョックの短く刈り込まれた金髪を撫でた。ひよこみたい、と言いながら。

 「あなたに触れられるなら、"犬"でも構いやせん。犬よりも強い忠誠と、犬にはできないエロいことはしやすけど」

 ワォ、でございますね、と執事が合いの手を入れてくる。差し出された指先に唇を落とし、犬らしく舐めれば、くすり、と笑みが降ってくる。

 「他の犬達の里親を探さないと」
 「そうしてください。俺、独占欲強いほうなんで」

 ご主人様が他の犬とじゃれてたら、うっかり殺しちまいそうです。
 肩を揺らして笑うナマエの、華やかな交友関係は思い出してそう言えば、彼女は子供のようなキスをくれた。

 「去るものは追わないけど、来るものは拒むことにするわ」
 「…絶対っすよ。あと、俺は、死ぬまで食らいついて離れやせんから」

 おやおや、と執事が笑う。 


 狂犬ですね


2018 02 06