軽い足取りで歩いていく人物に、ナマエは小走りで追いついた。
「こんにちは、ええと、クイニー?」
「あら、こんにちは」
ふわふわとした口調、柔らかい笑み。口に含んだら溶けそうな金髪に、大きな瞳は睫毛でぐるっと囲まれて色白。一部のファンが、というよりナマエの同僚であるサムが、彼女を妖精と形容して熱狂しているのも頷ける。
ナマエの脳天気な感想を"読んで"、クイニーが笑った。
「うふふ、ありがと」
「あ、いや、」
美貌に加えて、開心術の優れた使い手であるクイニーは、こちらもナマエの同僚であるポーペンティナの妹だ。ナマエは今、ティナに一言二言説教をしに向かっているところだ。
「まあ…、ティナったらあなたに書類を押しつけていったのね」
「……」
「ふふ、そうね。でも、ティナはデスクワークが嫌いだから」
「………」
「ナマエはきっとティナと似てるのよ。いつも姉がごめんなさいね」
「……」
「優しいのね。ティナもよくあなたの話をするわ」
「…………」
「ね。私も会えて嬉しいわ」
「へえ、面白いね」
楽しい、とクイニ―との会話に対する素直な感想を言って、ナマエは笑う。クイニ―は、そんなナマエの心をちゃんとわかっているからこそ、微苦笑を浮かべた。
「……そう言ってくれる人は少ないのよ」
「ふうん、そうなんだ」
「私、ナマエのこと大好きだわ」
「え、ありがと。私もクイニーのこと好き」
「じゃあ両思いね」
「ね」
そんな会話をしているうちに、闇祓い局に着いた。目的の人物を見つけて、ナマエはひらひらと書類をかざしながら近づく。
「ティ〜〜ナ〜〜〜〜」
「げ」
「げ、とは失礼な」
そう言ってナマエは、机の上に広がったガラクタを見て、首を傾げた。
「何これ?」
「押収品。イタズラ魔法をかけてノーマジに売りさばいてる魔法使いがいたのよ。クイニー、あなた仕事は?」
「休憩中」
にっこり笑顔の妹に、嘆息するティナ。しかし、ナマエの冷たい目を見て、苦笑いに変える。
「へー、悪い魔法使いを捕まえるためなら書類は私に押しつけてよいと?」
「ごめん。今度何か奢るから。クイニーそれ開かないほうがいいわよ」
「どうして?」
クイニーが手に取ったのは、古ぼけた黒い傘だ。
「開くと内側から雨が降ってくるの。それも土砂降りの」
「こっちの瓶は?」
「口をつけると逆に瓶が吸いついてくる」
「本は?」
「噛みつく」
「スプーンは」
「手に巻き付く」
きらきらと目を輝かせはじめた妹を警戒して、ティナは彼女をテーブルから遠ざけようとする。しかし、クイニーはすでに杖を取り出していた。
「魔法解除するんでしょ?私、水の呪文は得意なのよ」
「いっつもトイレの呪文で遊んでるもんね、って違うから!」
「任せて、ティナ」
「クイニー!!」
悲鳴にも似たティナの制止に構わず、クイニーは杖を振っていた。ふわりと浮いた傘が、空中でひとりでに開く。しかし、開いた傘の、内側からではなく外側から、ものすごい量の水が放出された。ちょうど自分の机に戻っていたナマエが、そのすべてを浴びたといってもよかった。
「ナマエ!」
傘は、最後に一、二滴絞り出すように身を震わせた後、自ら閉じて机に横たわった。不運なナマエはというと、羽根ペンを持ったまま硬直していた。ティナも、クイニーも、その場の空気が凍りついていた。原因はただ一人。
呻くように、ナマエがその人を呼んだ。
「長、官」
正確に言えば、魔法保安局長官、さらに言えばアメリカ合衆国魔法議会魔法執行部部長でもあるパーシバル・グレイブスが、いつの間にやって来ていたのか、ナマエの机を挟んで反対側に立っていた。
落ち着いた仕草で、文字通り濡れ羽色になった髪を掻き上げたグレイブスは、水を吸って重たくなったコートを脱いで、腕に抱えた。
「先ほど君が提出しに来た書類について、いくつか質問がある」
「、はい、何でしょう」
シャツが、シャツが透けてるんです長官。
ナマエの心の叫びが、開心術を身につけていないティナにも聞こえたような気がした。それくらい、今のグレイブスは目に毒であった。
肌に張りつく生地が鬱陶しいのか、グレイブスは話を続ける傍ら、ネクタイを緩め、シャツのボタンを外した。ベストも水を吸って貼りつき、そのせいで体のラインが露わになっている。品を損なわぬ程度に鍛えられている腕がシャツを捲ったことで現れる。ついでに、崩れてしまった前髪が、幾筋か額にかかっていた。
なんの拷問だと、内心で悶絶していたナマエだが、強靱な精神力で問答を終えた。そこで、グレイブスはようやっと、後ろで固まっていた2人に目を向ける。
「それで、これはどういう状況だね」
ティナが、しどろもどろに事の顛末を報告すると、深いため息が返される。ぼうっと2人を見つめていた妹を小突き、ぱとぱちと瞬いて現実に戻ってきたクイニーも、謝罪を述べた。ティナも深々と頭を下げた。
「本当に、申し訳ありません」
自分も、と立ち上がったナマエが、それにならおうとしたのを、制したのはグレイブスその人だった。
「君は、運が悪かったな」
「でも……」
「水を被っただけだ。……その傘はもう、直ったようだしな」
ほ、と息をついた3人。おもむろに、グレイブスは杖を取り出した。そして、残りのガラクタの魔法を解除に取りかかる。ティナとクイニーで水を掃き、ナマエも自身の机の片づけはじめた。
しかし、先ほど机の上に置いていた書類の何枚かは、インクが滲んでいてどうしようもない。ナマエは途方に暮れた。
「どうした」
「っ、」
手元をのぞき込んできたグレイブスの近さにナマエは息を呑む。そんな彼女の狼狽をよそに、グレイブスの表情は崩れない。だが、クイニ―には彼の黒い瞳が抜け目なく光ったように思えた。
「私の部屋に来なさい。写しがあったはずだ」
「え、本当ですか」
よかったあ、と心底安心したらしいナマエに、ほんの少し、グレイブスは口の端を緩めた。ナマエは、顔を赤らめて居住まいを正す
「すみません…」
「構わない」
ナマエに向ける瞳は、どうも熱い。ナマエは気づいていないが。
「っ、くしゅん」
くしゃみをしたナマエに、グレイブスは自分と彼女の服を乾かして、あまつさえコートを着せかける。このあたりで、ティナもようやっと、事情を察した。
「いや、これ長官の、」
「着ていなさい」
両肩をしっかりと抑えられて、戸惑いつつ頷いたナマエ。グレイブスはひたすら恐縮している彼女を促して出て行った。その堂々たる足取りには、彼の満足感がよく表れているようだった。
「……何、あれ」
呆然としていたティナが、ようやくそう呟いた。そもそも、たかだか書類一枚のことで長官自らが出向くということが奇妙なのだ。
閉心術士の使い手であるグレイブスも、突然の放水に気を取られたらしく、ナマエへの想いがクイニ―に伝わって来た。
濡れた相手に見とれたのはお互い様。その後、きっちりとクイニ―に対して心を閉ざした後のグレイブスの行動は、おそらく確信犯だろう。
水も滴る、
「あの、服も乾いたしそろそろ……」
「茶を淹れよう。温まる」
「そんな悪いです。その、お忙しいんでしょう?」
「ピッカリ―議長に、少し休めと叱られたばかりなんだ」
「ええと……」
「付き合ってくれると助かる」
「……はい(負けた)」