U.N.C.L.E.が結成されてからは、ナポレオン、イリヤ、ギャビーといった初期からのメンバーも、いつも仲良く任務にあたっているわけではない。主要人員の一人であるナポレオン・ソロが、設定されて間もない本部に戻ってきたのも、数か月ぶりのことだ。
報告のために、ウェーバリーのオフィス兼ラウンジに向かえば、珍しくイリヤもギャビーも揃っていて、呑気に声をかけてくるのに苦笑。ウェーバリーも、報告に耳を傾けながら、ティーカップも傾けて。チームの親睦の為などと言って、自身のオフィスを寛ぎの場所として提供しているが、秘密組織としてどうなのだろうかと、思わずにはいられない。
まあ、紳士の皮を剥いでしまえば、食えない狸ジジイに違いないウェーバリーのことだ。有能なエージェントと言われているナポレオンやイリヤに、書類の一つや二つ見られても、どうということはないのだろう。

「ご苦労。くつろぎたまえ」

今も穏やかな笑みを浮かべているが、細められた瞳の奥には、たとえるなら飼い犬が行儀よく仕込んだ芸をそつなくこなして見せた時のような――、そんな満足気な光がたゆたっている。どうも、と笑い、瀟洒な椅子に腰かける。ギャビーが、同情とともにうまいお茶を淹れてくれた。
ナポレオンもイリヤもギャビーも、ウェーバリーの手の内で弄ばれるだけ――。まあ、ナポレオンにしてみれば、組織に属することの窮屈さはもちろんあったが、こうして皆が揃って紅茶を飲むような時間は、わりと嫌いではない。

「おいしいよ、ありがとう」

微笑めば、ギャビーも笑い返す。イリヤは、そんなナポレオンとギャビーを見て、満更でもなさそうにふん、と鼻を鳴らした。


イリヤは数日前まで南米、ギャビーはウェーバリーのもとで一流のスパイになるべく訓練を積んでいる。そんな他愛のない近況報告をしていた時だ。これまた、一応組織のトップの部屋としてどうかと思うのだが、ウェーバリーの指示で日頃から開けっ放しになっている扉の向こうが少しばかり騒がしくなった。

「ああ、そいうえば、今日はKGBから新人が来るんだった」

呑気にウェーバリーがひとりごちたのを聞きながら、自然3人の視線はそちらに向かった。U.N.C.L.E.設立時に同じくKGBから引き抜かれたエージェントの案内で、件の人物が顔を出す。小柄な女性――。
そう認識するや、ナポレオンの口元に笑みが浮かぶ。最早条件反射のようなものだ。しかし、
――がたっ、
かちゃん、とカップがソーサーにぶつかる音がして、通り抜けた風がギャビーの髪を揺らし、ソロは状況が呑み込めずに、ぱちり、と緩慢に瞬いた。
瞬く寸前に見えた光景――すなわち、新人エージェントに脇目も振らずに飛び掛かっていくイリヤに、ものすごく既視感を覚えたのだ。場所は公園のトイレではないが。
そんなイリヤを見るなり、その新人は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、無駄なく上体を捻ってタックルを避ける。ギャビーはぽかんと口を開けているし、ウェーバリーは笑いを堪えるのに必死だ。おそらくこの状況を予期していたのだろう。
ナポレオンは、そんな2人を呆然と見ていたロシア人エージェントが巻き込まれぬよう、室内に引っ張ってやった。
その間にも、イリヤと新人は、激しい攻防戦を繰り広げている。その体格差は新人の圧倒的不利――しかし彼女は、ひょいひょいと身軽に掴みかかる大きな手を避けては、的確に急所を狙っている。何の躊躇もなくイリヤの顎に叩きこまれた掌底は、小柄で愛くるしい見かけを裏切る獰猛さを帯びて、素早い。
しかし、目を引くのはそこではない。どれだけ蹴られようと、イリヤの顔はいつになく明るいもころではなく、満面の笑みなのだ。

「……キモいわ」

ギャビーの一言が、様子を見守っている全員の心情を表していた。ウェーバリーが止めに入ってようやく、2人は戦闘態勢を解いたのだった。


言い添えておけば、イリヤとギャビーの間に恋愛感情はなかった。傍目にも、イリヤは怒るだろうが、正直姉と弟にしか見えない。
それはさておき、ナマエ・ミョウジと名乗った新人は、よろしくお願いしますと頭を下げた後に、疲れ切った顔でため息をついた。

「ナマエはクリヤキンと同期でね。まあ、もう彼女の実力はわかっただろう?クリヤキンに勝るとも劣らない有能なエージェントだ。ただ、不運だったのは、KGBの古ダヌキが女性の活躍をあまり認めなかったことだね。U.N.C.L.E.にはギャビーの他にも女性エージェントがいるからね。期待してるよ」

はい、と短く顎を引いて答えるナマエ、とその背後にべっとりと取り憑いているイリヤ。悪いが奴が気になって、ウェーバリーの言葉も右から左だ。

「ガブリエラ・テラーよ。ギャビーって呼んで」
「では私も、ナマエと」
「堅苦しいのはなしよ、ナマエ」
「……わかった」

早くも握手を交わし、打ち解けた雰囲気になっている女性同士を、ウェーバリーは微笑まし気に見つめている。ナポレオンも、極力イリヤを視界に入れないようににこやかに手を差し出した。

「ナポレオン・ソロだ。よろしく」
「お噂はかねがね」
「それは光栄だ」

にこりとお互いに含みのある笑みを向け合っていると、唸り声がイリヤから洩れる。まるで母親を取られて不満そうな子供だ。やれやれとナポレオンが肩を竦めてからかいの言葉を探していると、ナマエの手が動く。
ひくり、とナポレオンの笑みがひきつった。慣れた仕草でイリヤのでこっぱちをぺちぺちと叩いているナマエの顔は、ひどく面倒くさそうだ。
耐えきれず、ナポレオンは聞いた。

「あの、君たちはいったいどういう関係なんだい?」

きょとん、としたナマエは、ウェーバリーを見て、ひとつため息をついた。相変わらず人が悪い。
ナマエの手をがっちりと握り、口と鼻を押し付けて匂いを嗅いでいるイリヤを見やり、言った。



「まあ、指輪もつけてないし、姓も別だしねえ」

仕事の引継ぎ書類や、これまでの任務書類など、読み終わったそれらを手で整えて、ナマエは視線をずらした。後ろから覆いかぶさるように、ナマエの肩に鼻先を擦りつけてはがじがじと歯を立てている大きな子供。
サイドテーブルに書類をきちんと避難させ、よいしょ、と、身体を浮かせて、胡坐をかいているイリヤと向かい合う。
ずっとしゃぶられていた肩口がすうすうと寒く、物足りなさそうに開いたイリヤの口端に親指を突っ込めば、はっ、はっと、まるで犬のような息が零れていく。

「……はは、余裕なさすぎ」

鼻の頭にちょっぴり皺を寄せた顔はいかにも不満げだ。同じようにイリヤの太い親指がナマエの口に差し込まれて、ぐいと横に引っ張る。わざと不自由にして、お互いが必死に舌を伸ばすなんて、滑稽だ。
イリヤは、犬が器に入れられた飲み水を舐めとるみたいに、ナマエの口内をかき混ぜていた。まるで喉の乾いた獣だ。ちゅ、ぢゅう、と痛いほどに舌を吸われて、じんじんと脊髄が痺れていく。
んぐ、と、ナマエは喉奥に溜まった唾液を、苦し気に飲み干す。イリヤが満足そうに瞳を細めて、大きな手が、ナイトウェアの裾からそろそろと侵入を開始した。性急に動き回る湿った手は、驚くほどに熱かった。


あの時も、そうだ。まるで熱でもあるのかと思うぐらいに。
国境近くの紛争地帯に自分と同じくKGBの人間が紛れ込んでいることは知っていた。ナマエの目的は、政府に刃向かう武装集団に捕らわれた仲間を救い出すこと。上司から、そのもう1人を向かわせるかと訊ねられたが、答えは敵を制圧したという報告に代えた。
ふと気が緩んだ一瞬、背後に立った気配にナマエは回し蹴りを放つ。
確かな手ごたえを感じたものの、腹を押さえて呻き、尻餅をついた男をナマエは瞬いて見つめた。苦しそうに咳き込んでいた男は、しかしすぐに、ロシア帽の下から、熱っぽい瞳でナマエを見上げて言った。
同期とはいえ、個別の任務が多く、顔を合わせることはほぼ初めてに等しかった。KGB随一のエージェント、常に日陰を歩くナマエと異なり、脚光を浴びているイリヤ・クリヤキン。

「――好きだ」

分厚い手袋を煩わしそうに投げ捨てて、虚を突かれて固まっていたナマエの手を掬いあげる。こちらが怯むほどの熱は、自分に対してだけのものだと、後に知った。

猛烈なアプローチを受けて、ナマエは結果から言えば、絆された。イリヤを可愛がる直属の上司の根回しもあり、ナマエとイリヤは秘密裏に結婚した。条件は一つ――仕事は絶対に辞めない。


口で口を覆うようにぴったりと隙間なく塞がれて、舌が這い合わされる。ふー、ふー、と荒い息を漏らしているイリヤの手は、今は震えることなく、ナマエの手と絡んでいた。
結婚後、2人でこなす任務が増え、ナマエとイリヤには妙なあだ名がついた。クズリとシロクマ。小柄で愛くるしい外見を裏切って狂暴な獣と、大柄な体躯にふさわしく地上最強といわれる獣。わりあいナマエはその呼び名を気に入っていた。日陰者の自分がイリヤの傍にいることを認められたように感じたのだ。
……それに、クズリはどれだけ相手が自分よりも大きく、強くとも、執念深く食らいついて、時として命すら奪う。ナマエはイリヤを決してひとりぼっちにはしないから、当たらずとも遠からず。なんて。


獣愛