ジャーヴィスは、珍しくも、困る、という状態になっていた。
彼のメーンブレインの現在地は、主人であるトニー・スタークのモバイルの中、――さらに正確に言えば、彼が用を足した際に個室の荷物置きに忘れられて、そろそろ十数分が経とうとしている。
今夜の主賓であるトニー・スタークはあちこちに引っ張りだこであり、レストルームに来た際には、わざわざ個室を選び、滔々と悪態を垂れるほどには、疲れ果てていた。その時、ジャーヴィスの存在は、主の頭からは忙殺されていたのだろう。
モバイルのすべての機能に、ロックをかけて、マリブの邸にいったん引き上げようかと思考した時――、闖入者があった。


「ちょっと!ダン、やめ、」

もが、と、口を塞がれたらしい若い女性の声。暴れるような物音が続き、ジャーヴィスのいる隣の個室のドアが乱暴に開いて、閉まる。

「んーーーーーーーー!!!」

レイプ、強姦――、ジャーヴィスも知識として知っていた。主賓であるトニーの顔に泥を塗らないために、声を発した。

『ダン・フロウズ様ですね。あまり、感心する行為とは思いませんが』
「だ、誰だ!?」
『会話はすべて録音しています。セキュリティを呼びましょうか』

沈黙の後に、悪態と鍵の開く音、ぶつかりながら走り去る足音に、ひとまず安心する。ジャーヴィスは、この場合の対応として、正しく静かに待った。

「――あの……、」
『はい』
「ありがとう、ございます」
『いえ、当然のことをしたまでです』

そろそろと身動きし、かちゃり、と鍵を閉める音がした。襲われた直後の、身を守るための心理状態は、察しがつく。

『――お名前を、聞いても?』
「ナマエです。ナマエ・ミョウジ」

やはり――、と納得がいく。資産家フロウズの息子がずいぶん入れ込んでいると噂の、令嬢だ。彼女に関するデータを検索していると、遠慮がちながら、わりあいしっかりとした声がかかる。

「あの、あなたは?」
『これは、失礼を。ジャーヴィス、と申します』

ジャーヴィス、と小さく反芻するナマエは、ふう、と息を吐いた。

「もう少し落ち着くまで、……話し相手になってもらっても、いいですか?」
『私でよろしければ』


「……スタークさんに、ずっと憧れてたんです」

ダンとは2人きりにならないように気をつけていたのだが、今夜は、興奮からかどうしても気がゆるんでしまった。お酒によってストッパーが外れたというのもあるだろうが、容赦のない力で、個室に押し込められて――、その恐怖を忘れるように、ナマエは、便器の蓋の上で、膝を抱える。

「少しだけど、お話しできて、しかも私のつたない論文まで褒めていただいて、もう嬉しくって」
『ご謙遜を。スターク氏は実のないお世辞は得意ではありませんよ』
「ふふ、だったら余計嬉しいな」

壁の向こう側にいるのが、まさか人ではなく端末だとも思わず、ナマエは笑う。

「――ジャーヴィスさんは、どんな人なのかな」

ふと、気になったことを、無邪気に聞いた、といった様子に、ジャーヴィスは、ほんの少しだけ、珍しくも言語回路をつまらせた。

『……どう、思われますか』
「んー、そうだな……」

四角く切り取られた天井を見上げて、ナマエは顎に手をやった。

「背が高くて、ちょっととっつきにくそう。真面目すぎる、堅物?スーツとか、すごく似合いそう」
『なるほど』
「髪は、色の薄いブロンドで、目は、そうだな――……、ブルー、とか」

どうですか、とナマエが、聞いても、壁の向こうの恩人は、低く笑うだけ。ナマエは、む、と口をとがらせる。

「ジャーヴィスさんも、当ててみてくださいよ」
『……いいですよ』

なんだか愉快げな声に、次々に、自分の特徴を言い当てられて、ナマエは目を丸くして、信じられない、とばかりに声をあげた。

「絶対、なんかズルしてるでしょ」
『さて、何のことでしょう』

低く穏やかな声が、くすくすと笑い混じりに、楽しい時間に終わりを告げた。

『そろそろお開きになる頃でしょう。ナマエ様も、戻られた方がよろしいかと』
「なんだか納得できないよ……」
『次お会いする時を、楽しみにしておりますよ』

これ以上はだめだ、とばかりに口を閉ざしたジャーヴィス。ふう、とナマエは、ため息に似た吐息をつく。

「今度は壁越しじゃなくてね。素敵な夜をありがとう、ジャーヴィスさん」
『ええ』

かちゃり、かつ、かつ、かつ――……、と、ヒールの足音が去っていくのに、ジャーヴィスは、タイミングよく主から届いたメールに、返事を返した。



「J、ゲスト用のレストルームの入り口が、何故かずっとロックされたままだったらしいが」
『何のことだかわかりかねます、Sir』
「ほう、しらをきるか。ミョウジの令嬢とは、おまえもなかなかやるな。誰に似たんだ」
『……十中八九、貴方でしょうね』
「認めたな。で、どうするんだ」

にやにやとした顔を向けてくる主に、ジャーヴィスはほんの一瞬、沈黙した。
そして音声ログに残したままの、ナマエの紡いだ想像を、3D化して展開する。

『私に、ボディを』

頂けませんか、と、日に日に進化を重ねていくA.I.に、トニーは誇らしさを浮かべて笑った。

「勿論だとも、息子よ」



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