これは、ニューヨークの戦いからしばらく――、S.H.I.E.L.D.は解体され、本部は移転を繰り返し、アベンジャーズの面々も、いたり、いなかったり、――そんな、ごたついていた時期の、ある日のことである。

「――Mr.ロジャース」

ランチを食べている暇もない、とばかりに、忙しなく人の行き交う廊下にて、きれいな発音で名を呼ばれた。任務と休日以外は、アベンジャーズメンバーで唯一、本部に常駐しているキャプテンアメリカこと――スティーブ・ロジャースの肩が、びくり、と跳ね、その揺るぎない歩みも止まる。
おそるおそる振り返った先。仁王立つ人物に、ぱっと、顔を輝かせものの、しかし彼女の纏う雰囲気は、ランチのお誘い、というわけではなさそうだ。
少し、よろしいですか、と慇懃に断り、先導する彼女の後ろを、心持ち歩幅小さく歩いていくスティーブ。彼女が公的な時間外――今日のようにランチの時間に、Mr.と呼んでくる場合、たいていは、怒っている。それも、とんでもなく、怒っている。


彼女の名前は、ナマエ。S.H.I.E.L.D.内部のヒドラが掃討された後に出会い、今ではスティーブの恋人である。
仕事の際して素っ気なくまとめられてしまっているけれど、スティーブがいつも目を奪われる、丁寧に手入れされている髪。知性にあふれた瞳は真っ直ぐで、相手が、例えば国民的英雄という立場であろうと、少しも怯まない豪胆さに、すっかりのめりこんでいる。
スティーブ・ロジャースの持つ唯一の弱点――、とは、盟友アイアンマンの言葉だ。


椅子をすすめられて座ったものの、スティーブは、じんわりと手に浮かぶ汗を握りしめて、落ち着かなさげに、目の前のナマエを見上げた。
腕を組み、とんとん、と利き手の指がタップを繰り返している。眉間には、がっつりと皺が刻まれている。
何か彼女が怒るようなことをしでかしただろうか。……どちらかと言えば、彼女が忙しそうで、寂しかったという、不満があるぐらいだ。
ふう、というため息に、スティーブの強いはずの心臓が縮みあがる。

「――状況は理解しています。いえ、したくはありませんが。……逃走中で、やむをえなかった、と。その弁解も、受け入れましょう」

そんなナマエの言葉に、瞬間的に怪訝な顔をしたスティーブは、しかし、あ、と間抜けた声をあげる。彼の脳内では、今回の事態を引き起こしてくれたであろうブラック・ウィドウが、魔女のようにほくそ笑んでいた。

「ナターシャと、……キス、したらしいですね」

彼女も彼女で、決して落ち着いているというわけではないらしい。眉間の皺はそのままだが、いつになく歯切れが悪い。
それを嬉しく感じつつも、しかし笑ったら怒られるので、そこはぐっとこらえる。これ以上神経を逆撫でしないように、そろりと手を伸ばして、細い腰を引き寄せた。自分の太股の上に腰掛けさせて、色濃い疲労の落ちた頬に手を当てる。

「本当だよ。でも――、仕方なくだ」

こつん、と額を合わせて言ったスティーブに、ナマエの、感情が高ぶったせいか、色味の濃く見える瞳がぎゅっと歪んだ。

「わかってる……」

けど、嫌だった、と小さな声でぼそぼそ続く。そもそも、ナマエとスティーブが出会う前の、話だ。だけど、だからこそ、嫌、だった。ナターシャのことも大好きだから、よけいに。
……寂しくかったのはお互い様だったのだと、首に腕を回してきたナマエの背を、優しく撫でる。スティーブは、頭の中で、この先のスケジュールを確認した。
に、と一瞬だけヒーローらしからぬ笑みを浮かべたかと思うと、まずは、昼休みめいっぱいをつかって、愛しくてやまないかわいい恋人のケアにつとめたのだった。



は、は、と浅く息をついて、ナマエはシーツの上に突っ伏していた。にこにこと笑みを浮かべて、水のペットボトルを差し出してくる恋人を、ぼんやりと見つめる。
いったい、何がどうして、こうなったのかを考えながら。
腰が痛い、というか全身痛い、喉痛い、と、喋る気力もないままに、じっとりと見つめてくるナマエ。スティーブは、何かを思いついたようで顔を輝かせると、しどけない姿の彼女をいそいほと自分の膝に乗せる。器用に片手でフタをはね飛ばすと、少量を口に含んで、もはやされるがままのナマエに口づけた。
かいがいしく世話されながら、ナマエは、もう一度自問した。――どうして、こうなった、と。
『一週間、お休みをもらったんだ』
あの昼休みの日の夜、嬉々として現れたスティーブによって、デスクワークを片していたナマエは、なかば拉致される形で、連れ出された。
そして、連行された彼の自室にて。ちなみに、文字通り、ナマエは、オフィスを出てからここにいたるまで、地上に挨拶していない。ようやくソファに、……まちがえた、ソファに座ったスティーブの上におろされた。
呆気にとられていたナマエの文句が飛び出す前に、スティーブの空色の瞳が、それを封じた。真剣な表情から一転、少し照れくさそうに笑んだかと思うと、隠しきれない熱っぽさを、その吐息に混ぜながら、こう言うのだ。
――キス、したくなったんだ、いっぱい。
まるで尻の青いティーンのような言葉を囁かれて、ナマエの頭がショートしたときには、きれいなピンクに色づいた唇がナマエのそれを、塞いでいた。


「、っ、んんっ!!」

ちゅ、とか、そんな生易しくはない音がして、深くなっていたキスが解かれる。じんじんと痛むそこは多分吸われすぎて腫れてる。泣きそうになりながら、ナマエは、ようやく回想という名の現実逃避から戻ってきた。
き、と、スティーブを睨めば、それだけでしょんぼりとした彼の頭には、へたれた耳が見るような気がしてくる。心を鬼にして、離れようとするけれど、限界まで鍛えられているぶ厚い胸板だとか、ぶっとい腕はまったく解かれる気配がない。

「…………嫌?」
「ぅぐっ」

こてんと、まさにそんな音がしそうに首を傾げるなんて卑怯だ。ひとしきり唸った後に、ナマエは、しかたなくそのチャーミングな唇にちょんと、己のそれをつける。ぼふん、と、ベッドに逆戻りすることになり――、一瞬でナマエを後悔が襲った。
女性は求められることに喜びを感じる、とか言うが、それは常識の範囲内での話である。ぐずぐずに溶ける前に、頭を掠めたのは、休みがちゃんと一週間で終わりますように、という、切なる願いであった。



「そういえば、まだナマエを見かけていないな」

任務から帰ってきたバートンが、ざっとあたりを見回して、そうぽつりと言った。なんだか、やけにつやつやしているようなキャプテン・アメリカの姿に、首を傾げる。
ナマエは、アベンジャーズの中でも、かわいがられている。報告書の指導をしていたナターシャが、ああ、と、バートンのミスを指摘しながら言う。

「筋肉痛で、熱出したそうよ。ここ、記入ミス」
「はあ?なんでだよ。ああくそ、しまった」

なんでこんな面倒くさいものを書かねばならんのか、と、まるで敵を見据えるような鋭い視線で紙を睨みつけるバートン。

「ヒーローの相手は、敵にしろ、恋人にしろ、大変ってことよ。新しいのもらってきたほうがよさそうね」
「――ああ、なるほどな」

頼んだよ、と、ハンズアップしたバートンが、投げやりな口調で答えた。
ナマエの復帰が、一週間ずれこんだのは、言うまでもない。それから、忠犬よろしくご機嫌とりをするヒーローの姿があったのも。



飼い犬に手をかまれる