コードを打ち込めば、ドアは簡単に開いた。それに知らず詰めていたらしい息を深々と吐き出す。

「ブルース、」

室内に踏み込まずに、まずそう声をかけた。

彼がラボに籠もってそろそろ2週間になろうという頃だ。
私には理解しえない最新式の'オモチャ'たちで埋め尽くされ、簡易キッチンにユニットバスつきで生活もできるこの場所は、彼の、彼だけのお城だ。
ドアのセキュリティコードを設定しながら、嬉しそうにはにかんでいたブルースを思えば、トニーには感謝しかない。
……緑の男が暴れだそうものなら、ジャーヴィスの判断で鎮静化が行われるようプログラムが組まれているとしても、ここにいてくれるなら、と目を瞑っていた。
セキュリティコードを知っているのは、アベンジャーズのメンバーとそれからーーわたし。教えてもらったのはちょうど数ヶ月前の今日。ブルースがわたしを好きだといい、嬉しい、と返したあの日だ。


「ブルース、」

もう一度呼ぶけれど、画面を操作する手は一切止まらず、グラフの値をいじくりまわす背中が振り向くことはない。無造作な髪に、がっしりとした背中は、穏やかな雰囲気と相まってクマを思わせる。振り返ってくれなければ、心は冷えていくばかり。
くたびれたシャツに目を止める。シャワーは浴びているようだけど。

「……だいじょうぶなの」

こつり、と足を踏み出せば、敏感にも3メートル先の肩が大げさなほど揺れる。止まれだとか、出て行けだとか、制止の言葉がないのを確認して、また一歩。背後でドアが閉まる。
近づけば近づくほど、ブルースが震えているのがよくわかった。
どうしたの?と聞きたかった。わたしが何かしてしまった?とも。
蜜月は、穏やかなものだった。好きだと言い合い、抱きしめ、寄り添う。キスは、触れるだけ、でも満たされていたのにーーーー彼は違ったのだろうか。

……ある日を境に、彼はラボから出てこなくなった。トニーを通じてシールドの仕事をすませるようになった彼は、トニーの口を借りてこうも言ってきた。しばらく会えない、って。
特異な体質を抱えているブルースだから、わたしは待つことにした。泣きたかったのを我慢して、頷いたのに。

「っ、トニーがここに来るように言ったから、もういいのかな、って」
「…っ…………、」

苦しげな声が漏らされて、もどかしい距離を残したまま、足が止まる。辛い、苦しい、そんな負の感情が露わになった顔が、画面に反射して見えた。

「ブルース、」

なんて、情けなく、甘ったれた声だろうか。じわりと視界が滲む。彼の荒くなる一方の呼吸に、伸ばしかけた手を握りしめて、後退る。
何も言ってくれないのが辛い。振り向いてくれない背中の前にいるのは、堪えられそうにない。

「、ごめんなさい」
好きよ、と囁くように言って、踵を返した。もつれそうな足を、必死で動かせば、小走りにすらなる。トニーがなぜあんなにも真剣な顔で、わたしをここに寄越したのかがわからなかった。傷ついたままだった心が、もう壊れてしまいそうだ。

「……?、」

溢れた涙を拭い、たどり着いたドアを見上げる。どうして、開かないの。早く出て行ってしまいたいのに、わたしがいるとブルースがーー、

びきっ、と耳を塞ぎたくなるような肉質の音が、響いた。ふーっ、ふーっ、と一定の間隔で聞こえていた呼気は、詰まりながらも、大きく太くなっていく。
ゆっくりと振り向けば、鈍い光を湛えた緑の瞳が、わたしを捉えた。緑に染まった大きな手が伸びてきて、わたしは、微笑んだのだと思う。緑の彼なら、わたしを傷つけない、そう、わかっていたから。



糸が切れたように傾いだナマエは、咄嗟に差し出した'ハルク'の手の上にくたりと倒れたまま、動く気配はない。
羽のように軽い肢体は柔らかく手になじみ、'ハルク'はふんっと息を吐き出して、ナマエを抱え直し、その場にしゃがみ込んだ。広く強靭な背中で扉を塞ぐように。
これは僕の意思じゃない。もうすでに、ナマエが来てすぐに、トニーによって中からも外からも開けられなくしてあった。

'ハルク'もまたナマエを慕っている。当たり前だ、'ハルク'も僕の一部なのだから。
僕のことをいちばんよく知っていて、理解すらしている。
僕の思考の中でだけ、'ハルク'はよく喋る。乱暴な口調で。時として、別人格のように振る舞うのが、不思議だ。
ナマエはそれをよくわかっているみたいだった。


『いつもブルースを支えてくれてありがとう』
はじめて'ハルク'に会った時、ナマエはうち笑ってそう言った。'ハルク'の内側で身を縮め、彼女に怖がられることを恐れていた僕を彼は鼻で笑いさえした。阿呆め、と。

'ハルク'の太い指が、ナマエの顔にかかる髪をよけて、涙の流れた跡が、'ハルク'の内側から眺めている僕にも、よく見えるようになる。その手つきの繊細さに意外だな、と思えば、'ハルク'は不満であるとばかりに低く唸った。
僕のせいで、'ハルク'は壊してばかりだと思われがちだけど、ナマエに接する時の彼の見せる優しさが、僕には恥ずかしくて仕方ない。
俺はお前がしたいことを代わりにしてやってるんだ、そう言われた時には面食らって、そして納得した。

ーーあ、こら。
べろり。'ハルク'が、その大きな舌でナマエの目尻を舐めた。
……甘いなあ。感覚を共有してるから、'ハルク'が舌を動かすたびにしょっぱさが伝わる。でも甘い。怪物じみた分厚い舌が、ナマエの柔らかい頬をなぶる衝撃的な光景に、頭の奥がチカチカした。


ーーナマエが君不足で限界だぞ、と。苦笑交じりに教えてくれたのはトニーだった。
おまえがわるい。ふと浮かんできた'ハルク'の言葉に、ぽりぽりと頬を掻いてしまう。……本当に、ナマエが気に病むことなんて一つもない。僕が悪いのだ。
'ハルク'はこの2週間、よく付き合ってくれたと思う。
僕は、ナマエを愛しすぎた。歯止めがきかなくなりそうなのが恐ろしくてーー、ささやかな触れ合いで満ち足りた顔をするナマエを怯えさせてしまいそうで、嫌だった。
触れるところはどこもかしこも柔らかくて、いつもおっかなびっくりだった。向けられる笑顔はほろほろと溶けてーー、いつか手が届かなくなってしまいそうで、怖くなる。

考えすぎるのが君の悪い癖だな、とトニーに笑われた。本当に、そうだ。しかも悪いほうにばかり考えすぎて、自分でどつぼに嵌まっている。
手が届かなくなる前に、自分がーー、なんて。
そこに行き着いた自分に戦慄した。だから、理性が、'ハルク'が、彼女を遠ざけた。
今も、'ハルク'の巨躯に包まれるナマエの姿に、言いようのない安堵を覚えている。僕が望めば、一瞬で、ナマエは紙切れみたいに屠られる。
華奢な首は、小枝を折るよりも容易いだろう。それとも、殺さずに手足を千切って仕舞えば、ナマエは僕に依存してくれる?
醜い緑の檻の中で、安心しきって眠る君が、愛おしくて、そして憎たらしい。

『ブルース、』

と、ナマエの甘い哀願が脳裏に蘇る。好きよ、という囁きが、どろどろと理性を溶かそうとする。すきすき、大好き、あいしてるーーだから、君を、この手で……。
'ハルク'が咆哮した。実際には、吠えているわけじゃない。びりびりとした警告が、思考の内側からぶつかってきて、頭が、視界が、ぐわんと揺れた。



ぱちん、とあぶくが割れたみたいな感覚に、ゆっくりと目を開ければ、ドアにもたれたままのブルースに、わたしは横抱きにされていた。

「……おはよう、」

眠っていたわけではないだろうけれど、ゆっくりと目を開けたブルースは、唇にわたしが好きな日だまりに似た笑顔を浮かべた。緑でない瞳は柔らかくて、ほっとする。

「ハルクは、帰ったの」
「……うん。ようやく、眠ってくれたよ」

優しい手つきで頭を撫でられて、肩にもたれかかった。最近ずっと不安定で、だから危なくないようにわたしを遠ざけていたんだと。

「……よかった。わたしが、何かしてしまったのかと」
「……、……ごめん」
「いいの」

いいのよ、と俯いてしまった頬を両手で挟んだ。ちらちらと弾ける緑の光を、瞳の奥に見つけて、笑う。

「きすして、っ、ん」
「、っは、ナマエ、」

ちゅるり、と忍び込んできた舌。散々に荒らされて、はあっ、と息を漏らせば、許さないと塞ぎ直される。

……本当はね、ハルクの人差し指と親指がぐうるりと首に絡んできたのを知っているの。
ぐぐぐ、とかかった力に、容赦はなくて、酸素を欲して喘いだ。ブルースが望むなら、全部あげるから、泣かないで。そう言いたかったのに、わたしは意識を失ってしまった。

「ぶる、す、」
「ごめん。っナマエ、ごめん」
「泣かないで」
「うん」
「全部ブルースにあげるから」
「……うん、」

ぼろぼろと溢れる雫を、ブルースの少しかさついた唇が吸い取っていく。ぽたりぽたり、とブルースの流す涙が混ざった雫を舐め取れば、じんわりと甘い気がした。

できるなら一緒に。
そうしたら、きっと、寂しくないから。



啾啾