ふう、と耳元に息を吹きかけられて、反射的な悪寒が背筋を這った。

「お、か、え、り」
「…………チッ」
「ちょっとお、舌打ちはないんじゃない?」

真っ赤なルージュを塗った唇が不満げに尖る。ラムロウの肩に絡みついた指には、艶やかなマニキュア。そういうものが文句なく似合ってしまう、ナマエは、いかにもヒドラらしい美女だった。

「……うぜえ。報告まとめなきゃいけねえんだよ」
「やってあげる」

にっこりと口角を吊り上げたナマエは、見た目を裏切る力で、ラムロウの関節をきっちり押さえてくる。

「……外すなよ?」

笑みを崩さないナマエに、ため息をついて、ラムロウは歩き出す。彼女は上機嫌で、腕を絡めてついてきた。



「ふんふん、女の子の誘いは断っちゃうのね、ほんとかわいいわねキャプテンって」
「……前まで、アイアンマンに騒いでなかったか?」
「んー……なんか彼女と仲良くやってるらしい、って聞いてから萎えちゃって。プレイボーイって、びっくりするほど純情で一途なのよね。ガード固いのよ、意外と」

ラムロウが、だらだらと並べ立てる、ストライカーズの活動や、アベンジャーズの動向。それらを一度聞いただけで、書類にまとめてしまえるのはナマエが優秀だからだ。それは、ラムロウも評価していた。
だが、いかんせん、ナマエは性に奔放で、潔癖な気のあるラムロウにしてみたら、玉に瑕、としか思えない。

「そう言えば、バナーが、本部に顔を出してた」
「えっ」

きらり、とナマエの瞳が光る。アベンジャーズの中でも、ハルクはナマエのお気に入りだ。
『ハルクって欲望が全部、暴れることで昇華されてそうなのよね。……試したかったのに』
何を、とは、ラムロウは聞かない。やぶ蛇だ。
ナマエは自身を、サディストでも、マゾヒストでもないのだという。どちらもイケるから、自分はノーマルだ、と豪語するナマエは真性の変態で、頭がおかしい。
まあ、ここに、まともな人間なんていないだろうか。

「すぐに帰ったがな」
「……なあんだ」

意外にもあっさり、ナマエは引き下がる。そんなラムロウに気がついたのかナマエは口を尖らせた。書き終えた書類を、とんとん、と揃えて、置いた。

「ハルクにも、ブラック・ウィドウがいるもの。彼女、嫌いじゃないわ」
「……まさか、」

ラムロウの頭によぎったであろう、卑猥な光景に、顔を顰めたは、ナマエのほうだった。

「嫌ねえ、女の子には手出さないわよ?そこまで節操なくないわ」
「嘘こけ、クソアマ」

一時期は、チタウリってついてるのかしら、とぼやいていたナマエ。噂でウィンター・ソルジャーとも実験にかこつけて関係したとか聞いたが、真偽は確かめたくもない。

「雷の神様にもかわいい恋人がいるみたいだし……何だかつまらない。……ねえ、ラムロウ?」

くるくると毛先をいじりながら、伏し目がちな色の乗った視線を送られて、ラムロウは中指を立てる。怖気が立つ、と吐き捨てて。
ナマエは、何も言わずに、笑った。



ヘリキャリアが突っ込んできた時のことを、ラムロウはよく覚えていないが、次に目を覚ましたのは、担架の上で。ぼんやりと、流れていく天井を見つめた。

「ラムロウ、」

ナマエが微笑んでいた。人を絡め取ろうとする色香の滴るようなそれではない。ラムロウだけが知っている、底抜けに晴れた空のような、笑み。
クソが、と動かない口を動かして、打ち消すが、薄暗い廊下のどこにも、ナマエなんて、いなかった。
死ぬときに見るという走馬灯かとも思ったが、こういう時に出てくるのが、彼女の笑顔であることに、ラムロウは苛立った。違う、と、自分がさらに何を打ち消しているのかも、気づかずに、また意識がどこかへと落ち込んでいった。

新聞をめくる音がする。それを皮切りに、徐々に、徐々に、聞こえる音が増えていく。鳥の声、外を走っていく子供の声。車のエンジン音。
時々、音のかすれるラジオが流しているのはーー、聞き覚えのあるシャンソンだ。よく、ナマエが、口遊んでいた、と、ぼんやりと考えて、汚れた天井を見上げた。

「……お、は、よ」

ふう、と、深いため息が、ラムロウの頬を撫でた。うまく動かない首を動かして、傍に足を組んで座る人物を見上げる。ぱちり、と緩慢に瞬いた。

「…ナマエ」

ラムロウの引き連れた目元が、驚きでわずかに動いた。
適当に括られた黒髪。化粧っ気のない素顔と、ラフなシャツにジーパン。美しさは変わらないけれど、随分と新鮮な、姿で、ナマエが笑っていたから。

「起きるの遅すぎ。待ちくたびれたよ」
「…………うるせえよ、」

……ねえ、ラムロウ。くるくると、毛先に指を絡めて、ナマエは、言った。

「一緒に住もうよ」
「……、…………はあ?」
「ウィドウに、ヒドラの情報売ったら、そこそこまとまったお金になったんだよね」

ファッキンヒドラ、と戯けたように言ったナマエ。家を買ったから、ラムロウにあげる、と。ラムロウが飽きるまで、一緒にいさせてよ、とも。
は、と、笑うと、いぶされた気管が痛んだ。

「……馬鹿じゃねえの」
「ふふ、そうね」

家はどこか、と聞けば、カリブ海が見えるよ、と返される。何も言わずに、ラムロウは目を閉じた。そろり、と伸びてきたナマエの手。細い指を、指先で捕まえて、絡め合う。瞼の裏には、青い空と海を背景に、からりと笑うナマエがいた。



Seventh heaven