トニー・スタークのパートナーはとんでもない女だと言われている。
毎夜開かれるパーティーで彼女を見かけない日はなく、夜を過ごす相手は手当たり次第だと言われている。それは彼女と交際する前のトニー・スタークの華麗なる交友関係が霞むほどだ。「彼女とセックスした」とマスコミに吹聴する若いモデルや俳優は少なくない。「アイアンマンの女と寝た男」として、箔がつくからだ。
スターク・インダストリーズの実権を握っているのも彼女である。彼女に気に入られなければ不当な理由で解雇されることも少なくはない。訴訟が起きないのは金を握らせて黙らせているからだとまことしやかに囁かれていた。
世間では知られていないが、彼女はS.H.I.E.L.D.本部に顔を出すこともあった。しかしたいていの場合、入り口で止められるのを無理やり押し切ってやって来ていた。アイアンマンとして、また科学者兼エンジニアとして忙しく働いているトニー・スタークに金をたかりに来ているのだと、口さがないエージェントが言った。トニー・スタークは弱味を握られているから別れないのだと信じられていた。
「いくら払ったら彼の秘密を知れますか」
そう果敢に彼女に話しかけたジャーナリストは、シャンパンを頭からかけられて、パーティーに潜り込むために揃えた高いスーツをダメにした。彼女は笑って、スーツが何着も買えるような枚数の紙幣をジャーナリストに握らせたという。
*
マンハッタンに立つアベンジャーズタワーのエレベーターが高速運転で最上階に向かっていた。トニー・スタークのパートナー――ナマエ・ミョウジは、扉が開くやいなや隙間に身体をねじ込むようにして外へ出た。足早にラボへ向かうナマエの足元では、常ならば10センチはあろうかというヒールが周囲を威嚇するように音を出しているはずだった。しかし今は、ぺたぺたと裸足でほとんど部屋を駆け抜けていくようだった。
「アンソニー・エドワード・スターク!」
ラボのセキュリティをDNA認証で突破し、ナマエはドレスの裾を捌いて甲高く名を呼んだ。
ラボの中央、いつものようにモニターをいじっていたトニーは眉を寄せて招かれざる客を見やる。
「その呼び方は嫌いだ」
「だから呼んでいるのよ!」
手にぶら下げていたヒールを振りかぶったナマエに、トニーは慣れた仕草で片手をかざす。空気を読んだJ.A.R.V.I.S.がパワードスーツを装着させて、なんなく凶器を受け止めた。
「ダミー、ユー、下がってろ」
言われるより先に安全圏に退避していた賢いロボットアームたちに肩を竦めて、トニーは再び投げられたもう一足のピンヒールも受け止める。揃えて作業台に置こうとするが、片方のヒールは無残にも根元から折れてしまっていた。
ルブタンの新作であるそれは、確か――――先日、トニーと"良い仲"になりかけた女性を踏み込んできたナマエが銃をぶっ放した時にも履いていたはずだ。
「新しい靴でも強請りに来たか」
「……何よ。シャネルのバイカラーのやつ買ってくれるわけ」
「君のおねだりとあらば喜んで」
お得意の皮肉を込めるわけでもなく、穏やかに微笑んで言うトニーにナマエはドレスの裾を握り締めた。
「っ私がどんな気持ちで――」
本当はブランドの靴もドレスも欲しくない。派手な化粧も振りまいた香水も嫌いだ。裸足でブラック・サバスのTシャツを着て、髪も巻かず、化粧もせずにごろごろしているのが好きだった。
くしゃりと顔を歪めたナマエに、トニーは作業台に凭れていた腰を上げて歩み寄る。
「――――撃たれたって、どこを」
「ロマノフは大げさだ。脇腹を掠めただけだ」
「パワードスーツ着てたんでしょ。なのに、どうして、っ」
トニーが腕を広げたのを見て、ナマエは傷のことなど構わずに思い切り抱き着いた。
「痛、っ……君の愛情は嬉しいが、傷が開きそうだ」
「馬鹿」
「そうだな。君を泣かせる私は世界一馬鹿だ」
「泣いてないわよ!」
「そうか。それは悪かった」
宥めるように頭を撫でてやる。ヒールを履いてなければ、ナマエはトニーよりも小柄ですっぽりと腕に収まる。そのまま抱きしめてやりながら優秀な執事に問いかける。
「J、名前が乗って来たアウディは無事か」
『いくつか信号は無視なさったようですが、車体に傷はありません。ロマノフ様からトニー様が怪我をなさったことを聞いてすぐに、駆け付けたのですね』
愛されていますね、とAIらしくない軽口を抜かすJ.A.R.V.I.S.に唇を歪める。
当然だろう、と。トニーはパワードスーツを両腕だけ呼び出して、ナマエを横抱きにする。そのままラボの奥にあるソファへと彼女を運んだ。すん、と不器用に鼻をすすっているナマエに苦笑を浮かべ、ダミーにルブタンの成れの果てを取って来させる。
「これはどうして折れてるんだ」
ん?と膝の上に抱きかかえたナマエの顔を覗き込む。
「……アクセル踏み込んだら折れたの」
「頼むから安全運転で帰って来てくれ。君は生身なんだから」
「じゃあ怪我しないで」
「……それは、すまない」
ナマエがどんな気持ちで傷を負って帰って来るトニーを迎えてくれているのか、知らないわけがない。先日、ハニートラップでトニーを暗殺しようとしていたヒドラの女性エージェントを撃った時は、トニーが肝を冷やした。銃など握ったこともなく、反動で痛めた肩よりもトニーのことを心配して。
「愛して、むぐっ」
「その言葉でごまかそうとしないで」
来る途中に涙を拭ったのだろう、マスカラで汚れ、しょっぱくなった掌がトニーの口を塞ぐ。どうせなら口で塞いでくれれば良いものを。パワードスーツを床へと転がして、ナマエの手首を掴んでどける。
「じゃあどうすればいい」
「怪我しないで」
「……そうだな。じゃあ危険だと思ったら、ハルクと雷の神様、我らがキャプテンに押し付けて逃げることにしよう」
「ちゃんと帰ってきて。怪我したらちゃんと言って」
「もう矛盾が生じてるぞ。痛っ」
それなりに容赦のない力で肩口を殴られた。どうやら、今日の怪我を隠すつもりだったことは彼女はお見通しらしい。
「愛してる」
「僕に先に言わせてくれよ」
「嫌。トニーはわかってない。私がどれだけあなたのこと」
「わかってるよ」
トニーがアイアンマンになることで、手から離れてしまった社長業を肩代わりしているのはナマエだ。パーティーに行くのは情報収集と人脈作りのため。トニーとは違って彼女はああいう場所は好きではない。
スターク・インダストリーズに潜り込んだ敵のスパイをふるい分けて、S.H.I.E.L.D.に情報提供しているのも彼女だ。彼女が本部に乗り込んでくる時は、トニーが任務から帰還した時だ。多くの場合、怪我を負って。
「嫌いなヒールを履いて、パワードスーツの代わりにドレスと化粧で武装して。全部僕の為なんだろう」
「……、……殿方は口紅の濃い女とキスをするのが嫌だと」
「誰がそんなことを?」
「今日のパーティーで絡んできた馬鹿よ」
「口紅を舐めとるプロセスも楽しめないとは可哀想に」
君の唇は甘い。トニーは言葉通り、真っ赤なルージュを全て食べてしまった。本来の色を取り戻した唇を満足気になぞり、ユーに指示して持ってこさせたクレンジングシートをナマエに渡す。ぽいぽいとアイシャドウやファンデーションのついたゴミが床に捨てられていく。
「これで、僕の好きな君になった」
「……派手な私は嫌い?」
「僕より身長が高くなるヒールは嫌いだ。キスがしづらい」
む、と子供っぽく拗ねて見せたトニーに、ナマエはようやく吹き出すように笑った。
「んむっ」
「愛してる」
「わか、ん、わかったからっ、ちょ、んー!」
口の周りについていた口紅も唾液も、全部ぐちゃぐちゃになる。
「明日は朝から一緒にパンケーキを焼いて、ハンバーガーとドーナツを買いに行って、一日中ベッドでごろごろしよう」
きらり、とナマエの瞳が光る。
「……映画は?」
「君の好きな映画を」
「アイアンマンとして呼び出されるかも」
「アベンジャーズは優秀だ。彼等に任せて、明日は君とずっと一緒にいる」
「絶対?」
「……ああ、絶対だ」
何度キスをしても、何度「愛してる」を伝えても足りない。
君がいるから、頑張れる