偶々足を運んだ小さな食堂だった。床板は客の靴底に擦れて鈍い色に光り、食事が美味しく見えるような柔らかい色の照明が選ばれている。小さく聞こえるBGMも、なかなか悪くないチョイスだ。隅の方のテーブルには、常連らしい初老の男たちが数人、ぼそぼそと会話をしている。
 とりあえずオススメを、と頼んで出てきたのは、この土地の郷土料理らしい。見るからに美味しそうだった。

 「これはねえ、うちの娘が作ったんですよ」

 店主らしき男が声をかけてきた。見た目通り、いや見た目以上に美味くて、がっついていた自覚もあり、にこにこと笑う男に、多少ばつの悪い思いをする。
 呼ばれて顔を出した娘は、眦を垂らして微笑んだ。

 「こんにちは。あ、もう、こんばんはですね」

 イリヤの、好みの声だった。最初はきっと、笑顔に、その次は声に、惹かれた。挨拶を返せば、すぐに引っ込んでしまったのを、残念にすら思った。

 食材は安くていいものを。栄養にも気を遣って単身者からも好評。売り文句を並べ立てていたのが、いつのまにか、娘のことになっていた。父親の贔屓目なしに、気立てのいい娘。常連とも気さくに話し、浮かべる笑顔を、つい目で追った。



 「別に…、味は悪くなかった」

 電話の相手であり、仕事上の相棒であるソロにそう言った。素直でないなという自覚はある。

 『よかったじゃないか。俺のおかげでお前も随分舌が肥えただろうから、心配してたんだぞ』

 イリヤの心配のようでいて、結局は自慢である。ソロらしい言葉に、イリヤは、ふん、と鼻を鳴らして、電話を切る。



 酒屋で偶然出会ったナマエ。会話の流れで勧められた地酒は、彼女の料理同様、とても美味しかった。チームへの土産にしようと、もう一度栓をしてシェルフに立てておいた。



 「おはようございます。今日は、何にします?」

 何日か空けて、同じ店に行けば、あの、ほっとする笑顔があった。朝だからか、店はそこそこ混んでおり、イリヤの通りにくい声を聞くために、少し前のめりになったナマエからは、ソースのいい匂いがした。

  「あら、こんにちは。お昼もここで?」
  「悪かったか?」
  「…いえ、ありがたいんですけど」

 父に気を遣わなくてもいいんですよ?と首を傾げる。美味くなかったら来ない、と珍しく素直に伝えてみれば、嬉しそうに笑う。夜はポトフだという。楽しみだ、と思った。

 「こんばんは、ポトフ、できてますよ」
 
 おやすみなさい、と笑顔に見送られて、借りている部屋に帰宅する。暗くて、なんだかいやに寒い。熱いシャワーを浴びて、今日の分の報告をまとめた。寝台で毛布にくるまっても、やはり、寒かった。