これはねえ、うちの娘が作ったんですよ。聞こえてきた父の声。初めてのお客さんが来るとすぐこれだ、と苦笑しながら、ナマエは食器を洗って濡れた手を拭いた。
「ナマエ、ちょっと来なさい」
「はあい」
バタ戸を押し開けて顔を出すと、青い瞳とかち合って、その鋭さに、ちょっとどきりとした。カウンターの端に背中を丸めて座っていたその人は、その前に立つ父と比べて、背が高くて、がっしりとした体つきをしているみたいだった。父もそれなりに、大柄だというのに。
「こんにちは。あ、もう、こんばんはですね」
軽く顎を引いて応えてくれた、無口な人。少しだけ、視線や雰囲気が怖い、というのが最初の印象。
「真面目そうな青年じゃないか」
また始まった。閉店後、床の掃除をしながらナマエは肩を竦めた。若い男の人が来るとすぐこれだ。ナマエのうんざりとした気配を感じ取ったのか、父は苦笑する。
「結婚を急かすわけじゃないさ、だが、恋人のひとりやふたり、いてもいい年頃だろう」
「2人もいらないわよ。ほら、早く寝て」
でもなあ、とぼやく父の背を、二階の住居に押しやった。
ハーレクインの恋なんて嘘っぱち。会ってすぐに誰かを好きになるなんて、そう思っていたのに。恋をするのに時間は要らないのだと、後で知ることになるなんて、この時は思いもしなかった。
「例のお客と酒屋にいたそうじゃないか」
「父さん、偶々会って、少しお話ししただけだから」
「そうかい?」
「おはようございます。今日は何にします?」
「あら、こんにちは。お昼もここで?…いえ、ありがたいですけど」
「こんばんは。ポトフ、できてますよ」
「ねえ、父さん。今度のお休み出かけてもいい?」
「ほうらやっぱり、ああいう男が、お前に合うと俺は思ってたよ。ちゃんと女らしい格好をするんだよ」
「そういうのじゃないったら」
彼が本名を教えてくれなかった時、胸がつきり、と痛んだけれど、それでもナマエは笑って見せた。
「ボルシチ?そういえば作ったことないかも…、出来は期待しないでくださいね」
「美味しいですか?ふふ、よかった」
怖いと思っていた青い瞳や纏う気配が、ふと緩む瞬間がある。そういう瞬間を逃さないよう、逃したくないと思う頃には、ナマエは彼に、恋をしていたのだろう。