「彼の名前は、"ジョン・スミス"だ」

 イリヤは素直に渋面をした。ふざけているのか、と、口ほどにものをいう厳しい目を向けられても、ウェーバリーにはきかない。

 「君の祖国風に言うなら、イワン・イワノヴィッチかね?彼の現在の潜伏先にちなんで、Monsieur Untelでもいいね」

 妙にフランス語の発音がいいのが癪にさわる。起立した状態で腕を組み、イリヤはとんとんと指先を動かした。彼は苛立っていた。

 「……彼に会って、俺は何をすればいい」
 「彼が率いていた反政府組織、その構成員のリストが欲しい。ま、そうう仰々しいものではなく、少し過激なデモ活動をしていたくらいだが、約20年前に解散している」

 表向きはね、と、ウェーバリーは瞳を光らせた。

 「件のムッシューも姿を消したはずだが、今になって、構成員の一部が、犯罪に手を出し始めている。麻薬や銃の密輸、人身売買などだね」

 ここにまとめてある、と渡された書類に目を通す。
 確かに、警察には少々、手に負えないだろう。もともと、国境など関係なかった連中だ。

 「そして、ムッシューは当時のNKDBに、辛酸を舐めさせられたようだ。出産したばかりの妻が彼の身代わりに捕まってね。居場所を吐くように酷い拷問を受け、その後は不明だ」

 どの国の、どの組織にだって、そういった話はあるだろう。だが、自分の国の組織の話は、苦さが先に立つ。沈黙するイリヤに、ウェーバリーは話を続ける。

 「彼は赤ん坊を連れて、姿を隠してきた。完璧にね。私の部下が何度か接触を試みているが、彼自身ではなく、彼の手足…ともいえないような、爪の先どまりというところだ」

 机の上で組まれたウェーバリーの手。そこに刻まれた皺に目を向けていたイリヤは、顔を上げた。

 「出発は」
 「今日の夜の便を手配してある」

 チケットとパスポートの入った封筒を渡されて、イリヤは一つ頷いた。


 ウェーバリーが進めていた交渉がうまく行き、正式な代理人と会う手筈が整った。交渉の席であるバーにやって来た、ベルナルド・デュランは、男盛りといった容姿で、四十手前といったところの年齢だろう、とイリヤはあたりをつける。

 「よりにもよってソ連の人間を寄越すとは」

 皮肉げに口を歪めたベルナルドは、20年前に起こった出来事をよく知っているようだった。

 「パードレは気難しい男だ。それなりのものを呈示してくれなければ、彼は現れない」

 ウェーバリーと共に、毒にも薬にもならないような情報を取捨選択して、渡す日々が続いたが、ベルナルドの態度は変わらない。

 「……何故、彼をパードレと呼ぶ」

 聞いたところで、何にもならないことを尋ねる程度に、イリヤはうだっていた。

 「彼は、我々手足を使役する頭に違いない。だが、同時に、我々の最良の友であった。時には兄となり叔父となりそして何より、素晴らしい父親だったのだ」




 ベルナルドの底なし沼を思わせる黒の瞳が、どこか澱んでいたことを、イリヤは思い出した。
 イリヤ?とギャビーが心配げに自分を見上げている。

 「――護衛は、必要ない」
 「え?」

 少し視線を巡らせれば、人混みのいたるところに、鋭い目つきをした男たちがいる。ずっと、彼らは近くにいた。そして、イリヤを見張っていたのだろう。
 奇妙な一致だが、今イリヤ達が立っているのは、ナマエと休日に出会ったあの酒屋の前で。店主の男が、イリヤを一瞥して視線を逸らす。ナマエと街を歩いていた時に、男たちはナマエに声をかけていた。この街で育ったナマエを、昔から見守る大人として。店にいた常連連中こそが、ナマエの護衛だった。そしてそれを命じていたのは。

 「行くぞ」
 「ちょ、ちょっとイリヤ!」

 ギャビーは、大股で歩き出したイリヤの背を追った。ソロが、危ないかもしれない。