はい、もしもし。

もしかして今帰ってきたところ?

――がさっ、がさがさ。

うん。入力ミスが見つかったんだけど、張本人が帰っちゃっててさ、サービス残業。夜ご飯食べてないしで、コンビニ寄ってきた。

――ぷしっ、

おつかれ、って、おいビール開けてんの?

だって暑いんだもん。あーあ……。

なんか元気ないのな、どうかしたのか。

いや、まあ……、

ことん。

ちょっと不思議なことがあってね――。


PCの電源を落として時計を見れば、うんざりするような時刻を指していた。オフィスの電源を落として、薄暗い廊下を進む。かつん、かつ――、ん、妙に響く足音。冷房はいつも終業時刻とともに切られる。むん、と、熱気がまとわりついて、べたべたするシャツを扇ぎながら、廊下を歩いてた。

あ゛、あ゛あ……。

何か聞こえた、そう思って振り返るけれど、非常灯の緑っぽい光で照らされた廊下の奥には何もいない。おかしいな、って漠然と思ったんだよね。
うちの会社ぼろだから、エレベーターも止まっちゃって、残業する人は、外付けの非常階段を降りるしかないの。夜中とはいえ、交差点を走ってる車がが見えて、ちょっと安心した。
かつん、かつん、
風もないから、空気が淀んでるみたい。階段のすぐ下がゴミの収集場だから、本当に臭いし、早く降りようと思って。
かつ、かつ、かつ、かっ、
足が止まって、思わず、手すりの隙間から、階段の上の方を見たんだよね。だって、ひた、ひた、ひた、って、一定の調子で足音が聞こえてきたから。鉄づくりの階段だから、そんな足音が出せるのって、裸足でしょう?
かつ、かつ、かつ、かつ……。
踊り場で階表示見たら、まだ3階。慌てて、小走りで降りたの。ひたひたひたひた、って、追いかけるみたいに、足音はついてきて、ようやく2階、ってところで、それは消えたの。ふう、ふ、と、荒くなった息を落ち着けて、恐る恐る、もう一度、上の階を覗いてみたのね。
…………何が、見えたと思う?
白い男の子と、目があったの、逆さまで、こっちを覗き込んでて、ひた、ひた、って、また足音が聞こえて、おかしいよね。だって男の子はそこから動いてないんだもん。
折り返して、上に続いてる階段が真横にあってさ、……手がね、見えたの右手と、それから、左手。あ゛あ゛あ゛あ
、って、苦しそうな声を上げながら、血まみれの女の人が四つん這いで、降りてきてた。
無我夢中でコンビニまで走って、こうしてゴーストフェイスに電話してるというわけ。


ナマエは、ふう、と息を吐いて、またビールを流し込んでいるみたいだった。災難だったな、と言えば、やっぱりあれって幽霊なのかな、と聞かれる。

「……まあ無事だったならいいじゃん」
『もう汗かいて気持ち悪いけど、朝風呂にしようかな。髪洗ってていたら怖いし』
「何だったら、俺が一緒に入ってやろうか」

笑い混じりに言えば、ヘンタイだ、と電話口で笑われる。

「ひどいな、心配してるのに。ところで俺、今、さっきの話で出てきたコンビニにいるんだけど、なんか買い足していくか?」
『え………………』

何言って、と少し震えた声で言われるのに、背中がゾクゾクする。幽霊だか何だか知らないけど、本当に恐ろしいのは、殺人鬼だろ?

「次の角を曲がって、その先をずっとまっすぐ行ったら、ナマエの家だもんな」
『住所なんて、教えてな、っ……』
「…………ナマエ?」

不自然に、電話の向こうが静かになる。つられるように、ゴーストフェイスも、曲がり角で止まる。

『今、なにか……』

聞こえたような、とナマエが呟いて、耳をすませているのか、静かな呼吸音。立ち上がり、歩いていく音が聞こえる。どうやら、電話を置きっぱなしにしたらしい。
たったったったっ……、と、走る音がして、ぞ、と思わず電話を耳から離す。――人が走るにしては、軽すぎる足音だ。小さな子供のような笑い声も、交じって聞こえた。

「おい、ナマエ……?」

っ、いやああああああ…………、と、遠くで悲鳴――ナマエの声だ、が聞こえて、追いかけるように低い笑い声が、今度は大人の男のもの。きぃ、ぎぃ、と金属の擦れる嫌な音。

「ナマエ!?おい!!!」

もしもし、と呼びかけるけれど、笑い声は止まない。慌てて、道を駆け抜けて、ナマエの家に向かった。マスクの下を、嫌な汗がだらだらと垂れていく。黒い衣装が、じっとりと動きを拘束した。
はあ、と息を吐いて、裏口の前に立った。ナマエを殺すために手入れしたナイフを、しっかりと握る。電話の向こうは、ひっそりと静まり返っていた。おそるおそる、耳をすませた。何だ?何が起こってる。

『……あ゛、あ゛あ゛あ…………』
「ひ、」

がしゃり。と手から滑り落ちた携帯から、きぃいいいい、んと、嫌なノイズが流れて、顔をしかめて耳をふさぐ。ぶつっ、つー、つー、と電話が切れた。
どくん、どくん、という心臓の音が、耳のすぐ裏で聞こえてるみたいだ。後ろ手でドアノブを探る。

ぎぃっ、ぎぃっ、どるるるる……

「へ、」

あまりにもいろいろなことが起きすぎてショートしそうな頭を右に向ければ、庭に続くほうに、大男が立っていた。手には、臨戦態勢のチェーンソー。
――なんで、ここで、チェーンソー?

どるんっ、ぶぃぃいいいいいいいん!!

「ちょ、ぎゃああああああああああ!!!!!!」

ぎらり、と、顔の下半分を隠した男の瞳が光り、唸るチェーンソーを手に突っ込んでくる。がちゃがちゃとドアノブを回して、背中から家の中に倒れこんだ。
明かりがついていないのを差し引いても、やけに暗い。ずれたマスクを直しながら、視線を上に向けて、ゴーストフェイスは硬直した。
ツナギ姿のマスク男と、ホッケーマスクの大男が、各々、凶器を片手に、憐れな闖入者を見下ろしていた。
……あ、ちょっと、漏れた。がくり、と、お面をつけた頭が、廊下に沈んだ。



夏の風物詩

(でっかいゴキブリだったあ……フレディ笑ってないで助けてよ。うう、きもい)
(おい、ナマエ、なんかストーカー捕まえたぞ)
(え、誰?)