「(ナマエ)」
「ヴィンセント」
「(今日はとってもいい天気だよ)」
「ぽかぽかしてて、とってもあったかいね。いいお天気」
にこにこと笑うナマエの手を握りしめる。閑散とした蝋人形の館は、僕らの遊び場だった。不気味な人形が立ち並ぶそこは、ナマエの想像の中では彼女が住むお城だった。ダンスホールで舞踏会をするときに、僕はお姫様が恋をする王子様だった。
あの子の前でだけ、僕は怪物じゃなくて、王子様になれる。
僕は昔から手先が器用だった。ボーも素直に認めるぐらいだから、僕もそれなりに、プライドがある。でも、蝋細工でつくった花を、彼女にプレゼントしたときには緊張した。
彼女の細い指先が花弁の縁を辿るのを、僕は伸ばした髪の隙間から、じっと見つめていた。
「とってもきれい。ありがとう」
ナマエは、少し照れたように言って、何かお礼がしたいと言った。彼女は僕のお姫様だから、そんなことする必要はない。僕は、彼女の前に膝をついて、騎士の真似事をしてみせたんだ。
「("とうぜんのことをしたまでです。おうつくしいおひめさま")」
それから、ワンピースの裾をつまんで、そっと唇をつけた。ちょっとだけ困ったような顔をしたナマエは、それでも芝居がかった仕草でこう返してくる。
「"それでは、わらわからはほうびのキスをおくりましょう。うるわしいきしさま"」
目を瞑って、背伸びをした彼女に、僕はちゃんと顔がある方を差し出した。柔らかい唇の感触は、僕の宝物だ。
騎士だけじゃない、スーパーヒーローにだってなれる。ボーが、悪の親玉で、レスターはその子分。さらわれたナマエを、僕が助けに行くんだ。ボーも、ナマエが絡むときだけは、妙に優しくなるから、そんなヒーローごっこにも付き合ってくれた。ふざけすぎて、蝋人形を壊してしまっても、まだ生きていたママは、怒ったりはしなかった。
どこで狂ったのかはわからない。僕は見た目が怪物で、ボーは中身が怪物だと、ママはそう言い続けていたけれど、ママが生きている頃は、ナマエや僕ら兄弟にも、普通の幸せがあった。
街の人が蝋人形に変わっていく中で、僕はボーに、ナマエだけはやめてとお願いした。
「(ナマエ)」
「ヴィンセント」
「(今日は寒いね。すごい雪だ)」
「手が冷たい。冷えこんでるものね」
ナマエはにこにこと笑っている。小さい頃から、その笑みはちっとも変わらない。僕も、ボーも、アンブローズの街も、そこに住む人も、みんなが変わっていく中で、彼女だけは変わらずに、僕のお姫様なのだ。
ボーと一緒に、炎に包まれる中で、思った。僕はやっぱり、怪物だったのだ、と。でも、君の中で、僕はハンサムな王子様で、麗しい騎士様で、そして正義の味方のヒーローのままだ。
しっかりとボーのことを抱き締めて、僕はそっと目を閉じた。僕の隣でナマエが笑ってる。これまでも、これからも、ずっと。
* * *
サイレンの音がたくさん近づいても、私は、家の中でじっとしているほかなかった。今までずっと、そうやって生きてきた。ヴィンセントが、私を外へ連れ出してくれない限りは、私は、ずっと家の中にいる。
急に、家の扉を激しく叩かれて、びっくりした。だって、ヴィンセントはいつも、優しく三回ノックして訪ねてくるから。革靴の音がして、ボーやレスターでもないことがわかる。彼らは革靴を履かない。
「失礼、Ms.ーーーーー」
私を見て、ちょっとだけ驚いたように、言葉を切った。男の人は、警察だと、名乗った。けれど、それが本物かどうかを確かめる術が、残念ながら私にはない。私の世界は真っ暗闇だ。多少の光は感じられても、この目が何かを見ることはない。
事件のことを知っていますか、と言われても、私は知らなかった。母は私が物心ついた時に出て行ってしまっていたと思っていた。けど、母は蝋人形にされて、ずっと今は使っていないこの家の物置にいたのだという。知らない、と首を振る。
唯一知っていることは、ヴィンセントのことだけ。
「彼は、ヴィンセントは、静かな人でした」
私には空気みたいな人だった。私は目が見えない。そして、彼は、話さない人だった。ただそこにいた。一緒に、いてくれた。
ヴィンセントは、素敵なダンスをしてくれる王子様で、守ってくれる騎士様で、困った時に助けてくれるヒーローだったのだ。彼のおかげで、目が見えない私も、母にできそこないと言われた私も、お姫様になれた。物置は、母が私を折檻した場所だ。彼は彼のやり方で、母を、怪物を倒してくれたのだ。
「殺人鬼なんかじゃ、ありません」
おとぎ噺の結末は